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バッハ:無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ(クレーメル新盤)

バッハ:無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ(クレーメル新盤)を聴いた。新録音盤と言っても発売されたのは2005年なので誤解なきよう。

ヴィヴラートを抑制し、時として乱暴にすら響くアクセントの付け方やデュナーミクは決して美音的ではないという点で、名盤とされるシェリング盤やクイケン盤とは対極にあり、むしろシゲティのそれに近いと思う。但し、全体的に遅めの速度でバッハの器楽曲に内在する精神の孤独な輝きを必死に掘り出そうとするシゲティのに比べて、クレーメルの演奏はかなり速く弾いている箇所も少なくなく、それでいて音の粒が全く崩れていないのはクレーメルの演奏の技術水準の高さを証明していると言っていいだろう。また、手元にあるヨアヒム版の楽譜と見比べると、各所で解釈の違いが見られるのだが、そのいずれも彼の演奏の高い説得力と緻密な弾き分けで全く以て納得させられてしまう。

そして、クレーメルのこの演奏を聴いて浮上してくるのは、バッハのような美が今日では最早不可能になってしまった事への諦念に似た距離感である。これは残響を強く残した録音にも依るところにも大きいのだろうが、元々現代音楽の演奏において評価の高い(ペルトやノーノのヴァイオリン曲でまともな録音が聴けるのはクレーメルの功績の一つである)クレーメルのバッハに対する態度は、単にそれが美しく、モダン楽器であっても全くその価値が減じることのない独奏曲の最高峰として例えばシャコンヌを礼賛しているだけではないように私には思える。美的な、単に美しい――それはそれ自体として極めて困難な一つの到達点ではあるのだが――演奏ではなく、敢えてピリオド楽器の時代のようにヴィヴラートを抑制し、敢えて言うならば傷だらけの音符の連なりを敢えて剥き出しにして差し出すことで、クレーメルはこのような音楽が不可能になりつつある現代の商業化された文化の自滅的状況を嘆くでもなく、そこから静かに遠ざかろうとしているように感じられてならない。例えばこの録音の最後のジーグは前半の短調の曲群に比べて、何と明るい開放感に満ちていることだろうか。険しい音色でありつつも伸びやかな健やかさを湛えたこの演奏において、クレーメルはバッハの時代と現代の音楽状況の双方から静かに微笑みを浮かべつつ別れを告げようとしている。

そういう意味において、単に美しいのみならず、聴いていて極めて辛い気持にさせられる録音。単にこの曲の素晴らしさを堪能したいだけであればシェリング盤を勧める。但し、我々の時代が持つ美的なものへの不可能性といったアポリアに沈潜して思考したいのであれば、クレーメルのこの演奏は一つの手がかりを与えてくれるかもしれないと思う。

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2007年01月05日 00:08に投稿されたエントリーのページです。

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