2013年03月
『シャッターチャンスの連続』  (2013.03.25)


パーティーなどの大事なイベントでは、せっかくだからデジタル一眼レフを持ち出すようにしている。スマートフォンとかでの撮影は他の人がやるから別にいいし、写真はFB等で共有できる便利な時代でもあるからだ。ナノクリレンズの驚異的な描写力とセンサーサイズの馬力を生かしたボケ味で、ポートレート写真などはそれなりに評判がいい。ええ、一応目にピンは入れて撮ってますから。


そういう経緯で、「カメラの人」みたいな評判が立つこともあり、心優しい方は私の写真をこのカメラで撮ってくれることもあったりするわけです。パンフォーカスが基本のスマホとは違って、絞りで被写界深度を調整する必要のある一眼だとピンが抜けたりすることが多々あるのはまあ仕方のないことなので、ここは特に言及しないことにします。


その時、デジタル一眼を構える時の姿勢に、世代による明確な違いがあることに最近気がついた。私より年上の人たちはDSLRはよほどの機械音痴でもない限り、ファインダーを覗いての構え方をすぐにとることができる。即ち、レンズの鏡胴に左手をあてがい、右のグリップとレリーズボタンに右手をあてがい、ファインダーを利き目で覗くというあの伝統的なスタイルである。ところが、私より年下、特に一定の世代より下の年齢層になると、それが全くできないということに気づく。「ファインダーを覗いて撮るんだよ」といっても、ファインダーがどれであるのか分からない様子だし、そもそもがカメラの持ち方が両手共にグリップするというスタイルなので危なっかしいことこの上ない(D300+ナノクリレンズ+GN50のスピードライトという仕様だと総重量はほぼ3キロになる)。恐らく、彼ら彼女らにとっては、「カメラで撮影する」という行為は、カシオのQV-10に始まる現在のコンパクトデジカメの基本的スタイル以外の何ものでもないのだろう。そしてこのスタイルはスマートフォンがコンパクトデジタルを浸食しつつある現在においても同様だろう。


このことは、撮影のスタイルが変化したという身体的構えの変化以上の意味があるように、私は思う。ファインダーを搭載したカメラで異性のポートレート撮影をしたことのある人は概ね経験があると思うが、ファインダー越しに被写体と目があうという経験は、日常で目があう以上にアンティームな関係性を期待させる非日常的な興奮を与えてくれるものだ。それは、ファインダーという機構が、単なる撮影のための補助的なシステムではなく、目という肉体的器官の延長として、なおかつ意識の指向性を伴うものとして、被写体の意識と関わり合うための手段になりうるからであろう。即ち、私たちの目は、ファインダーを通じて、あたかも手で触れるかのような感覚すら手に入れることになるのだ。そして、一般的な撮影においては、このような撮影を許可するということは、被写体と撮影者の双方にある種の暗黙の合意が形成されていることも場合によっては必要とする。緊張をほぐす際の予備的撮影手段としてケーブルレリーズを用いることがあるのもそのためだろう(リラックスしたポートレート撮影を行う場合には、ケーブルレリーズがよく使われる)。


ところが、それとは逆に、背面液晶による(ライブビュー方式の)撮影が基本となるコンパクトデジカメやスマートフォン、あるいはエントリーレベルのミラーレスレンズ交換式カメラでは、「眼差し」の延長としてのファインダーは存在せず、撮影者以外の介入を許す背面液晶によって構図を決定することになる。これが意味するのは、撮影が、自分の眼差しではなく、広義の公共的な意味での「視点」によって撮影が行われるということだ。「撮影」という、従来極めて私的であった瞬間が、誰もがアクセスしうるものとして開放されることによって、撮影者と被写体の関係性は、私的なものから第三者の介入を許容する、どちらかといえば公的なものへと変化するのではないか。そしてそこで撮影される写真なるものは、荒木経惟が得意とする個人の内面性・主観的心象風景と濃密に融合したものではなく、むしろ公共的な、即ち「私」を捨象したコミュニケーションのメディアへと変容するのではないだろうか。


無論、これは私の個人的な仮説であり、エビデンスなど何も無いものである。だが、もしそうであるとするならば、私たちは、これからより若い世代が撮影した数々のスナップショットについて、そこに地滑り的に生じている内面性の棄却と、かつてプンクトゥムという言葉でバルトが愛した関係性の表象としての写真という位置づけから、撮影者が置かれているその時点でのコミュニケーション構造の投影という枠組みへの変化という文脈で、それらを理解することも時には必要なのではないか。そして、そのよう行為の蓄積そのものがとりもなおさず我々の世代と彼らの世代に横たわるメンタリティの埋めがたい差異を示しているのではないか。


Facebookに流れる桜の写真の数々を見ながら、そんなことを思った。


build by HL-imgdiary Ver.1.25