2007年02月25日

エルヴェ・ギベール『ぼくの命を救ってくれなかった友へ』
本:小説(フランス)]

古本屋で見つけたエルヴェ・ギベールの『ぼくの命を救ってくれなかった友へ』を読了。

早い話がエイズにかかって死を意識して生きる著者の八つ当たり日記である。当時はまだ噂のレベルでしかなかったフーコーの死因がエイズであったことや、イザベル・アジャーニがいかにろくでなしであったか、等が情け容赦なく赤裸々に綴られている。

通り一遍の倫理感なら、こうした本を出すことに対しては反発もあるとは思う。このような著者側からの暴露は一種の欠席裁判に他ならないからだ。晒し者にされた人たちにとっては堪ったものではないだろう。だが、不治の病を、しかも(当時は少なくとも)極めて社会的偏見の強い病気を宣告され、死の恐怖と社会の理不尽さに震えながら生きていた著者の内面の絶望は想像するに余りある。そして後半に至るに従って明らかに平衡を失っていく彼の文体の崩壊は、彼自身の自殺を強く示唆する展開とも相俟って非常に苦しい。

苦しみ、悲しんでいるときに限って、人間というものは案外余所余所しく冷淡なものだ。他人は所詮他人なのだし、その事実はギベールだって私より数段よく分かっていたはずだ。だが、それ故にこそ、のギベールの孤独が胸に迫るのは私だけではないと思いたい。

ギヤ・カンチェリ『Lament』
CD:クラシック現代]

ノーノつながりということで、カンチェリの『Lament』を聴いた。

カンチェリはグルジア出身の現代作曲家だが、この曲は元々共作する予定だったノーノの想い出に捧げられている。この録音でのヴァイオリン独奏は『未来のユートピア的ノスタルジー的遠方』などの初演をおこなったクレーメル。東欧系の作曲家の作品紹介では定評のあるECM New Seriesだが、この作品は実に痛々しい、ノーノの不在という事実を浮かび上がらせている。

ノーノが晩年、共産主義の退潮に伴って、創作意欲が枯渇するほどのショックを受けていたことはよく知られている。結果、『断章―静寂、ディオティマへ』や『旅する者よ、道はない、だが夢見ながら進まねばならない』といった極めて黙示録的な作品群を遺している。社会の革命はその本質において人間性の革新でなければならない、そうしたノーノの理念は、人間の内面、あるいは精神が存在する必要性の地平まで沈潜することで再度深化されていたのだ。だからこそ、晩年のノーノの作品は単なる政治アジテーション音楽ではなく、われわれ自身の認識そのものが物象化され平準化され、「非-場所」というユートピアを夢見る能力そのものが破壊されている事態を徹底的に無言の絶叫で切り裂く。

カンチェリの『Lament』は、彼なりの広漠とした音楽言語を用い、そうしたノーノの晩年の境涯の意味を彼の不在、喪失と共に嘆くでもなく静かに示す。マーヒャ・ドイブナーのソプラノは終結部でようやくハンス・ザールの詩を歌うが、それまでは時折思い出すかのような、夢を見るかのような歌詞が模糊として聴き取れない歌を弔いとして、口をついて語られる、晩年のノーノの問題意識に対する、覚束無い足取りの空虚に満ちた呟きを奏でる。そしてクレーメルのヴァイオリンは、ノーノの葬列を見送るヴェネツィア、あるいはわれわれ自身の心の中でたゆたう波の風景の音色のように揺れながら進んでゆく。

また、時折入ってくるオケのトゥッティの乱暴な音色は、かくの如きノーノの死を単なる追悼として捉えるような安易な喪の意識自体を斬りつけてくる。ノーノが死んだことを、嘆いてはいけないのだ。悲しんではいけないのだ。彼は我々に課題を、本来は共に考え合うべきであった極めて重大な、我々の精神自体の挫滅という問題を突きつけて、なお時間の彼方へと、風景の向こうへと背中を向けて歩いて行ってしまった。

夢を見なければいけないのだ、全く別な、この世界のどこにもない場所を、その兆しを微かに聴き取るためにも。そしてまさにその力こそが、今人間の精神において危機に瀕している。カンチェリの、この曲における極めて躊躇いがちな旋律の流れは、そのような問いかけの無力さを、分かち合うでもなく嘆き、訥々と語る。

ああ、我々は、聴くようなふりをして、結局何も聴いていないのだ。

2007年02月13日

エミール・ゾラ『ごった煮』
本:小説(フランス)]

ルーゴン・マッカール叢書第10巻、『ごった煮』を読了。角川版は手に入れられなかったので、論創社版の新訳にて読んだ。

南仏プラッサンからパリに上京してきたオクターヴ・ムーレ(後の『ボヌール・デ・ダーム百貨店』の店主)が下宿することになったブルジョワアパルトマンのヴァフル館での滅茶苦茶な風紀紊乱ぶりと虚栄たっぷりの社交界の頽廃を描いた作品。話の筋はこれまた余り重要ではないが、虚栄と経済の分かちがたく絡み合った関係を、浮気し放題の社交界の現実をなぞることで描き出しているのが本書の見るべき点であろうと思う。

つまりだ。当時(そして恐らく現代も)ブルジョワ階級の地位は当然の如く経済力によって維持されるし、担保される。そして社交の場においてはそれは衒示的な消費を必要とするわけだ。結果、中級ブルジョワ階級の連中は相手により少しでも優位に立とうと、あるいは優位に立っているふりをするために、本質的には余り意味のない、装飾的な消費に傾倒していくことになる。本書でのジョスラン夫人と娘のベルトが完全にはまりこんでいるのは、まさしくこういう価値体系である。
これが次巻『ボヌール・デ・ダム百貨店』ではさらにエスカレートし、買い物せずには主体性を維持できなくなってしまう女性達の病理が皮肉たっぷりに描かれているわけだが、当書ではその前段階ではあるものの、金が全てに優先するのだというガチガチにリアルで血も涙もないブルジョワ社会の現実が描かれている。

