12月19日(日)
朝6時半に目が覚める。この日はカルタゴとシディ・ブ・サイドに行くことにしていたのだが、チュニス空港のサイトを調べてみるととりあえず夜のフランクフルト発便が到着しているらしいので、再びチュニス空港でロスバゲ係と掛け合う。だがこの日も収穫はなし。前日に「チュニスエアー」の日本支店から本国窓口でも掛け合ってくれと言われたのでとりあえず開いていたチュニスエアーの窓口で訊いてみたところ、担当者はロスバゲに関するワルシャワ条約すら知らず、ひたすらロスバゲ窓口に行けと繰り返すのみ。このまま帰国したとしたら損害賠償請求はどうすりゃいいんだろうね? そもそも航空会社の顧客対応窓口担当者がワルシャワ条約について知らないというのは初めてですよ。勿論その後に締結されているモントリオール条約も知るはずもない。ひでえ。
#ちなみにチュニスエアーはワールドトレーサーに加入していない。従ってロスバゲが発生した際には搭乗者の側で荷物の現況を調べることができないため、それ以外に乗るものがないとか余程の事情がない限りは搭乗を勧めません。ワルシャワ条約は一応批准しているようですが。
というわけで空港からチュニス・マリン駅に向け出ているバスに乗り、カルタゴやシディ・ブ・サイド行きの郊外電車が出ている同駅に向かう。
地理的関係としてはシディ・ブ・サイドの方が遠くにあるので、まずはそこに向かい、帰りにカルタゴに寄るというルート。そんなに値段は違わないのだが、この前の一件もあったので、とりあえず一等車に乗り、現地まで移動する。
シディ・ブ・サイドはアンダルシア風の街並みがチュニジアン・ブルーと相まって実に美しい街。初めて写真を見たときから行きたいと思っていた街の一つだ。ジイドなどの文人も惚れ込んだというこの町は、実際訪れてみると青と白のコントラストが目を奪い、随分と遠くへ来たのだなと実感させられる。
シディ・ブ・サイドの名所は色々あるのだが、特に有名なのがカフェ・デ・ナット。地中海世界では最も古いカフェの一つとされ、松の実を入れたミントティーが名物。当然の如くまずはそれを啜るべくシディ・ブ・サイドの坂道を上っていたところ、近くの料理屋の娘だというお嬢さん(年の頃14〜6くらいか)が寄ってきて「水のタンクが重たいから持って」と頼まれる。通常イスラム世界では婚姻前の女性が男性に話しかけることはまずない(婚姻後のケースは国や地方によって大きく異なる)のだが、ここは良くも悪くも観光客慣れしているのだろう。まあ、別に断る理由もないしそこで了見の狭いところを見せては男がすたる(笑)というものなので、店の近くまで持ってやることにする。
道中、色々とこの街についての説明を受け、見るべきところなども教えてくれた。勿論彼女の家族が営む料理屋についての宣伝も怠らなかった。帰りに昼飯がてら寄ってみたのだが、彼女は出かけていなかったので、何も買わずにスルーしてしまった。ごめんね。
カフェ・デ・ナットでは松の実入りミントティーを飲みながら、海を眺めてボーッとする。遠くにはボン岬半島(多分)が見え、様々な問題をしばし忘れてくつろぐ。空気が乾燥しているので、ミントティーは大変においしいのだが、松の実の香ばしさがアクセントを加えていて美味。事後、他のカフェでもちょっと高いけどこのティーを頼むことにした。
シディ・ブ・サイドは小さい街なので、普通に歩いていれば1時間程度で大概のところは見終わってしまう。しかも今は冬でオフシーズンなので見晴らしのよいレストランやカフェも殆どが閉まっている。
そんななか、恐らく高校生くらいの男女の一行と出会う。「ナカタ!」とか言ってくるので、「奴はモナコに逃げやがったよ、税金払いたくないから」と教えてやると「泥棒だな!」と笑う。まあ彼らの日本に対する理解なんてあってなきがごとしだし、その逆もまた然りだ。事実、私の会社の連中は旅好きの創業者を除けばチュニジアと言えば砂漠くらいしか思い浮かべなかった。クスクスくらいは知っていてもいいものだが、そういうのは期待するだけ野暮なのかもしれない。知識の実は命の実と共存はできないのだな。
さてそれはさておき、料理屋のお嬢さんに教わったダル・エル・アナビという18世紀のブルジョワの家を見学した。一応日本語のガイドも置いてあるが、「地球の歩き方」のコピーが半分くらいを占めていたりするので、他の言語のガイドの方が説明が丁寧でお勧めです。
「富を見せびらかしてはならない」という戒律があるため、イスラム世界のブルジョワの家は基本的に外見は質素で、中がパティオとか含めて非常に豪華というのはよく知られている
(そんなことするなら戒律の意味がないだろとか思うのだが……)。実際ここもその例に違わず、中は噴水はやら執事の間やらで非常に派手かつ過ごしやすそうだ。ちなみにここでもミントティーを御馳走になる。おばちゃんは沢山入れてしまったようで、一杯飲み終えたところ「もう一杯くらい飲んでけ」と勧めてくれたので更にゴクゴクと飲み干す。
