12/23(木)
7時半起床。何と規則的な生活だろう(笑)。
朝食後、「チュニスエアー」日本事務所に連絡を取る。ロスバゲ中の費用弁済についての話を詰めるためだ。ところが担当のSという女性は
「うちらはただの代理店なので知らないよ」
と逃げを図り出した。確かに事後サイトで調べると、チュニスエアーの日本サイト(http://www.tunisair.jp)を運営しているのは株式会社エアシステムという会社(http://www.airsystem.jp/)らしい。でも電話したときは「チュニスエアーです」としか言わないし、そもそもロスバゲ中の費用弁済について言ってきたのはそっちでしょ? と問い詰めると「そんなことは言った覚えがない」と逃げ口上で応じる始末。完全に水掛け論かつ並行論に終始する。はあ?
いわゆるCRMという観点からは、彼らの対応には大まかに言って2つの問題がある。即ち、
・最初から自分達はただの代理店なので責任は取れないと門前払いを食わせなかった点。
・一旦費用弁済について示唆してしまったならば、それが「たかり」に属するものでなければ、営業費用などの名目でとっとと支払ってしまった方が顧客対応としては悪評の広がりを抑止できるのにそれを行わなかった点。
帰国後にこのSという担当者には電話をかけてじっくりステップごとに話を確認して問い詰めたのだが、その直後にベンアリ政権が潰れてしまった(チュニスエアーの実質的な経営者はベンアリの親族だったらしい)こともあり、反応が未だにない。ちなみにロスバゲ中にかかった費用は1万5千円くらい。これをケチることで生じる利益がどの程度なのか、私は未だに理解できない。そんなに潰れそうな会社なのか?
#なお、3月末に私の口座番号やSWIFTコードを教えて欲しい旨連絡が来たので、ある程度の補償には応じる意思はある模様。
腹が立つばかりで下らない話はこのくらいにして、12/23の行動予定は下記の通り。
トズールからエル・ショット・ジェリドという塩湖を横断し、ケビリ経由でドゥーズ入り。ドゥーズで時間を潰した後、ドゥーズ郊外にある砂漠地帯で一泊。今回のチュニジア旅行の目玉の一つである。
まずは運転手のA氏の案内でトズールの市場へ。小さい町なので市場と言っても規模も慎ましいものなのだが、マグロの切り身を試食することができた。前日の移動中もガフサのカルフールでA氏お勧めのツナの缶詰を購入したりしていたのだが、チュニジア人はマグロが好きらしい。A氏もバトゥータ・ボヤージュの社長に連れられてチュニスの寿司屋に行ったことがあるらしいが、こんな内陸部の都市で生のマグロが食べられるのかとは……。ちなみにマグロは結構おいしかったです。ううむ、こんなんならビデオカメラで撮影しながら「ほんとですか〜、おいしい〜」とか某「トラベリックス」風にやれば良かった。
その後、市場の裏手にあるトズールの旧市街を改めて見学。トズールの旧市街はベルベル人(この呼び名は余り好ましくないので、「アマージーグ人」と呼ぶ方が望ましい)の家というか住居が沢山見られる。実際、町の作りは例えばスースとかのメディナとは明らかに異なり、よく言えば素朴、悪くいえばボロい。でも家のそれぞれのファサードにそれぞれの意味があるそうで、そういうのを研究することは面白そう。
一通り見物を終え、車に乗りトズール近郊にあるツーリスティックゾーンに移動。トズールはチュニジア最初の国民的詩人と言われるアブー・エル・カセム・シェビ(1909-1934 ,
http://fr.wikipedia.org/wiki/Abou_el_Kacem_Chebbi(fr))の出身地ということもあり、各所にそれを記念する像が建てられている。ちなみに水をためておくための壺も有名らしい。
そんなわけでツーリスティックゾーン。「ベルヴェデール」という見晴台にはアブー・エル・カセム・シェビの顔を彫った、マウントラッシュモアみたいな場所がある。その脇を登り、岩山の上に立つと確かにトズールの町とオアシスが一望の下に見渡せる。で、反対側にはゴルフ場が。ミシュランなどのガイドによると、このゴルフ場は2004年くらいにできたらしいのだが、水をドカドカ消費する割には余り収益に貢献していないとかで、非常に評判が悪いらしい。だからさー、こんな内陸部までわざわざ来る人はゴルフなんかやるかよ……。むしろいわゆるオリエンタリズム丸出しのオアシス情緒を求めてやってくるケースが少なくともヨーロッパの観光客にゃ多いんだから、むしろそういうのを売りにすればいいのに……