恐らく、このようなどうしようもない消費社会は、今日でも加速こそすれ消滅していないだろう。ヴェブレン的な意味での階級の証明としての消費という性質は多分に後退はしているのかもしれないが、相続財産目当ての骨肉の争いや夫婦関係そっちのけで浮気に精を出すくせに葬式の時だけ信心深くなる連中、そして使い捨て同然であるのにファッションに湯水の如く金銭をつぎ込んで少しでも自分を「シック」あるい「コケット」に見せたがる輩、そうした階級は今日もなお健在であるし、時と場合によってはそれがモードの中心であるかの如く振る舞っているらしいのだ。

ちなみに、その小説にはゾラその人と思われる人物が出てくる。他の登場人物との交流は皆無だが、この小説が発表された当時に巻き起こった騒動のことを考えるとなかなかに笑えるくだりも多いので、その辺りに留意してみるのもいいと思う。

2007年01月31日

シャルリー・ヴァン・ダム『無伴奏「シャコンヌ」』(原題:「ヴァイオリン奏者Le joueur de violon」)
映画]

『無伴奏「シャコンヌ」』をビデオからDVDに焼く過程で、データのチェックも兼ねて何回か見た。最後の場面では震えが止まらなかった。自分の卑小さがつくづく恥ずかしくなった。

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芸術なるものが功利追求、或いは「癒し」といった労働力再生産の手段に堕すようになって久しい。そこそこに耳当たりの良い、時として甘美かつ装飾性の高いものばかりが芸術としてもてはやされ、その知識を衒学的に振り回すことがさも教養であり、その人間が属する文化水準の高さを示すが如きである。棚に並ぶグラモフォンのCDはとりもなおさずその人間のディスタンクシオンであるというわけだ。
文化が経済の欺瞞の上に成立する、それは今となっては極めて当たり前なことなのかもしれない。経済的に成功した人間が、あるいは経済的な成功を求めるがために人口に膾炙した「文化活動」に人々が勤しむのはそれ自体としては別段不思議ではない。それが衒示的消費であり、大なり小なり形而上学的な世界のへの入り口というのはそうして開かれるものだ。

けれども、芸術や文化の崇高が単なるそのようなコミュニケーションのための通貨に成り下がる、あるいは単なる気晴らしのための消費財に変質してしまうとき、コミュニケーションの否定或いは破壊によってこそ成立する、より超越的なものに対する認識は跡形もなく消滅する。分かりにくいものは悪であり、そこそこに美しくないものは需要に一致しないとの理由で門前払いを食らう。我々は極めて多くの場合、そのような孤独やそれに伴って生じる貧困を恐れる余り、適当な言い訳を作っては自分を誤魔化して怠ける日和見主義を選択する。それでも文化的だとか教養あるだとかいうお体裁が取り繕えれば、ロマン派の音楽はそこそこ素敵だし、特にラフマニノフとかシューマンなんて綺麗でいいよねー、となる。マーラーの10番を愛好する人間は世間の機嫌を損ねる余りバイバイだ。

しかし本作品の主人公アルマンはそのような世界に徹底して背を向ける。バッハの「無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ」の中の「シャコンヌ」を、全ての地位を放擲し、地下鉄のコンコースで街頭演奏を続けるのだ。
何故「シャコンヌ」なのか、という説明は本作品ではバッサリと切り捨てられている。そんなことに理由を求める人間は最初からこの作品を理解する資格がないとでもいうかのように。そして、シャコンヌが美しいから、弾き手がそれを求めるから、という理由に逢着する思考方法は恐らく正しいかもしれないが、根本のところで間違ってもいる。崇高なまでに絶対的な事柄の前では、いかなる合理性の探究も無意味になるということをそのような思考方法は忘れているからだ。この作品においては、そしてアルマンにとっては、シャコンヌは一切の交換可能性を破壊するだけの絶対的な存在なのである。従って、人間が主人公なのではない。人間に呼びかけ、魂を引き攫っていくもの、それは本作品においては「シャコンヌ」なのである。そして、究極的に形而上のものであり、故に時間の終焉においても、或いは世界の終わりに於いてもその形姿を失わないシャコンヌは、アルマンにとっては今日的な音楽美学のヘゲモニーを徹底的に否定する救済の象徴でもある。即ち、彼にとってはこのような作品が存在することそのものが人間というものが魂に於いても存在するものに値するという信念の確信を形成している。もっと究極的にいえば、彼にとってはシャコンヌを否定するならばそれは人間の精神の否定でもあるのだ。楽器を叩き壊された場面で彼が魂柱を探すときの言葉「Ou est l'ame?」は「魂はどこだ?」と訳すことができる。そして物語の終盤で魂柱を狂人のように弄ぶアルマンの姿は、今日の音楽の惨状が「たましい」の忘却と表裏一体をなしていることのアレゴリーでもあるように私には思える。精神を、魂を甦らせるために、そして死によって不死へと逢着するがために、魂は再び安易な交歓や共有を否定する、無限に沈黙して奏でられ続ける響きの奥底へと歩まねばならない。この絶対的な孤独の極限においてのみ、垣間見える――あくまで垣間見えるでしかないのだが――奇跡の如き恩寵の瞬間は、全てのものを無価値にすると同時に、全ての存在者を一切の無価値さゆえに結びつけるのである。

この点を踏まえることで、この映画が首尾一貫した物語の展開という点では完全に破綻している必然性もようやく分かると思う。商品としての共約可能性を否定し去ることを前提とすること、それ自体を核心に据える本作品においては、妥当かつ最大多数の人を納得させるだけのカタルシスを伴う必要はもとよりない。ただ、アルマンにとって、シャコンヌが、彼の一切を破滅させつつも、それによってようやく彼の精神を、魂を全ての時間の中で屹立すべきものへと呼びかけているのだ、という圧倒的な衝撃が、我々の意識を粉砕してしまえば、実はそれ以上のものは何も必要なかったのである。

