2012年06月
アイマスライブに行きました(詳報)  (2012.06.29)


6/23にアイマスのライブ「THE IDOLM@STER 7th ANNIVERSARY 765PRO ALLSTARS みんなといっしょに!」に行ってきた。座席はセンター席・前から10列目、脇花道すぐそばというハラショー以外の何ものでもない素晴らしい座席。実際、脇花道を通るアイマスガールズの方々のうち何人か(特にミンゴスこと今井麻美さん)とは目が合ったし、アッキーこと長谷川明子さんには手を振ってもらいました。♪目と目が合う瞬間、好きだと気づいた……というのはさておき、実際素晴らしいライブだったように思う。TwitterのTLを見ていると、明日がライブだから(これを書いているのは6/29)気合いを入れていこうという、まさに「ビューティフルドリーマー」状態のプロデューサー・プロデュンヌ諸氏が沢山いる。それほど、一体感と感動に満ちたライブであった。そういう私も、稀代の名曲と全力で言える「約束」が今井麻美さんによって歌われた時には滂沱の涙を禁じ得なかった。これを読んでいる人でもしもこの曲を知らない人がいたら、是非検索して聴いてみて欲しい。

セットリストや演出については各種ニュースが報道しているとおりであるので、ここではそれについての紹介は省く。ただ、私が思ったことを、つらつらとここでは書きたい。

詳細な考察は後日に譲る予定だが、アニメで取り上げられた「The Idolm@ster」で中心となる765プロのヒロイン達(とプロデューサーや社長も含む)が形成する共同体は、その関係性において恐らく私たちが理想とするものであろうと思う。目標を共有し、時には切磋琢磨しつつも、お互いに助け合う。そして歓喜も、悲しみも、苦しみも共に分かち合う関係。それは時として無論ある種の危うさを孕むものであることは認めなければならないが、紐帯、あるいは連帯が破綻した我々の社会からは、そのような境涯は眩しすぎるほどに眩しく見えるのもまた事実であると言っていい。

そしてアイマスがそのような関係性の物語を虚構として完結させていないのは、その周縁において数多く作られてきたCGMや、声優陣が携わってきたラジオ番組等の豊富な蓄積、そしてIdolm@sterというコンテンツそのものが成し遂げてきた約10年間の成長という物語が、アニメによる集約を経て、プロデューサーやプロデュンヌと呼ばれるファンの間で、1つの架空でありつつも極めてリアリティのある共同幻想を構築し得たという事実が、かの虚構をファンの経験に根ざした1つの共同の理想へと転換せしめたからに他ならない。そして、それを象徴するのが、「みんなといっしょに」という今回のライブのキャッチコピーではなかったのかと思う。

無論、この共同体は虚構を出発点としている以上、ファンの内面にのみその根拠を持つ、非常に脆いものでしかない。また、この共同体が包摂している理想や関係性というものも、何ら現実的なものではない。ライブが終われば我々は「副業」に戻らざるを得ないし、そこに広がる実社会の関係性は、言うまでもなくそのような、我々がライブで垣間見た希望や、味わった興奮を打ちひしぐに十分なものであるということも事実だろう。

けれども、あの日に見た光景から、私は今一度歌おうと思う。


夢見ることは生きること、と。


行ってきました。  (2012.06.25)


6/23の横浜アリーナのアイマスライブ、行ってきました。

触発されて色々思うところがありますが、これはアニメの感想と合わせて近日中に公開したいと思います。


正しい世界は絶対的に間違っていることの見本  (2012.06.19)

ダウンロード違法化が以前可決されてからほぼ決まっていたことだが、先日ついに刑罰化も衆院を通過した。そもそもがこの刑罰化を提案したのは野党転落後ただの極右と化しつつある自民党なので、このまま刑罰化の流れは決まりなのだろう。

本来有価物であるはずの著作物をタダでダウンロードしてきて視聴する、確かにこれ自体は著作権の観点からは明らかに違法である。いわばデジタル泥棒といわれても仕方ない行為ではあると、私も思う。そういう観点からは刑罰化という発想が出てくるのは法律ノーメンクラトゥーラの思考回路からすれば別段不思議ではない。