トズールを離れ、11時頃ドゥーズへと向かう。途中、前日同様A氏は大量の蜜柑を買ってきてくれ、「ビタミンC」を連呼して食べるように勧める。有り難い。
ショット・エル・ジェリドは写真からも分かるように塩湖で、そこで生成される塩は主に工業用として輸出されるらしい。そんなわけで食べてはいけないらしいのだが、途中途中にトイレも兼ねて存在している土産物屋の脇には塩が積んである。
で、チュニジアの内陸部の土産といえば「ローズ・ド・サハラ」と呼ばれる薔薇の形に固まった砂(砂岩)なのだが、正直余り欲しいという気が起きない。こういうものを買い求めたとしても、残念ながら私の机とかには飾るべき場所がないのだ。さすがにベルリンに行ってきたときにはベルリンの壁の欠片(ホンモノかどうかは分からないけどとりあえず「ベルリンの壁博物館」にて8ユーロで購入)を買ってきたことは買ってきたのだが、一辺が15センチくらいある砂の塊買ってきてもなあ……
運転手のA氏はこの2日間のつきあいで私がそうしたものに余り興味を示さないということを了解していたらしく、「面白いものを見に行こう」とショット・エル・ジェリド対岸にある灌漑施設へと私を案内してくれた。
この施設は湧出するお湯を脱硫することで普通の農業に使えるような水準にし、近くにあるビニールハウスまで引っ張ってきてトマトやらメロンやらを作っているという。実際湯をすくって臭いをかいでみると懐かしい温泉の香りがする。おお、入りてえと風呂好きの血が騒ぐがそんな生やさしい温度ではない(60℃ぐらいあった)ので無理。
更に車を走らせ、今度はDebabchaという町というか集落へと行く。この砂の盛り上がりは人為的に形成されたものではなく、砂岩が浸食されることで形成されたという。こいつは面白いと眺めていたのだが、この頃からものすごく風が強く吹いていて、角度によっては目を開けて進むことができない。仕方がないので土産物屋で売られているアマージーグ人の民族衣装のうち顔面を覆うターバン状のものを買い求めようと思ったのだが、顔に巻くとメガネがかけられない。また、「平たい顔族」の小生だと彼らの顔面マスクの額の部分がずり落ちてきて気がつくと悲惨な状態になっているので諦めた。要は鼻のラインが違うので布を食い止められないのである。くやしい。
仕方がないので防寒用に持参したマフラーで顔面をぐるぐる巻きにし、砂が鼻の穴とか口に入り込まないようにする。勿論口はその上からマスクにて保護。それでも目には時折砂が入るので目薬は必須。
午後1時過ぎ、ドゥーズに着く。この時期ドゥーズはサハラ・フェスティバルというお祭りをやっており、近所の国から砂漠の民が集結している。昼食をとることにしたレストランの屋上テラスからも、様々な民族衣装を着た人々がラクダなどに乗って通り過ぎていくのが見える。確かにこんな田舎町とは思えない賑わいだ。運転手のA氏はこの町で私を待って1日潰すことになるのだが、宿が取れるかと心配していた。最悪の場合はトズールまで戻るという片道120kmの行程を繰り返さなければならないからだ。
レストランではいつものようにクスクスを食べる。ここまで来たらチュニジアを離れるまで全部クスクスで乗り切るしかない(笑)。実際クスクス以外で食べた料理といったらチュニスで食べた焼肉定食みたいなものくらいだけだったような……ちなみにこの店のクスクスは写真通り大きい唐辛子が乗っかっていて、それを食ったら卒倒するほど辛かった。「辛ぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!」と日本語で叫んだら店のお兄さんがゲラゲラ笑う。
砂漠ツアーをやってくれる旅行代理店への集合は午後3時なので、しばらく時間を潰す。途中すれ違う人々の民族衣装について、A氏が色々教えてくれた。白い服はリビアの騎馬民族の正装であるとか、黒地に帯を回したのはトゥアレグ族とか。
3時過ぎ、旅行代理店に着いて、最終的なスケジュールを確認する。ところが、いつまで経っても客とおぼしき人間は私一人。
「客は俺だけか?」
「本当はもう少しいたんだが、欧州の大寒波のせいでみんなキャンセルになってこなくなった」
ええええええええええ?
それでも砂漠ツアーやるのか?
で、旅行代理店事務所から車で15分ほどのところにあるラクダ乗り場に移動し、今回のツアーを担当してくれるオヤジさんと合流。名前を聞いたのだが、アマージーグ語なので全く聞き取れず。ムハメドだったっけな?