2007年01月29日

太田真紀 無伴奏ソロ・リサイタル『声』
コンサート]

先週の金曜日は、トーキョーワンダーサイト本郷にて催された太田真紀さんのソロ・リサイタルを聴きに行ってきた。会社から歩いていける距離というアクセスの良さもさることながら、ここは過去のイベントを見ても左大臣が大好きそうな現代美術や音楽のイベントを数多くやっていたわけで、こりゃ行かずにおれるかいなヒャッホウ! というわけでいろいろ調べてみたところ、ベリオとノーノの曲目を含む上記のリサイタルがあったわけです。曲目としては
・ベリオ:セクエンツァIII (女声のための)
・ヘスポス:ナイ
・河村真衣:結願(委嘱初演)
・ノーノ:照らし出された工場(光る工場)La Fabrica Illuminata
でした。ハンス=ヨアヒム・ヘスポスは名前しか知らず、曲を聴くこと自体初めてでしたよ。

リサイタルが催されていた場所は非常に狭く、せいぜいが30人くらいしか入れない(現代音楽のワークショップはこういうのが実に多い)ところでしたが、白石美雪氏や笠羽映子氏らしき現代音楽フリークにはおなじみの面々もポツポツと見えてミーハー心をかき立てられたり。まあ、次の時間帯のコンサートでカスティリオーニやケージの演奏があったというのもあるんでしょうが。

で、演奏の出来は素晴らしいといっても良かったんではないでしょうか。「セクエンツァ」は声量というか場所の残響がやや弱いため、特殊唱法が多発する箇所では表現が今ひとつ空回りするような残念なところも少しありましたが、概ね充実した内容だったと思います。
ヘスポスの曲は文字通りの初めてだったので、「こういう曲を書くんだねえ」以上の感想をもてなかったのは私の知識不足ゆえに他ならないのですが、まあ叫んだりわめいたり超絶的な表現が楽しい曲でした。で、最後に「無い」でガチョン。

「結願」はタイトル通り歌い手があちこちを移動しつつお経風の歌を歌うもの。お経と聞けば多くの人は多分某涅槃交響曲を思い出すだろうけれども、私もその例に漏れずカンパノロジーな世界に意識が飛びかけたり(笑)。

そして目玉はやはりラストのノーノの曲だろう。この曲は昼も夜もフル稼働のピカピカ工場の非人間的な状況をライブ・エレクトロニクスでもって強烈に批判した曲だが、26日の演奏ではライブ・エレクトロニクスを担当した有馬純寿氏の用意した素材が、ミラノ電子音楽スタジオでリマスタリングされた高品位の音源であったこともあり、もうグチャグチャドカーンバリバリバリバリドシーンウギャーな4chの音楽を堪能できた。ノーノのテープ音楽はマルチチャンネルなのでSACDの音源が全然ない(『力と光の波のように』のケーゲル盤は疑似3chであることに加えCCCDハイブリッドなのでクズ)現状を考えると、生で聞くしかないという状況なので、もう左大臣は大満足でした。太田氏の強烈な歌唱もこの曲でこそ活きるという感じであり、耳に乱暴な音の羅列の割には歌心がしっかり残るノーノの魅力を伝えていたと思う。

何せしかもこの晩の演奏会はチケット代がたったの1000円! 某のだめ演奏会なんぞに大枚はたくなら、絶対こっちを聴きに行った方がいいです。

折り込みチラシには「ハノン」の全曲演奏会という爆笑系のお知らせが入っていたり。大昔、オケの連中と「パールマンが弾いたセヴシック教本の録音とかあったらいいのにねー」と馬鹿な話をしたことがありましたが、いやはや、実際にやってしまう連中がいるとは。これも時間があったら行きたいですなあ。

そんなこんなでアフターリサイタルは大酒をかっくらってしまったのですが、翌日はしっかり「海の航跡」を鑑賞いたしましたのです。

2007年01月26日

東フィル定期演奏会:トゥランガリーラ交響曲
コンサート]

1/23、サントリーホールで行われた東フィルの定期演奏会に行ってきた。曲目はメシアンのトゥランガリーラ交響曲、指揮はチョン・ミュンフン、ピアノは横山幸雄、オンド・マルトノは原田節という、少なくともソリストレベルでは期待するなという方がおかしい素晴らしいメンツ。欲を言えばそりゃPfはアムランとかティボーデとかウゴルスキとかベロフがいいとか言えないでもないけれど、チョン・ミュンフンとバスティーユ管の名録音を知る人間にとっては、あるいは原田節がソリストを務めるシャイーとコンセルトヘボウ盤を知っていれば、この組み合わせは垂涎の的であろうと思う。

但しこの曲は長い。CDで聴いても1時間以上かかる代物だし、演奏会ではこれだけで90分は優にかかる。しかもメシアン独特の非逆行リズムが頻出するやら調性がヘンテコだったりするので、弾く側としては決して楽勝ではない。だからこそ生で聴いていい演奏会だとそれだけでシヤワセになれる官能大曲である。

で、23日の演奏会では、横山幸雄と原田節の名演が光った。メシアンのピアノ曲は超難曲で知られるものが多いが、とりあえずミスタッチらしいミスタッチはなく、第5・終楽章ではバリバリと弾いていていい感じだったように思う。原田節のオンド・マルトノも非常に手慣れた演奏で、特に第6楽章の「愛の眠りの園」ではウットリ感のある法悦溢れる音色をPfのコトドリの歌声と奏でていて美しいことこの上なかった。

