2011年04月
演奏会のお知らせ  (2011.04.29)

ええと、2月頃の日記でオーケストラに参加することは書いたと思うのですが、その演奏会が5月22日に行われます。曲目などは以下の通りです。

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2011年5月22日(日) 13:30 開場、14:00 開演
ルネこだいら
(小平市民文化会館, http://www.runekodaira.or.jp/info/doc04.html) 大ホール

曲目などは以下の通りです。
オットー・ニコライ:歌劇『ウィンザーの陽気な女房たち』−序曲
フランツ・シューベルト:交響曲 第7番 ロ短調 D759「未完成」
ヨハネス・ブラームス:交響曲 第3番 ヘ長調 作品90
指揮:石川 星太郎
コンサートミストレス:須賀 麻里江
主催:オーケストラ・シンフォニカ・フォレスタ
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当日の演奏会では小生は1stVnを担当します。どこのプルトかは現在まだ決まってませんが、オモテで弾くことはほぼ確定の模様です。
そんなわけなので、左大臣が仕事の時より遙かに真面目に(ここ大事)楽器を弾く様子を見たい方(見たくない方ももちろん)は、是非ともご一報下さい。ご招待させていただきます。


グレーを黒と断じるファシズム  (2011.04.24)

私の好きなアニメ作品の一つに、『灰羽連盟』という作品がある。どういう作品かについては思い入れも含めて書くと思いっきり長くなる、そしてその割には支離滅裂なものになることが予想できるので省くとして、この作品の主要登場人物には全て灰色の羽が生えている。いわゆる天使のように空を飛んだりするのにはもちろん役に立つことはない。かといって彼らの羽は「罪憑き」と呼ばれる例外的ケースを除いて真っ黒であることはない。ただ単に、彼らの羽は灰色であるのだ。

私は、この「灰色である」ことに彼らの存在、あるいは立場を規定する意味が象徴されているように思うのだ。即ち、無原罪そのものである純白でもなく、悪そのものであるような漆黒でもなく、あくまでその中間において懊悩し、自らの存在の意味と他者との関わりを巡って思考し続ける、予め規定された価値行動規範に無前提的に従うのではなく、その規範そのものが正しいのかすら常に問い続ける形而上的思考、そのあり方がこの色には象徴されているように思う。「きれいな灰色だよ」という本作中の台詞は、その意味を裏書きしているようにも私には思える。

しかし、特定の価値、あるいは特定の立場そのものを自ら絶対として奉じる人々にとっては、このようなあり方そのものは認容できるものではないのかもしれない。彼らにとって認めうる色彩というのは白、あるいは黒のみであって、それに与しない全ての色彩は反対色に全て属するからだ。白を信仰する人にとって灰色は黒の仲間であり、黒を奉じる人にとっては灰色は白の輩(ともがら)でしかない。かくして、灰色の人々は自らの立場がどこにもなく、そうであるがゆえに、「汝は罪人なりや?」という語に集約される自らの思考を深めてゆく他はないのだと悟るのだ。

けれども、このような色彩の断罪は、それ自体として暴力ではないだろうか? 白から黒に至るまでには無限に近い灰色の色調の階梯があるのと同様、一つの物事にも0か1では割り切ることのできない、多種多様な見方が存在する。それを受け入れることができないのは、単に論理的な集合の概念が理解できていないという無知のみに還元されるものではないのだろう。それは恐らく、世界の認識の多様性、とりわけ結果として少数者にならざるを得なかった者達の傷つけられた世界観と否定性に基づく認識を「現実的な正しさ」という醜悪な原則で厄介払いしてしまおうとする残酷で粗野な合理主義に由来する偏狭な思考に他ならない。私はそれを、ファシズムと呼びたい。

『灰色連盟』の登場人物の一人一人が持つ内面性が、平板な現実の敷居を超えて時折私の心を浮かび上がらせてくれるのは、恐らくそのような心的態度の方向性それ自体に対する私自身の虚無感、あるいは絶望が決して孤独とい淵に沈むものではないのだと教えてくれるからなのだと思う。そして、そうであるがゆえに、この作品は人を選ぶともいわれるのだろうと思う。


脳死問題と「健康には問題ありません」に関わる違和感  (2011.04.22)


福島がフクシマに変わり、かの場所が死の土地へと変わり果てていくプロセスが粛々と日常化していく中で、未成年の男性の脳死者からの臓器移植が先日初めて行われた。一般的な年間被曝量の数十倍の線量を「長期的に見ても健康に影響はない」と繰り返される記者会見、そして実質的になし崩し的に進んでいく脳死者からの生前同意なしの臓器移植。この二つを見ながら、私は当初言語化できない何か不気味なものを感じていた。そして、これらについて、ここしばらくのところ、考えていた。