さて、シディ・ブ・サイドをあとにして、カルタゴに向かう。大カトーが何かにつけて「カルタゴ滅ぶべし」と叫んだあのカルタゴである。今では大統領宮殿(今回の革命で焼き討ちにあったとか遭わないとか)も含めて超高級住宅地になっているのだが、それでも遺跡は山ほどある。
まずは駅からほど近いところにある、はずのビュルサの丘に向かう。ところが案内板がやたら不親切で、適切なルートが全く分からない。ここに来る奴らは観光バスかタクシーで来いということなんだろうが、学習的無気力を形成することを狙いとしているかのようなこのような手抜きは却って外国人観光客のイメージを悪くするだけである。リピーターが減って今になって泣きが入っているイタリアだってもう少し案内板は親切だったぞ。
ここはビュルサの丘にあるハンニバルの住居跡。よく見ると分かるのだが、石の上部が黒く焦げている。これは第3次ポエニ戦争時にローマ兵によってカルタゴが徹底的に破壊され放火されたときの名残である。歴史が伝えるところによればローマ兵はその後に更に塩を撒いてこの土地が全くの不毛に帰すように破壊の限りを尽くしたそうだが、併設の博物館の説明書きを読むと、ポエニ戦争以前の版図はローマ帝国よりもカルタゴの方がひろかったらしいので、その怒りも分かろうというものだ。
ところで、ここの博物館で色々説明を読んでいたら、同じく社会科見学に来ていた小学生の一群に取り囲まれて参った。引率の先生がいたので苦情を言いつつ色々話し込んだら、社会科見学の目的とかそんなこともふくめて話してくれた。
さて、ここまできて大変に疲れたので、フェニキア人の聖域があるトフェというところまではせめてタクシーを使おうと流しのタクシーに価格交渉をしてみたところ、
「15ディナールだ」
(約900円、ちなみにチュニジア人の平均月収は30000円ちょっとなので、日本人の所得水準に基づく物価感覚に換算すると7000円近くを要求している計算になる)
とかぬかしやがる。地図上の距離で測って計算してみてもせいぜいが3.5ディナール程度である。当然値切る。
「バカ言え。せいぜいが5だ」
「話にならん。俺は他の客を捜す」
「勝手にしろ。俺は歩く。」
「分かった。8でどうだ」
「嫌だ。6だ。」
(上記の価格からすればそれでも高いが、あまりにケチケチするのも心が痛む)
交渉妥結。
ところがこうして乗ったタクシーの運転手、いざ乗るとお前はケチだの他のところも連れてってやるから30ディナール払えだのとものすごくしつこい。
心底頭に来たので、ちょうど警察署の前を通りがかったときに
「じゃあここで降ろせ。お前が言ったことを全部警察に知らせてやる。お前は明日から監獄暮らしだ」(チュニジアには観光客保護のための公安がいるらしい。勿論本当の目的は外国人の民主活動家の監視)
と文字通り本当に怒鳴ったところ、
「わかったよ、だがお前は嫌な奴だ」
とかグジグジまだ言う。ふざけるな。こちらは通常の倍近く出してやってるんだ。
「一旦決めたことをこれ以上蒸し返すな。お前それでも男か? 問題外だ畜生!」
と罵声をこちらも浴びせる。
殆どトフェまでずっとこんな怒鳴りあいの状態だった。疲れた……。
で、これがトフェ。一節によると子供を生贄にした跡地だとも言われるが、真相の程は不明。
これはタニットと呼ばれるフェニキア人の女神のマーク。冷蔵庫用のマグネットとかにして売られてる。冷蔵庫にメモを貼り付けるのは貧乏くさいので買わないけど。
もうタクシーに乗るのはこりごりなので、コンスタンティヌスの大浴場跡までは歩いて行こうと決めた。途中、カルタゴの軍港跡の近くのベンチで水を飲みながら一服し、近くで商っていたパン屋でパンを買って昼休み。
なんでこんな遠くに観光に来てんのにここまで苦労せにゃならんのかと遅い昼食をとりながら悩む。ロスバゲとかタクシー運転手との喧嘩とかなければもう少し楽しく名所巡りができたと思うんだが、なんか今のところ少なくともチュニジアのイメージ最悪。個人旅行ではリゾート以外来るもんじゃないなとか思っていた。旅を終えた今になって思えば、ここまでタクシーの運転手も悪質なのがいたということにはそれなりの経済的背景があったわけだし、こちらは「先進国」の人間だからある程度ふっかけられるのは当然仕方がないにしても、だからといって外国人にたかりまくるというのはマーケティング的にいえば明らかにマイナスだろうと思う。
で、途中カルティエ・マゴンというローマ遺跡に寄る。入場券管理をしているおやじが色々説明をしてくれたのだが、フランス語のマグレブ-アラブ訛りが余りにも酷くて聞き返すこと数度。ごめんね、アラビア語ができなくて。
この遺跡はドイツの発掘隊が修復も含めて調査した遺跡で、ローマ時代の水道管の跡やら住居跡が多数残っているのだが、件のおやじ、あるモザイクの前に立ち止まるとやおらモザイクをほじくり出した。数欠片を手にとって、
「お前にやる。いい土産になる」
また売りつけんのかよと警戒していた私は
「高いなら買わないよ」と言ったのだが、
「いいや、タダだ。土産だ。」
いや、タダだとしてもそもそも論で言えばココって世界遺産でしょ? まずくない?