ただ、問題はオケである。後半の楽章では弦の体力不足が露骨に目立ち、第8楽章以降のアンサンブルのガタガタさ具合はこれが果たしてプロの演奏なのかと疑うような崩壊寸前の危機も何カ所かあった。パーカス群もウッドブロックの奏者が何回か落ちたりするなど、集中力の低下が傍目にもはっきり分かる状態だった。金管隊が盛り上げ楽章では結構奮闘していたので終楽章のフィナーレではソツなく、しかも徹底的に長い嬰ヘの和音が官能大暴走でなかなかよかったが、全体としてはまとまりというか色彩を欠いたちょっとだらしのない演奏だった。そんなこともあって演奏後のカーテンコールではチョン氏もオケのメンバーを呼び戻すなどせず、各奏者を一人ずつ立たせるなどのこともせず、割とあっさりと終演でしたよ。確かにトゥランガリーラはプロオケでも手こずる超難曲というのは私でも知っているしスコア見たら卒倒しそうになるくらい複雑な曲だけど、そもそも東フィルだってプロなのだし、定期演奏会の割には決して安いチケットではなかっただけに、ちょっとガッカリ。

翌日のタケミツメモリアルホールでの演奏会はさすがに反省したのか、好意的な反応が多いようだ。会社から近いしサントリーホールでの演奏会だからという理由でこっちを選んだのはうまくなかったのだろうか。

ちなみに帰りにはロビーで売ってた原田節のアルバム『The garnet garden』を購入。前から探していたものだけに落手できて何より。

2007年01月13日

ヴェブレン『有閑階級の理論』
本:思想・哲学]

ヴェブレンの『有閑階級の理論』を去年の暮れに読んだ。
今となっては彼の消費理論は別に目新しくも何ともないし、同著作に関する極めて鋭く広射程の批評はアドルノの「ヴェブレンの文化攻撃」(『プリズメン』所収)で読むことができるが、このような思想を大恐慌前のアメリカ社会に叩き付けた思想家がいたということは、人間の知性、就中批判的精神に対する一つの救いであるように思う。

消費が所属階級の優位性を表象するためだけのものであり、文化とは即ち階級の宣伝行為であるという彼の衒示的消費についての考えは、確かに所謂制度派経済学として硬直化して捉えるのであれば、消費についての機能的契機(つまり食事には当然見栄もあるが生命活動を維持するという働きもあるわけで)を無視してしまうことは当然批判として想定しうる内容である。だが、そんなつまらない批判を越えて『有閑階級の理論』が攻撃するのは、もう一つは古代の野蛮、即ち略奪的経済の痕跡が今日の社会では経済行動という形で反復されているということであろうと思う。つまり、大昔石器時代の人間が自然界からの獲得物を戦果と武功の象徴として誇示していた行動が、今日では消費という形、あるいは家政形態で反復されているのだ。ここにおいてヴェブレンが見いだすのは、一見都市文明の栄華のように思われる文化活動そのものの中にも実は野蛮の痕跡がはっきりと存在しているということである。むしろ殺戮を伴わないだけでその文化活動は尚更啓蒙された野蛮の体裁を保存しているといってもいいだろう。
こうして考えると、アドルノがこの著作の中にそうした契機を見いだして論じたのも、『啓蒙の弁証法』との連関においてなるほどなと思わされるところがあるように思う。

制度派経済学を社会学に応用して論じたものといえば近年ではピエール・ブルデューの『ディスタンクシオン』なんかがメジャーだし、記号論の本なんかを読めばこの手の話はいくらでもお目にかかることができるが、古典として、そして一見謀略や殺戮とは最も無縁に思われる「文化」に澱む暴力と野蛮の消しがたい証拠について考えるためにも、こういう本は読んで然るべきだと思う。

でも、階級と文化活動に何の相関もない(cf.苅谷剛彦『大衆教育社会のゆくえ』中公新書)日本で暮らしてると、時にはそういう相関がある社会の方が色々と助かることがあるのにねえ、と思わないではないのもまた事実だったり、考え悩むことは少なくないのです。

2007年01月05日

メシアン:トゥランガリーラ交響曲(ミュンフン盤)
CD:クラシック現代]

そんなわけでチョン・ミュンフンが振っているトゥランガリーラの録音です。

グラモフォンでの彼の持ち上げ方は何というか(フィリップスが大いに利益を上げた)ポスト小沢征爾としての極東マーケットへグラモフォン印の浸透を図ろうとしているのがミエミエでなんか気持ち悪いのだが、少なくともメシアンの録音に関しては優れていると言えるだろう。特に本録音は録音に際してオリヴィエ・メシアンが立ち会っており、解釈については一定の水準は担保できていると考えていいと思う。但し、ハンス・ロスバウトが振った官能性のかけらもない別の意味で楽しい録音に関してもメシアンは結構褒めていたりするので、信頼性はムニャムニャ……かもしれないのだが。

で、演奏の内容は熱っぽく、テンポ自体は結構遅め。特に前後半の締めに当たる第5・第10楽章の演奏は非常に法悦度が高くてウットリできる。また、その他の楽章もイヴォンヌ・ロリオの高水準のピアノの演奏もあって、この広大無辺な交響曲をキッチリ仕上げていると思う。特に第6楽章とかは鳥の歌声を擬したピアノの音色と弦楽のアンサンブルの一体感がこの上ない多幸感を与えてくれること請け合いです。

ただ、敢えて難を言えばこの曲の一つの目玉であるオンド・マルトノの音色が少々小さいこと。原田節がオンド・マルトノを担当しているリッカルド・シャイー&コンセルトヘボウ盤ではこれでもかというくらいにオンド・マルトノが鳴りまくっていて結構楽しいので、できればその位派手目にやって欲しかったなあと思うのです。

そんなわけで今度の演奏会では原田節の演奏も楽しみだったりします。大昔に新星日響の演奏会で聴いたときもそれはそれは愉快に鳴らしていましたし(ちなみにその時の指揮は沼尻竜典、ピアノはミシェル・ベロフであった。今思えば素晴らしいメンツだ)。