しかもこのオヤジさん、フランス語が殆ど話せない。単語の羅列はできるのだが、動詞の活用ができない。まともに話せるのはアマージーグ語とフスハーと現地のアーンミーヤだけ。だから困ったときには身振り手振りとか地面に絵を描いたりとか、どこかの芸能人が外国に連れて行かれたときのようなコミュニケーションを行っていた。従って、以下に会話の様子が出てきたとしてもそれは単語の羅列と当方の貧しいアラビア語と膨大なジェスチャーと想像の産物であることを理解して欲しい。
食事と水を含めた荷物を一頭のラクダに、そして私はもう一頭のラクダに乗って、3時半頃ツアー出発。ありゃりゃ、本当に俺一人だ。
この日は日中は砂が激しく、砂嵐とは行かないまでもメガネは砂まみれになるし顔面のその他のパーツもあっという間に砂まみれになる。紛失を危惧してマフラーは一旦外していたのだが、頭を振るとそのたびに砂が目の前に降ってくる。困った。そんなわけで動画の音声もアナログ停波アナログマさようならな状態になっているのが分かると思う。
1時間半ほど歩いた後、今回の宿営地にたどり着く。砂漠といってもどこもかしこも砂ばかりというわけではなく、灌木は若干生えている。どうも去年の秋に雨が結構降ったそうで、そのお陰でもあるそうな。ショット・エル・ジェリドにも水が沢山あったのはそのためだとか。
デジタル機器というかカメラ類を趣味にしている人なら気にしておられたと思うが、ここも一応砂漠なので非常に粒子の細かい砂がどこからともなく入ってくる。人間様ならひとっ風呂浴びて服を洗えば大体解決だが、精密機器はそうは行かない。実際いくつかのブログを読むと見事にEOS 5DMK2とか他のデジカメなどを壊した人の話とかが出てくるし、以前モロッコに行った会社の同僚もデジカメがオーバーホール送りになったという。そんなわけで今回の砂漠ツアーでは使用した電子機器は全てこの写真のようにラップでぐるぐる巻きにし、使わないものについてはケースの上から更にガムテープとラップで包装するという徹底的な保護策を施した。お陰で故障は今でも全く起きていないが、裸で使っていた三脚はジョイント部がジョリジョリいっておりまする……。もしかすると修理送りかも。
日没。本当に静かな時間が流れる。ラクダ引きのオヤジさんは薪を集めにどっかにいってしまったので、砂漠で沈む太陽を一人眺める。
このような風景は日本では出会うことができない。太陽が傾くのに歩調を合わせて一気に下がり始める気温、そして冷たくなる風。風の他はラクダが餌を食べる音と反芻音が時折聞こえてくるだけ。時間が流れるのが分かるのは太陽の光の変化だけ。
日没を確認後、私も薪を拾いにあちこち歩く。それなりに沢山集まったので火をおこして夕食の支度をオヤジさんが始める。沢山あるとはいっても太い薪が沢山あるわけではないので、当然ながら火のメンテはこまめにしてやらねばならない。私もガキの頃はキャンプとかで鍋当番とかしつつ火を起こしたりお守りをしていたりしてはいたので、ある程度そのあたりの勘はつかんでいると思っていたのだが、
全然うまくいきません。
薪が細すぎてこちらの技術が全く通用しない。ところがオヤジさんはそのあたりうまく心得ていて、巧みに火を管理する。褒めると喜ぶ。親指を立ててコミュニケーション。
晩ご飯はジョルバというスープを前菜に、当然クスクス。ものすごい量があった。こちらも腹の限りガンガン食ったのだが、それでも余った。多分他の客の分も考えて準備していたんだろうな。勿体ないことしたな……。デザートはみかん。
焚き火を見つめながら、色々と話す。意思疎通が十全にできていたわけではないので、内容面は多分に想像で補う他はないのだが、彼にはナセルとアマールという二人の息子がいるそうだ。
「だがドゥーズには仕事がない。ベルベル人が定職に就くとしたら庭師(ホテルの庭園管理)か俺のようなラクダ引きしかない。」
「失業率高いからな、チュニジアは」
「しかも、砂漠ツアーは色々な旅行代理店に中間搾取されるので、決して儲かる仕事ではない。息子達には苦労の多い人生を歩んで欲しくない」
チップをくれという暗黙のお願いが含まれているとしても、これは偽らざる親心なのだろうと思う。実際、ドゥーズの失業率は40%近くに達する。若者に限定してみたらもっとこのパーセンテージは高いだろう。コネにコネを駆使して仕事にありついたとしても、決して給料がいいとは限らない。
「例えば奨学金とかはないのか」
「ない。この国は貧しい」
「勉強して身を立てて欲しいと俺も思うよ」
「ありがとう。ドゥーズは特に貧しい。フェスティバルの時以外はひどい町だ」
#とは言ってもチュニジアは大学までは授業料はほとんどタダです。独裁的なベン・アリではあったけれどもこの点は評価されてもいいと思う。でも教科書から文房具までほとんど無償支給されてたブルギバ時代に比べるとかなり後退していたそうだが。
そんな話をミントティーをすすりながらしていたら夜の10時になった。オヤジさんはテントを組み立ててもいいというが、一人の客のためにそこまでしてもらうのは気の毒だし、寝ているときに星空をダイレクトに見たいので、スリーピングバッグと毛布を足して2で割ったような敷布兼毛布を砂の上に数枚重ねて敷き、それにくるまるような形で身を横たえる。
さすがにものすごく寒いので、マフラーを顔にぐるぐる巻きにして、手袋をはめて靴下をもう一枚重ね履きして就寝。