「このくらいなら大丈夫だ。お前にやる」
……というわけでこれは今は自宅でガラスの小瓶に入れて飾っております。
コンスタンティヌスの大浴場跡。これについては説明を要すまい。規模も含めて非常に広壮なのもさることながら、必要な水をちゃんと整備した古代ローマ人の建築技術の水準の高さに改めて驚く。イタリアに行ったときも、「ローマ帝国以来イタリアの連中はレベルが落ちる一方だ」と思ったものだが、これは凄いとしか形容のしようがない。往時はこの浴場の大半がドームで覆われ、サウナとかゲーム室まであったというのだから、今のスーパー銭湯の比ではなく、ヘタすると伊香保とか草津の温泉街クラスをたった一つの大浴場でまかなっていたくらいの大きさがある。ローマ人って風呂好きだったのね。テルマエ・ロマエじゃないけど。
大浴場の跡に腰掛けながら考えた。
ハンナ・アーレントは『人間の条件』のなかで、古代ローマにおける公共性の概念の形成は人間性の獲得と表裏一体であったことを説明していたわけだが、事実ここカルタゴでもコンスタンティヌス帝やアフリカ属州の提督は自らの豪華な家を建てて満足したわけではなく、公共施設として、古代ローマ人であれば貴賤を問わず裸一貫のつきあいと娯楽が得られた(大ブルジョワの家には風呂があったがこれは例外的なものだ)公衆浴場を建てた。それに対し、イスラム世界のブルジョワの邸宅は基本的に公共空間に扉を開くことなく、内陣がやたら豪華にできているという点において、また都市のインフラそのものが近代に至るまで貧弱なままであるという点において、公共性という概念が極めて希薄である。勿論ザカートに代表される喜捨などはあるわけだが、富めるものはその基盤が社会に立脚し、最終的にはそれを公共に返還するという義務を負っている限りにおいてのみ、富の持つ力を享受しうるというある種ロールズにも通じる考え方は、恐らくローマに起源を求めることができるものであり、イスラム世界が表面上はイスラム的平等を謳いつつ、その内実には社会を破綻させるほどの階級格差を抱えているのは逆にそのような概念の不在に基づくのではないかとも思う。
そんなわけで大浴場跡から歩いて数分のところにある都市の遺構を見学した。整然と区画された街並みは、この街がアフリカ属州の首都として重要な役割を担っていたことを思い起こさせる。また、床にはモザイクが敷き詰められており、地中海でとれた魚等の食材の豊かさを今に伝えている。いやー、奴隷がいたとは言え、いい暮らししてたんだなあ。
かくしてチュニスのチュニス・マリン駅に戻る。同駅で「Fuxx」とかこちらを見て指を立ててくる馬鹿な白人が反対側のホームにいたので、「Sxxxxxxx」とこれまた下品の極みな言葉で応戦してやると周りのチュニジア人がゲラゲラと笑う。そのうちの一人が言うには、「あいつは気が触れているようだ」とのこと。確かに何かラリラリしてたからなあ……
また、チュニス・マリン駅から空港に戻り、むなしく手ぶらで戻る。「生活物資を買った場合は領収書を取っておいてください、補償できる可能性がありますので」と「チュニスエアー」に言われていたのだが、さすがに服が汚くなってきたし、髭剃りの電池も心配になってきた。とはいえ、日曜に開いている店は限られるのでどうしようかとホテルの近くのショッピングセンターに行ったところ、Monoprix(フランス系のやや高めのスーパー)が営業していた。イスラムの安息日は金曜日なので、日曜日は営業時間は短いけどやっていたというわけだ。助かった!
早速下着類や髭剃り、その他諸々の生活物資を買い、ホテルに戻る。
とりあえず一安心したので、この日は近所の安食堂でケバブとか適当に食べて翌日に備えて寝る。明日はスースに移動。