ショスタコーヴィチ:交響曲第4番(ミュンフン盤)
CD:クラシック現代]

ショスタコーヴィチ:交響曲第4番(ミュンフン盤)について。今度彼の指揮によるトゥランガリーラ交響曲を聴きに行くのでついでにレビュー。

学生時代N響の定期演奏会で聴いて、余りのテンションの高さに一発で折伏された曲です。

フィラデルフィア管といえばオーマンディ時代の健やかサウンド、という印象が余りにも強くてショスタコとかヘンツェとかペンデレツキみたいなドロドロ怨念皮肉悪意敵意てんこ盛りの曲にはあれ?という先入見というか印象あるいは偏見がどうしてもぬぐえない訳なんですが、技術水準は決して低いわけではなく、太鼓部隊の重低音大会ぶりは特筆すべきだし、並のオケなら第1楽章の弦楽プレスト突撃で崩壊するアンサンブルも、少々機動は鈍いものの何とか持ちこたえており立派。元々大音量でドカンドカン鳴らすのが得意なチョン・ミュンフンの棒もあって曲の外観をお勉強するには非常にまともな録音に仕上がっている。
……でも何か憎しみというか苦しみが足りない。有名なコンドラシン&モスクワフィルの演奏だと、実は弦楽セクションはあんまりうまくなくて音が濁って聞こえるところも結構あったりするのですが、演奏全体に漂うドス黒い緊張感が生み出す猛烈な負のエネルギーが、この曲の不幸な生い立ち(つかショスタコの曲には不幸な生い立ちの曲が多すぎて笑える)と曲自体が示唆する近代ロマン派音楽への軽蔑に似た構成や「マイスタージンガー」のパロディ的引用やマーラーの7番の引用等々と相俟って、ショスタコがシンフォニストとしてドイツロマン派に叩き付けた挑戦状のようなパワーと共にダンプカーの警笛のように聞こえてくるわけです。

総じて言うと、この録音はうまくまとまりすぎていて逆に破壊力を欠いている。時々音量指定を無視して金管群が爆発したりマッハ2.8で編隊飛行を行うMig31のような弦楽セクション等々、ソ連時代のモスクワフィルやレニングラードフィルの何と魅力的なことか。

この曲については少なくとも、もっと暴力的で恐ろしい演奏を聴きたいのですよ。

ハチャトゥリアン:ヴァイオリン協奏曲(オイストラフ盤)
CD:クラシック現代]

ハチャトゥリアンの芸術2 〔ヴァイオリン協奏曲/ピアノ協奏曲〕オイストラフ(vn)ペトロフ(p)ハチャトゥリアン/ロシア国立so. 他から、ハチャトゥリアンのヴァイオリン協奏曲について。

ハチャトゥリアンといえば『剣の舞』が余りにも有名すぎてその他は交響曲第2番が少々知られているだけだが、彼の猛烈パワー大爆発の名曲といえばこのヴァイオリン協奏曲を措いて他にない。最初から最後までアルメニア民謡などから題材を得たエネルギッシュな旋律がこれでもかこれでもかと続く。第1楽章のダンプカーの疾走の如き強烈なテンションの高さもさることながら、特に終楽章の「バラによせて」の変奏によるロンドやアルメニア民謡「Kele-Kele」をSulGで朗々と歌い上げるあたりは曲自体の圧倒的な野生風味と併せて、アドレナリン垂れ流しの脳味噌暴走気味の気分にさせてくれる。
もし20世紀に書かれた曲だからというような理由でこの曲を聴くのを敬遠するならば、それは大きな損失であると思う。かくまでに「凶暴」に限りなく近い熱狂と躍動感溢れるヴァイオリン協奏曲はこの曲くらいなので、とりあえず聴け!

で、要求される演奏技術も実は結構高い(特にカデンツァは無茶苦茶難しい)この曲を聴くのなら、まずオイストラフ盤が筆頭だろう。以前メロディアから出ていた録音ではショスタコーヴィチのヴァイオリン協奏曲第2番も収録されていて、オイストラフのマッシフで正確無比の鋼の如き演奏を堪能するにはうってつけの名盤だったのだが、今は廃盤らしい。中古屋で見かけたらこちらを買いましょう。

写真集『アトムの時代』
本:美術書]

写真集『アトムの時代』をずいぶん前から探していたのだが、アマゾンのマーケットプレイスで比較的リーズナブルな価格で出品している方を見つけて速攻で入手。
で、どんな本かというと、これはアメリカの原爆・水爆実験及び広島・長崎での核兵器実戦使用時の写真を集めた写真集であったりする。フツーの本ではないです。
「野蛮から人倫の完成に至る普遍史は存在しなくとも、石斧から水爆へと至る歴史は明らかに存在する」とはアドルノの言葉だが、周囲の風景と比較すると圧倒的な巨大さと破壊力を見せつける核兵器炸裂時の写真を見せつけられると、「科学それ自体が悪なのではなく、人間の態度が問題なのだ」という常套句がいかに寝ぼけたものであるのかがよくわかる。
但し、この写真集は装幀や印刷にやや難があり、また収められている写真もアメリカのだけという点でやや不満が残る。A3判ぐらいの大きなサイズで、記録として残されている核実験の写真を片っ端から掲載したほうがより豊かな内容を持つのではないのか。確かにそれほど売れることが見込める本ではないが、まさしくこうした本だからこその内容を望みたいのだった。

エミール・ゾラ『ルーゴン家の誕生』
本:小説(フランス)]