だが、それは反駁の余地なく正しいが故に、絶対的に間違っている。彼ら著作権の寄生生活者がお墨付きを与えたルートでしか音楽が、映像が、文章が流通しないのだとしたら、我々のこの社会の文化の流通とコミュニケーションは、上意下達のひどく貧しいものに成り果ててしまうだろう。マスメディアの時代錯誤の古色蒼然とした文化産業的アプローチによるマスマーケティング、ステマと揶揄すら出来ないような記事広告、視聴率が10%未満のドラマでのタイアップ主題歌。喫茶店やバーでのBGM狩りをJASRACが積極的に行うようになり、そして今度の、タッチポイントを自ら焼き払ってしまうネットのデータ流通に対するこのような宣戦布告は、結果として社会のコンテクストから例えば音楽を奪い去る。結果として訪れるのは沈黙の春ならぬ沈黙の都市であり、握手券ほしさに数百枚と狂信的な買い方をするファンや、CDラックを眺めて悦に入るようなクラオタ以外は来る人のいなくなったCDショップである。即ち、著作物に寄生して活きる連中は、目の前の小銭に固執するあまり自らの正しさという貧相な正義を社会に押しつけることによって、実は自らの斜陽と破滅を招いているのである。

若年層の可処分所得がどんどん減り、その残りですらスマートフォンの月額使用料に消えていく昨今、最早CDなどを買うだけの有効需要などないだろう。そして沈黙の都市の中で、音楽産業はシャイロックやアルパゴンとともに滅んでいくのだ。ざまあみやがれ!


オーケストラをやめることにした  (2012.06.15)


昨年の春頃だっただろうか。ふとしたつながりでオーケストラに再び参加することにしたことは、この日記でも書いたと思う。10年近いブランクを経てのことであり、慣れないことも多いながらもそれなりに前回の演奏会は色々な人の助けのお陰でやれたような気がする。
だが次回の演奏会について目下練習中の6月、色々と思うところがあって運営・演奏の一切から手を引くことにした。けじめという意味もあり、あと数年は一般団員としてもよほどのことがない限りはオーケストラには関わらないと思う。実際、これを契機にFacebookでも何人かの知人が私をリムーブしたようだが、それはそれで仕方のないことだと思う。私の取った行動は実際無責任であると批判されても仕方のないものだからだ。

退団を決意するに到った細かい経緯についてはここで述べても意味のあることではないし、それ自体として単なる恨み言の域を出るものではない以上、控えるのが適切だろう。だが、私のようなケースが繰り返されないようにあえて遺言がてらいくつかの教訓を残しておくとすれば、都内のアマチュアオーケストラの数は練習場の確保やホールの貸し出しの総数から考えても明らかに適正規模を超えており、その数の適切とは言いがたい増加の背景には、明らかに個々人、特にシート争いの激しいいくつかの楽器の奏者のエゴがあるということだ。そしてそれに弦楽器の奏者が関わろうとするのであれば、彼らのメンタリティとモチベーションを理解するだけの度量が要求されるということも、覚悟しておく必要があるということも、付言しておく必要があるだろう。
しかし同時に、そのような不均衡を口実にした数多くの弦奏者のある種不誠実な、あるいはモラトリアム的と形容してもいいだろう態度についても、私は残念ながら不信の念を抱かずにはいられなかったのも事実だ。経緯はどうであれ一つの集団に参加するということは一定の責任を同時に引き受けることであり、自分が数の上で「珍重」されているからと行ってそれを利用して団費を払わなかったり練習をサボり放題にサボったり平然と遅刻してくるという態度は、少なくとも社会人としてあまり褒められたものではないはずだ。そのような人々は、仕事でミーティングなどにおいても同様の態度を取るのか。恐らく大半の人はそうではないはずだ。だとすれば、それは単に他者を小馬鹿にしているだけだ。そういうあり方に、私は耐えることが出来ない。

正直私にはそのような現実に対する覚悟や意識や楽器の技量が足りなかったし、以前運営に携わっていた市民オーケストラでは後援会組織も含めて比較的運営組織がしっかりしていたことに救われていたのだということは今更ながらに認識せざるを得ない。

いずれにしても、正直うんざりしたと同時に疲れたというのが現在の感想だ。引継業務についての連絡も未だに来ていないが、これは全て放擲して休めという意味なのだと好意的に解釈して、再び世捨て人のような生活に戻ろうかと思う。


学ぶことの倫理  (2012.06.10)



「どうして勉強するのか」という人類が勉強するようになってから延々と繰り返されてきたこの手の問いについての増田(http://anond.hatelabo.jp/20120608010005)が結構話題になってて、MK2さんのところ(http://d.hatena.ne.jp/nakamurabashi/)でも取り上げられてたようなので便乗ついでに書いてみたいと思います。

