2012年12月
忘れることもできず  (2012.12.04)

大学時代の知人(女性)が亡くなったという知らせを受けた。

ただですら生来人付き合いがあまり好きではない私は、大学時代の知人・友人との関係がとりわけ希薄で、ほんの数人を除いては全くといっていいほど付き合いがない。それでもその訃報に接したとき、かなり前に彼女からメールをもらい、何回かやりとりをしたことを思い出した。

メーラーのアーカイブを検索したところ、当時のやりとりが発掘できた。10年以上前のものだ。
メールを読み返しながら、思う。10年の時を経て、私が全く別の感情で、このやりとりを読み返すことを、当時の彼女や私は予見できただろうかと。

その意味では、デジタルとは、残酷な世界である。物理的な障害が生じない限り、メディアに刻まれた情報はそれを残した当人の時間を超えて蓄積し、残存していく。じじつ、ネット上では、今は既にこの世にいない人々が残した文章、写真、イラスト、動画等を、私たちは見ることができる。それはまぎれもなく、彼ら・彼女らがかつては情熱をそこに注いでいたのだという在りし日の息吹を、伝えてくれる。

だが、人間というものは、忘れることで生きていけるものではないのかと思う。いや、正確な言い方をすれば、全ての生々しさから少しずつ少しずつ形象をはぎ取って、過去というものを時間の回廊にしまい込んでいく作業をするからこそ、私たちはそれが語り得ぬものではなく、語られうるものにようやくなることに安堵を覚えるのではないだろうか。

しかし、このデジタルという世界は、そのありがちで表層的な理解とは全く逆に、全ての生々しさをそのままにとどめることによって、私たちが忘れることを許してくれない。それは、タンタロスのように永遠の乾きという罰を受けているかのような痛みすら与え続ける。

もちろん、その生々しさと共に忘れてはいけない過去というものは、確かに存在する。けれども、私は、時には少しずつ忘れることで、人として穏やかにありたいと思う。


彼女の上に、永遠の平穏がありますように。


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