エミール・ゾラ『ルーゴン家の誕生』をとりあえず読んでみたのでレビュー。

ゾラの「ルーゴン・マッカール叢書」は本書『ルーゴン家の誕生』からスタートする。第二帝政期に興隆の端を発するルーゴン家がいかにしてのし上がっていったのかという話を軸に、もう一方の家系マッカール家出身のシルヴェールが南仏動乱に参加して結局は憲兵に捕まって銃殺されて脳漿を墓場にぶちまけるという話が展開されている。で、今も南仏、特にプロヴァンス~コート・ダジュール地方は国民戦線(FN)なる極右政党にとってはおいしい票田であったりもするのだが、ピエール・ルーゴン夫妻が主宰する(正確には主宰するように焚き付けられるのだが)南仏プラッサン市という田舎町の黄色いサロン@ルーゴン邸に集う保守反動のブルジョワ連中の話題の水準の低さや思考方法の陋劣ぶりは自然主義の面目躍如という感じで実にリアルかつおぞましさをかなり正確に伝えてくれている。また、もう一方のマッカール家の流れの連中は別の意味で破綻の極みにあって、有名な『ナナ』の主人公アンナ・クーポーはこの流れに属するのだが、本書ではアントワーヌ・マッカールのヒモっぷりが見事という他ない。でも、こういう話が出版当時突飛な絵空事と叩かれなかったということは、こんな人間は下層階級を訪ねればゴロゴロしていたということなのだろう。

それはさておき、本書で光るのは少女ミエットの余りにも可哀相な生き様と死に様である。彼女はシルヴェールの恋人なのだが、まず生い立ちが不幸。父ちゃんが殺人犯の嫌疑を掛けられて牢獄にぶち込まれ、一応叔母の所に引き取られるのだがその叔母がぽっくり死んでしまい義父とその息子ジュスタンに徹底的に酷使されていじめ抜かれる。ええ、ドストエフスキーの『虐げられた人々』のネリーの話でも私はグッと来てしまったわけですが、分かり切ってても私はこういう出自のヒロインの話に弱いです。もう同情度170%です。で、彼女は頭のいかれたアデライード・フークばあさんと暮らしていた(母親は肺結核で死に、父親は悲嘆の余り自殺していたので)大工見習いのシルヴェールと恋に落ちるわけです。出会った当時まだ13歳だったミエットとほんの少し年上に過ぎなかったシルヴェールの逢い引きのシーンは、悲惨なという形容が陳腐すぎるくらいの残酷な日々のなかで、自分を理解し共に生きていこうとする生命を見出したときの二人の痛々しいくらいの瑞々しい喜びが胸を打つのです。それでもってシルヴェールと出奔して山の中で二人で将来の希望を語り合う場面。その後赤い旗を掲げて人々の先頭に立つもあっさりと撃ち殺されてしまい、パスカル博士とシルヴェールの見守る中で息を引き取る場面。もうこれでもかこれでもかとミエットの幸薄さが読む者の精神を揺さぶりにかかります。そしてその後生きる希望を失ったシルヴェールもあっけなく捕縛され、かつて自分が片眼を潰した憲兵によって殺される。
確かに頭はあんま良くなかったけれど純粋で将来への希望があったシルヴェールと、彼に自分の人生の喜びの一切を託そうとしていたミエット。二人は幸せにならなきゃいけないのに何でだ!という怒りが、ルーゴン夫妻、特にフェリシテの腹黒いマキャベリズムやピエールの愚鈍な虚栄心たっぷりの俗物ぶり、そしてアントワーヌ・マッカールのダメ人間に対して沸き起こります。

けれどもこの話って、150年も昔の社会を舞台にしているわけです。にもかかわらずその実相というか生々しさがここまで伝わって来るというのは、さすがゾラというべきです。『ナナ』とか『ジェルミナル』とか『居酒屋』あたりでゾラの世界に触れた人は、読んでみても損はないと思います。

バッハ:無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ(クレーメル新盤)
CD:クラシック古典派]

バッハ:無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ(クレーメル新盤)を聴いた。新録音盤と言っても発売されたのは2005年なので誤解なきよう。

ヴィヴラートを抑制し、時として乱暴にすら響くアクセントの付け方やデュナーミクは決して美音的ではないという点で、名盤とされるシェリング盤やクイケン盤とは対極にあり、むしろシゲティのそれに近いと思う。但し、全体的に遅めの速度でバッハの器楽曲に内在する精神の孤独な輝きを必死に掘り出そうとするシゲティのに比べて、クレーメルの演奏はかなり速く弾いている箇所も少なくなく、それでいて音の粒が全く崩れていないのはクレーメルの演奏の技術水準の高さを証明していると言っていいだろう。また、手元にあるヨアヒム版の楽譜と見比べると、各所で解釈の違いが見られるのだが、そのいずれも彼の演奏の高い説得力と緻密な弾き分けで全く以て納得させられてしまう。

そして、クレーメルのこの演奏を聴いて浮上してくるのは、バッハのような美が今日では最早不可能になってしまった事への諦念に似た距離感である。これは残響を強く残した録音にも依るところにも大きいのだろうが、元々現代音楽の演奏において評価の高い(ペルトやノーノのヴァイオリン曲でまともな録音が聴けるのはクレーメルの功績の一つである)クレーメルのバッハに対する態度は、単にそれが美しく、モダン楽器であっても全くその価値が減じることのない独奏曲の最高峰として例えばシャコンヌを礼賛しているだけではないように私には思える。美的な、単に美しい――それはそれ自体として極めて困難な一つの到達点ではあるのだが――演奏ではなく、敢えてピリオド楽器の時代のようにヴィヴラートを抑制し、敢えて言うならば傷だらけの音符の連なりを敢えて剥き出しにして差し出すことで、クレーメルはこのような音楽が不可能になりつつある現代の商業化された文化の自滅的状況を嘆くでもなく、そこから静かに遠ざかろうとしているように感じられてならない。例えばこの録音の最後のジーグは前半の短調の曲群に比べて、何と明るい開放感に満ちていることだろうか。険しい音色でありつつも伸びやかな健やかさを湛えたこの演奏において、クレーメルはバッハの時代と現代の音楽状況の双方から静かに微笑みを浮かべつつ別れを告げようとしている。