上を見たらきりがないのだけれど、塾とか中高とか大学とか院とかでカミソリもたじろぐほどに頭の切れる人を沢山見てきてずっとコンプレックスを抱いてきた、その割には怠け者な私が偉そうに何を言うんだという批判はさておくとして、何故勉強をするのかという問いは、私も塾の講師をしていた時にはずいぶんと第二次反抗期の彼らから質問を受けたものです。

勿論その質問が意図するところは「役に立たないんだろ、だからやる必要はないよね」という怠け心に他ならないわけですが、実はどのように役に立つのかという答えはそれ自体としてあまり価値のあるようなものではないと私は考えています。むしろ、何故勉強をするのか、という問いについては、勉強によって君自身の役に立つものなど何一つないし、むしろ勉強の意義とは、それによって君が他の人の役に立てるようになることであり、勉強すればするほど人の役に立てる範囲と内容が向上していくのだ、というのが私なりの定式化ではないかなと考えています。言うまでもなく、私という存在は他者によって実は再度生み出されたものですが、その他者に対して役に立てる可能性が広がるということは、それ自体として「私」自身を巡り巡って豊かにし、結果として絶えず新しい「私」を生み出す契機になっていると思うからでもあります。

その意味においては、直接的に自分の役に立つようななにがしかの勉強の対象があるとして、もしそういうものを根拠として学ぶというのであれば、私はむしろそれは賤しいものではないかと考えます。むしろ学ぶこととは、カントが啓蒙について定義したように、自らの幼年期を脱し、他者への眼差しをいかにして自らに獲得していくのかという一続きの倫理的なプロセスであるべきではないのかとも私は思います。

経済的利益の獲得こそが人生において最も望まれるものであり、先端的な科学技術が惹起している各種の倫理的問題を顧慮することなく知的好奇心の礼賛ばかりが罷り通る昨今において、もう一度「何故学ぶのか」を年齢の上では大人になってしまった私たちも、問い直す必要があるのかもしれません。


友人のMさんを悼む  (2012.06.04)

昨年の11月、友人のフランス人カップルを新宿の「でめ金」にてもてなしたという話を日記に書いた(http://www.tunnel-company.com/diary/bn2011_11.html)。その片割れのMさん(女性)は実は数年前に結構きつい病気をやっていたのだが、その後の経過も良く、本人の酒好きということもあり、その場では日本酒やホッピーを結構な量みんなで呷った。後日、ウイスキーがお好きだというお二人のために、竹鶴21年を購入してお土産として送ったりもした。

ところが先日、彼女がパリでこの世を去ったという知らせに接した。正直耳と頭を疑った。検査も兼ねて入院したくらいなら分からないではないが、そんなはずはないと頭は混乱するだけだった。だがしかし、彼氏であるP氏に電話を急遽かけて訊いてみたところ、やはり事実であった。

Mさんは私の仏語の師匠の娘さんに当たる人で、知遇を得たのは私が留学中だった頃だから、かれこれ10年以上の付き合いになる。当然といえば当然だが仏語については私など到底及ばない高い知識と運用能力を持ち、その明朗な性格もあって友人も少なくなかったと思う。事実、パリで彼女の誕生パーティーがあった時は、彼女の周りは数多くの花束で埋め尽くされており、「なんだ自分は酒かお菓子でも持っていけば良かった」と独りごちたのを、私は昨日のように思い出す。

何故、と思う。私のような怠惰で性格も腐った人間の命を奪わず、神(というものがいるとすれば)は何故彼女のような聡明で温厚な人をその天寿を全うさせることなく、連れ去ってしまうのか。ここ何年かで同様の報に接する度に私はそのことを呪う。悔しいし、悲しい。


先週、新宿に仕事で出かけた折、道すがら「でめ金」の前を通った。
昼と夜との違いこそあれど、その店のたたずまいは勿論何も変わらず、行き交う人もまた然りである。けれども、私の胸では、その店の風景において、ぽっかりと欠落する悲しみが、音のない時間の中で微かに震えていた。


諸々あってクラシックは今到底聴く気になれないのだが、フォーレのレクイエムの『楽園にて』を彼女の想い出と共に、聴くことにしたい。

さようなら、Mさん。またあなたとはどこかで楽しく酒を飲める日が来るような気がします。


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