ヴェブレンの『有閑階級の理論』を去年の暮れに読んだ。
今となっては彼の消費理論は別に目新しくも何ともないし、同著作に関する極めて鋭く広射程の批評はアドルノの「ヴェブレンの文化攻撃」(『プリズメン』所収)で読むことができるが、このような思想を大恐慌前のアメリカ社会に叩き付けた思想家がいたということは、人間の知性、就中批判的精神に対する一つの救いであるように思う。
消費が所属階級の優位性を表象するためだけのものであり、文化とは即ち階級の宣伝行為であるという彼の衒示的消費についての考えは、確かに所謂制度派経済学として硬直化して捉えるのであれば、消費についての機能的契機(つまり食事には当然見栄もあるが生命活動を維持するという働きもあるわけで)を無視してしまうことは当然批判として想定しうる内容である。だが、そんなつまらない批判を越えて『有閑階級の理論』が攻撃するのは、もう一つは古代の野蛮、即ち略奪的経済の痕跡が今日の社会では経済行動という形で反復されているということであろうと思う。つまり、大昔石器時代の人間が自然界からの獲得物を戦果と武功の象徴として誇示していた行動が、今日では消費という形、あるいは家政形態で反復されているのだ。ここにおいてヴェブレンが見いだすのは、一見都市文明の栄華のように思われる文化活動そのものの中にも実は野蛮の痕跡がはっきりと存在しているということである。むしろ殺戮を伴わないだけでその文化活動は尚更啓蒙された野蛮の体裁を保存しているといってもいいだろう。
こうして考えると、アドルノがこの著作の中にそうした契機を見いだして論じたのも、『啓蒙の弁証法』との連関においてなるほどなと思わされるところがあるように思う。
制度派経済学を社会学に応用して論じたものといえば近年ではピエール・ブルデューの『ディスタンクシオン』なんかがメジャーだし、記号論の本なんかを読めばこの手の話はいくらでもお目にかかることができるが、古典として、そして一見謀略や殺戮とは最も無縁に思われる「文化」に澱む暴力と野蛮の消しがたい証拠について考えるためにも、こういう本は読んで然るべきだと思う。
でも、階級と文化活動に何の相関もない(cf.苅谷剛彦『大衆教育社会のゆくえ』中公新書)日本で暮らしてると、時にはそういう相関がある社会の方が色々と助かることがあるのにねえ、と思わないではないのもまた事実だったり、考え悩むことは少なくないのです。