そういう意味において、単に美しいのみならず、聴いていて極めて辛い気持にさせられる録音。単にこの曲の素晴らしさを堪能したいだけであればシェリング盤を勧める。但し、我々の時代が持つ美的なものへの不可能性といったアポリアに沈潜して思考したいのであれば、クレーメルのこの演奏は一つの手がかりを与えてくれるかもしれないと思う。

ドストエフスキー『二重人格』
本:小説(ロシア)]

ドストエフスキー『二重人格』について。だいぶ前に読んだものについての感想。

主人公ゴリャートキンのダメ人間&小心翼々ぶりが非常に痛々しく、能力と理想のギャップに苦しむ人間の苦悩をギチギチと描いており、読んでいてかなり苦しい。
惜しむらくは新ゴリャートキンが旧ゴリャートキンのコンプレックスから生じた幻影だということが今ひとつ分かりにくいということか。それゆえにこそ読んでいて主人公の苦しみっぷりが伝わってくるということもあるのだが。あとはそういった人間の描写を通じての哲学的な問が今ひとつ掘り下げられていない点も不満かも。晩年の著作と比べてはいけないのかもしれないけれど。

2007年01月03日

マーラー:交響曲第10番(クック版/ギーレン盤)
CD:クラシック現代]

マーラー:交響曲第10番(クック版/ギーレン盤)をアマゾンにて落手して聴く。

クック版のマーラーの10番といえば、ラトル指揮のBPOライブ盤が定番と言われて久しいが、昨年発売されたこの録音もそれに負けず劣らず素晴らしい。

ギーレンと言えば現代音楽フリークにはおなじみの指揮者で、彼が昔振ったベートーヴェンの交響曲第5番の録音はケーゲルだってこんな解釈はせんだろうという水準の抜け殻演奏で、逆にノーノの『広島の橋の上で』とかの演奏は正確無比としか言い様のない実に的確かつテンションの高い素晴らしい録音に仕上がっているし、同じくノーノの『セリーに基づくカノン風変奏曲』とかリゲティの『レクイエム』の録音なんかも実にドライないい演奏としてごく一部で評価が高い。
と言うわけで本録音はどうせ重油のようなマーラーの苦悩をあっさりそぎ落とした骨組みだけの即物主義の極北のような演奏かな……と高をくくっていたら大違いなのでこうしてレビューを書いている次第です。

確かに、ギーレンのタクトさばきはインバルなんかの演奏と比べると圧倒的に主観性が足りない。だが、そこにはマーラーの晩年の懊悩から倫理的に距離を置こうとするギーレンの節度ある解釈態度が伺えるように思える。歌うべき所は確かに歌い込んでいるのだが、すすり泣きを分かち合うような共感ではなく、あくまで4メートルほどマーラーから離れてマーラー最晩年の肖像を、ギーレンの視点から彫琢しようとしているように感じられるのだ。

演奏は総じて丁寧に音符を追っており、主観性に流れてスコアの音価を蔑ろにしていることはないし、音符間のアーティキュレーションはわざとあっさり目で鋭角的な鳴らし方をしている。このあたりはギーレン節といった感じ。特に中間楽章はそのドライさが逆にマーラーの躁状態の悲しさを的確に示しているように思う。そのキッチリした演奏は彼の楽しげな表情自体がなにか浮薄であるという迷い、怯えを感じさせてくれる。

そして終楽章。大太鼓の一撃が素晴らしい。自らをこの世から引きずり攫っていく死神の弔鐘のように響く凄絶な一撃。スフォルツァンドかつ余韻を抑えた鳴らし方(マーラーの指示通りではあるのだが)がこの世界からの別離の虚無の深淵を恐ろしい程に刻印してくれる。それに続くフルートのソロは比較的自由に歌い込んでいたパユに比べるとやや固い印象はあるものの、乾いた印象を持続させるという点では効果が大きい。

そして最後の弦セクションの13度の跳躍も艶がありつつ寂寥感と諦念が無限に滲み出てくる穏やかさ。ああ、マーラーは、第1楽章のオーケストレーション作業をしていた頃はまだこの世にいたマーラーはもうこの世にいないのだな、永遠に手の届かない彼方へと旅立ってしまったのだな、という切ないほどの喪失感を与えてくれる。

文句なしにお勧め。聴け。

ドストエフスキー『虐げられた人々』
本:小説(ロシア)]

ドストエフスキー『虐げられた人々』について。読んだのは相当昔です。

登場人物の描き分けがやや雑かなという印象はあるが、優しさ溢れる作品。特に物語後半のネリーの一連の話は物語全体のリアリティとフォルムを大きく損なう結果にはなっているが、そのために却って読み手の胸を打つ。特に激昂して割ってしまった茶碗を弁償するために乞食をする場面はのたうち回るほど悲しい。それに引き替え最悪のダメ人間ぶりを露呈しているのはアリョーシャで、安っぽい善人のエゴイズムあるいは醜さを余すところなく描き出しているようにも思う。ドストエフスキー自身の思想性は余り感じられないが、素朴バカや信心深い老人、悪魔的な信条と権力を持つ人物、とことん悲惨な境遇にありながらも魂は清らかな女性等々、彼の後の長編小説に出てくる登場人物の基本セットが一通り揃っている作品ではある。

フィリップ・K・ディック『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』
本:小説(英米)]

