ノーノつながりということで、カンチェリの『Lament』を聴いた。
カンチェリはグルジア出身の現代作曲家だが、この曲は元々共作する予定だったノーノの想い出に捧げられている。この録音でのヴァイオリン独奏は『未来のユートピア的ノスタルジー的遠方』などの初演をおこなったクレーメル。東欧系の作曲家の作品紹介では定評のあるECM New Seriesだが、この作品は実に痛々しい、ノーノの不在という事実を浮かび上がらせている。
ノーノが晩年、共産主義の退潮に伴って、創作意欲が枯渇するほどのショックを受けていたことはよく知られている。結果、『断章―静寂、ディオティマへ』や『旅する者よ、道はない、だが夢見ながら進まねばならない』といった極めて黙示録的な作品群を遺している。社会の革命はその本質において人間性の革新でなければならない、そうしたノーノの理念は、人間の内面、あるいは精神が存在する必要性の地平まで沈潜することで再度深化されていたのだ。だからこそ、晩年のノーノの作品は単なる政治アジテーション音楽ではなく、われわれ自身の認識そのものが物象化され平準化され、「非-場所」というユートピアを夢見る能力そのものが破壊されている事態を徹底的に無言の絶叫で切り裂く。
カンチェリの『Lament』は、彼なりの広漠とした音楽言語を用い、そうしたノーノの晩年の境涯の意味を彼の不在、喪失と共に嘆くでもなく静かに示す。マーヒャ・ドイブナーのソプラノは終結部でようやくハンス・ザールの詩を歌うが、それまでは時折思い出すかのような、夢を見るかのような歌詞が模糊として聴き取れない歌を弔いとして、口をついて語られる、晩年のノーノの問題意識に対する、覚束無い足取りの空虚に満ちた呟きを奏でる。そしてクレーメルのヴァイオリンは、ノーノの葬列を見送るヴェネツィア、あるいはわれわれ自身の心の中でたゆたう波の風景の音色のように揺れながら進んでゆく。
また、時折入ってくるオケのトゥッティの乱暴な音色は、かくの如きノーノの死を単なる追悼として捉えるような安易な喪の意識自体を斬りつけてくる。ノーノが死んだことを、嘆いてはいけないのだ。悲しんではいけないのだ。彼は我々に課題を、本来は共に考え合うべきであった極めて重大な、我々の精神自体の挫滅という問題を突きつけて、なお時間の彼方へと、風景の向こうへと背中を向けて歩いて行ってしまった。
夢を見なければいけないのだ、全く別な、この世界のどこにもない場所を、その兆しを微かに聴き取るためにも。そしてまさにその力こそが、今人間の精神において危機に瀕している。カンチェリの、この曲における極めて躊躇いがちな旋律の流れは、そのような問いかけの無力さを、分かち合うでもなく嘆き、訥々と語る。
ああ、我々は、聴くようなふりをして、結局何も聴いていないのだ。