『無伴奏「シャコンヌ」』をビデオからDVDに焼く過程で、データのチェックも兼ねて何回か見た。最後の場面では震えが止まらなかった。自分の卑小さがつくづく恥ずかしくなった。
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芸術なるものが功利追求、或いは「癒し」といった労働力再生産の手段に堕すようになって久しい。そこそこに耳当たりの良い、時として甘美かつ装飾性の高いものばかりが芸術としてもてはやされ、その知識を衒学的に振り回すことがさも教養であり、その人間が属する文化水準の高さを示すが如きである。棚に並ぶグラモフォンのCDはとりもなおさずその人間のディスタンクシオンであるというわけだ。
文化が経済の欺瞞の上に成立する、それは今となっては極めて当たり前なことなのかもしれない。経済的に成功した人間が、あるいは経済的な成功を求めるがために人口に膾炙した「文化活動」に人々が勤しむのはそれ自体としては別段不思議ではない。それが衒示的消費であり、大なり小なり形而上学的な世界のへの入り口というのはそうして開かれるものだ。
けれども、芸術や文化の崇高が単なるそのようなコミュニケーションのための通貨に成り下がる、あるいは単なる気晴らしのための消費財に変質してしまうとき、コミュニケーションの否定或いは破壊によってこそ成立する、より超越的なものに対する認識は跡形もなく消滅する。分かりにくいものは悪であり、そこそこに美しくないものは需要に一致しないとの理由で門前払いを食らう。我々は極めて多くの場合、そのような孤独やそれに伴って生じる貧困を恐れる余り、適当な言い訳を作っては自分を誤魔化して怠ける日和見主義を選択する。それでも文化的だとか教養あるだとかいうお体裁が取り繕えれば、ロマン派の音楽はそこそこ素敵だし、特にラフマニノフとかシューマンなんて綺麗でいいよねー、となる。マーラーの10番を愛好する人間は世間の機嫌を損ねる余りバイバイだ。
しかし本作品の主人公アルマンはそのような世界に徹底して背を向ける。バッハの「無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ」の中の「シャコンヌ」を、全ての地位を放擲し、地下鉄のコンコースで街頭演奏を続けるのだ。
何故「シャコンヌ」なのか、という説明は本作品ではバッサリと切り捨てられている。そんなことに理由を求める人間は最初からこの作品を理解する資格がないとでもいうかのように。そして、シャコンヌが美しいから、弾き手がそれを求めるから、という理由に逢着する思考方法は恐らく正しいかもしれないが、根本のところで間違ってもいる。崇高なまでに絶対的な事柄の前では、いかなる合理性の探究も無意味になるということをそのような思考方法は忘れているからだ。この作品においては、そしてアルマンにとっては、シャコンヌは一切の交換可能性を破壊するだけの絶対的な存在なのである。従って、人間が主人公なのではない。人間に呼びかけ、魂を引き攫っていくもの、それは本作品においては「シャコンヌ」なのである。そして、究極的に形而上のものであり、故に時間の終焉においても、或いは世界の終わりに於いてもその形姿を失わないシャコンヌは、アルマンにとっては今日的な音楽美学のヘゲモニーを徹底的に否定する救済の象徴でもある。即ち、彼にとってはこのような作品が存在することそのものが人間というものが魂に於いても存在するものに値するという信念の確信を形成している。もっと究極的にいえば、彼にとってはシャコンヌを否定するならばそれは人間の精神の否定でもあるのだ。楽器を叩き壊された場面で彼が魂柱を探すときの言葉「Ou est l'ame?」は「魂はどこだ?」と訳すことができる。そして物語の終盤で魂柱を狂人のように弄ぶアルマンの姿は、今日の音楽の惨状が「たましい」の忘却と表裏一体をなしていることのアレゴリーでもあるように私には思える。精神を、魂を甦らせるために、そして死によって不死へと逢着するがために、魂は再び安易な交歓や共有を否定する、無限に沈黙して奏でられ続ける響きの奥底へと歩まねばならない。この絶対的な孤独の極限においてのみ、垣間見える――あくまで垣間見えるでしかないのだが――奇跡の如き恩寵の瞬間は、全てのものを無価値にすると同時に、全ての存在者を一切の無価値さゆえに結びつけるのである。
この点を踏まえることで、この映画が首尾一貫した物語の展開という点では完全に破綻している必然性もようやく分かると思う。商品としての共約可能性を否定し去ることを前提とすること、それ自体を核心に据える本作品においては、妥当かつ最大多数の人を納得させるだけのカタルシスを伴う必要はもとよりない。ただ、アルマンにとって、シャコンヌが、彼の一切を破滅させつつも、それによってようやく彼の精神を、魂を全ての時間の中で屹立すべきものへと呼びかけているのだ、という圧倒的な衝撃が、我々の意識を粉砕してしまえば、実はそれ以上のものは何も必要なかったのである。