フィリップ・K・ディック『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』を読了。

周知の通り『ブレードランナー』の原作だが、全くの別物と見た方がいい。話の内容は巻末の解説にもしっかり書いてあるとおり、「人間とは何か」を問うもので、その解答として著者は他者に対する感情移入を挙げているわけだが、それだけだとどうも掘り下げが浅い読後感しか招かないようにも思う。『ブレードランナー』だとルトガー・ハウアーが辺境惑星での労働がいかに酷たらしいものであるかを切々と訴えたりして、それに鈍感なままの人間のあり方を厳しく糾弾したりして結構考えさせられる内容も多いのだが、もちっとアンドロイドと人間の連続性を強調した上でその図式をひっくり返すところまで(つまりアンドロイドのほうがより『人間的』であるとか)やった方が問題提起としては射程が長くなったのではないかと思う。

エマニュエル・レヴィナス『存在の彼方へ』
本:思想・哲学]

エマニュエル・レヴィナス『存在の彼方へ』の感想。ちなみに読んだのは相当前です。

タイトルを全部訳すと、「存在するとは別の仕方で、あるいは存在することの彼方へ」と非常に回りくどいタイトルになる。

元のフランス語の文章が晦渋の極みであり、ギリシア語やラテン語の知識は勿論のこと現象学やら基礎的存在論とユダヤ教敬虔主義の知識等々を総動員しないと何を言っているのかさっぱり分からないという無茶苦茶に難解な文章で、翻訳はそれを補完するためにさらに分かりづらくなっている(それでも朝日出版社から出ていた版から比べるとかなり読みやすくなっている)という、取っ付きにくさからいえば酷いとしか言い様のない代物になっている。

だが、それに齧り付くように読み進めていく、あるいはその躊躇いに満ちたレヴィナスの思考の足跡を追い縋るように読み進めていくと、そこに現れてくるのは峻厳でありけれども愛と美しさを湛える彼の倫理である。反存在論というレヴィナスの立場は『全体性と無限』以来変化することはないのだが、その立場は本書においてより徹底的なものになっている。即ち、「私」は主体としてデカルト的な形で措定されるのではなく、他者に、他者の「顔」に直面することで一切の主体性を剥ぎ取られ、常にその身代わりとして現存することがその存在者としての不可避の様態であるということが強く強く強調されているのである。世界に対する意識、あるいは他者への責任は「私」の自由の上に成立するのではない。「私」を逃避の余地なく他者のそうした呼びかけ(懇願ともレヴィナスは言う)に曝す、そうすることで生じる応責性が一切の起源(あるいは存在)に先行するとレヴィナスは唱えるのである。この結果私は他者と無限の隔たりを強制されつつもそれに対して無限の責任を負うことで「他者」の悲惨を全て引き受ける身代わりとならざるをえない。

自己の自我に先行する義務、認識されうる起源を破壊してそれに永遠に先行する他者からの責任。この義務にそのまま生きることはほぼ不可能に近いのは言うまでもない。だけれども、他者からの哀訴、あるいは悲鳴に似た「語りかけ」に私が選択の余地なく向き合わされるとき、レヴィナスの他者論は強い示唆を与えてくれる。

原書なら絶賛してお勧めするのだが、翻訳はどうしても翻訳不可能性が立ちはだかってしまうので人を選ぶとは思う。

ショスタコーヴィチ:交響曲第5番(ムラヴィンスキー盤)
CD:クラシック現代]

ショスタコーヴィチ:交響曲第5番(ムラヴィンスキー盤)をディスクユニオンで見つけて落手して聴いた。

弦楽セクションの緊張感が極めて無茶苦茶に高いのがこの録音を名盤ならしめているのは以前から仄聞していたのだが、実際聴いてみると壮絶以外の何物でもない。中間の緩徐楽章もとりあえず緩いのはテンポだけで縦の線は死守して音量指示は数値化できるほど守っているという強烈さ。そして第4楽章のギチギチぶりは全然勝利の凱歌じゃないよこんなのむしろノルマ250%達成目指して昼夜の別なく働き続けるムキムキ労働者という気分にさせられる。他の指揮者の演奏に比べると相当速いテンポだし、そのテンポ自体も各所で相当に揺らしている(特にフィナーレは崩壊寸前までルバートしている)のだが、それでも一糸乱れぬ統率できっちりアンサンブルを縛り上げる第一ヴァイオリンはセル時代のクリーヴランドもかくありなんと思えるほど厳しい。
とにかく癒しとかヒーリングとかそういうたわけた思考は瞬時に粉砕されるような素晴らしい演奏。ハラショー。

でも録音としては咳やら何やらのノイズがちょっと気になったのでその辺りがちょっとペケ。

マーラー:交響曲第2番『復活』(バーンスタイン盤)
CD:クラシック近代]

マーラー:交響曲第2番『復活』(バーンスタイン&ニューヨークフィル盤)を聴いた。

今までは「復活」と言えばワルターやクレンペラーの比較的テンポの速い演奏に慣れていたので、第一楽章のコントラバスの旋律には過剰な重々しさを拭いきれないでいたのだが、終楽章の復活の賛歌は素晴らしいの一言に尽きる。特に、

Sterben werd ich, um zu leben!
(私は死ぬだろう、再び生きんが為に!)
Auferstehn, ja auferstehn wirst du,
(甦るのだ、そう、汝は甦るのだ)
mein Herz, in einem Nu!
(我が魂よ、今こそ直ちに!)
Was du geschlagen,
zu Gott wird es dich tragen!
(汝の打ち破りしものが、汝を神の御許へと運んでゆくだろう!)
のくだりは鳥肌が立つ。死すべき魂とその復活を祝福するカリヨン。大空へと、或いは無限の歓喜へと死すらを遙かに越えて飛翔する魂。この録音はライブ盤だそうなのだが、こんな壮絶な演奏を生で聴いたら失神するかもしれない。でも一度聴いてみたかったな。

ハ短調の交響曲といえばベートーヴェンの5番やブラームスの1番とかショスタコーヴィチの4番もハ短調だ。主題に生の苦悩や懊悩、あるいは不条理に対する絶望や憂愁と、その救済を意識した(と私は思う)これらの作品群がいずれもハ短調であるのは興味深い。

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