エマニュエル・レヴィナス『存在の彼方へ』の感想。ちなみに読んだのは相当前です。
タイトルを全部訳すと、「存在するとは別の仕方で、あるいは存在することの彼方へ」と非常に回りくどいタイトルになる。
元のフランス語の文章が晦渋の極みであり、ギリシア語やラテン語の知識は勿論のこと現象学やら基礎的存在論とユダヤ教敬虔主義の知識等々を総動員しないと何を言っているのかさっぱり分からないという無茶苦茶に難解な文章で、翻訳はそれを補完するためにさらに分かりづらくなっている(それでも朝日出版社から出ていた版から比べるとかなり読みやすくなっている)という、取っ付きにくさからいえば酷いとしか言い様のない代物になっている。
だが、それに齧り付くように読み進めていく、あるいはその躊躇いに満ちたレヴィナスの思考の足跡を追い縋るように読み進めていくと、そこに現れてくるのは峻厳でありけれども愛と美しさを湛える彼の倫理である。反存在論というレヴィナスの立場は『全体性と無限』以来変化することはないのだが、その立場は本書においてより徹底的なものになっている。即ち、「私」は主体としてデカルト的な形で措定されるのではなく、他者に、他者の「顔」に直面することで一切の主体性を剥ぎ取られ、常にその身代わりとして現存することがその存在者としての不可避の様態であるということが強く強く強調されているのである。世界に対する意識、あるいは他者への責任は「私」の自由の上に成立するのではない。「私」を逃避の余地なく他者のそうした呼びかけ(懇願ともレヴィナスは言う)に曝す、そうすることで生じる応責性が一切の起源(あるいは存在)に先行するとレヴィナスは唱えるのである。この結果私は他者と無限の隔たりを強制されつつもそれに対して無限の責任を負うことで「他者」の悲惨を全て引き受ける身代わりとならざるをえない。
自己の自我に先行する義務、認識されうる起源を破壊してそれに永遠に先行する他者からの責任。この義務にそのまま生きることはほぼ不可能に近いのは言うまでもない。だけれども、他者からの哀訴、あるいは悲鳴に似た「語りかけ」に私が選択の余地なく向き合わされるとき、レヴィナスの他者論は強い示唆を与えてくれる。
原書なら絶賛してお勧めするのだが、翻訳はどうしても翻訳不可能性が立ちはだかってしまうので人を選ぶとは思う。