恐らく、これら二つの問題に共通しているのは、身体の自己認識あるいは自己決定という権利が、一部のテクノクラートに奪われることに対する恐怖なのではないかと思う。たとえば、死という事態そのものは極めて社会的であり、本来はその定義のイニシアチブは社会を構成する我々自身の認識、即ち日常性と結びついた主観の側に委ねられていなければならない。ラザロ徴候も含めた脳死の状態が未だに私たちにとって受け入れがたいケースが少なくないのは、それが視床下部の血流云々といった医療上のスコラ的な技術論に還元されるべきではない。むしろ、私たちの多くにとって、死とは心停止を経て身体から体温が消失し、死後硬直によって(場合によっては火葬も含めて)生身の人間とは別の存在に変わり果ててゆくプロセスの全体をその定義として有しているものなのだ。それをしたり顔で「この人は既に脳の自律的機能が奪われていて、補助呼吸装置なしではすぐ心停止します」と宣告されても、それが死とイコールであるとは到底受け入れがたいというのは当然の成り行きである。我々がそれを死として受容しようと努力するのは、そこに「科学的」という神話がまぶされているからにすぎない。そしてこのような判断するべき基準の遷移が行われるとき、私たちは自らが構築している判断のフレームワークが「科学」によって形成されたものによりも下位に属するのだという枠組みも同時に受け入れざるを得ない。死が生物学的であると同時にむしろ社会的現象でもあるにもかかわらず、だ。そして、「脳死が人の死であると認めないのは非科学的である」と医療従事者が我々の主観を否定するのは、人間がどのような存在であるのかを忘却した上で、脳死者からの臓器の略奪に血道を上げる、和田事件の時と何も変わらぬ非人間的な思い上がりに他ならない。

これと同様の不気味さは「健康には問題ありません」にもついて回るように思う。放射線、あるいは放射能という基本的には目に見えない(チェレンコフ光とかのケースで揚げ足を取ってはいけない)恐怖が現実のものとなっている現在、健康に対する被害の可能性の判定は、健康という状態の定義がこれも我々の主観に属する以上、同様に我々の主観に強く根ざしていると言っていいだろう。これは社会的なものであると同時に恐らくは種としての人間の自己防衛システムに組み込まれた心理的機制であるように思う。つまり、異常値が検出された対象を忌避するのは、未知の恐怖を前にした場合の対応としてはごく自然なものであるのだ。そしてそれができない人間は、社会的な文脈では「科学的」というよりもむしろ無謀とのレッテルを貼られるだろう。
にもかかわらず原子力村のテクノクラートたちは、「健康には問題ありません」と繰り返し、そのような我々の主観に基づく判断を誤謬だとして退け、フクシマの人々や産物に対する差別を「風評被害」と言い換えることで、さも我々の主観が誤りを犯しているかのように言い繕う。もちろん風評被害とやらには我々の認識に今も横たわる「穢れの忌避」が介在していることは認めなければならない。だがそもそも論で言えば、大地と空気と海原を平時の数十倍以上、場所によっては数億倍のオーダーで汚染したのは彼らテクノクラートの同志ではなかったか? それを誤魔化しつつ、「お前らの主観は非科学的である」とプロパガンダを繰り返すのはそれ自体として彼らのムラの内向きの言説の域を出ない。

これらが共通しているのは、彼らのムラの中での合意形成言説システムによって形成された概念が、社会的なものによって構成された我々の主観よりも常に優位にあるという歪んだ選民意識であり、同時に我々は「科学」の美名の下にそれを受け入れることで身体認識の自己決定権を失ってゆく。我々の主観が社会構造によって媒介された多くの偏見や誤謬を含んでいることは全く否定しない。だが、だからといって別の審級に身を委ねることが正しいわけではない。とりわけ、身体に対する自分の権利と認識を、そのコンテクストも省みることなく否定するような言説に対しては、我々は自らの身体を自らの言葉のうちに取り返すためにも、全力で懐疑の眼差しを向ける必要があるだろう。


「ルーゴン・マッカール叢書」を完読しました  (2011.04.19)


先日、エミール・ゾラの「ルーゴン・マッカール叢書」最終刊『パスカル博士』を読み終えた。これで同叢書全20巻を読み終えた。読書記録を調べたら約4年かけて読み終えたことになるようだ。『失われた時を求めて』も全部読み終えるのに2年半くらいかかったし、この読書ペースのチンタラぶりはもうひどいな。大昔は『収容所群島』を10日で読めたりしたのに……。年取ったな……。

「ルーゴン・マッカール叢書」の全体についての説明は仏文学史の本とかに譲るとして、本叢書からの左大臣的お勧めは以下の通り。『居酒屋』とかの有名どころは敢えて外した。

第2巻『獲物の分け前』:オスマンによるパリ市大改造が進むなかでの地上げ三昧の話。再開発が絡むと地上げ屋が活躍するのはいつの時代も変わらない。現在のパリ市の主要地区がどのようなスクラップアンドビルドを繰り返して成り立ったのかを理解する上でも実に面白い。

第11巻『ボヌール・デ・ダム百貨店』:ボンマルシェ百貨店等の当時のデパートの綿密な取材に基づく大作。経済的自由の獲得が社会的自由の獲得とイコールになっていくプロセスが、デパートの大売り出しに押しかける女性達とそれを食らいつくそうとする舞台装置としてのデパート、そして昔ながらの社会の全てを破壊しつくしつつ新時代を築いてゆく資本の圧倒的な力を描いた作品。今日における自由とは何なのかをもう一度考え直す意味でも示唆に富む作品。

第18巻『金』:株式相場でのバブルとその破綻を描いた作品。ただし、ゾラが凡百の作家と異なるのは、人を堕落させると同時に言われなき困窮と悲惨にある人間を力ずくで救うことができるという「金」の力の二面性を同時に描き出したところにある。インチキ投資会社がどのようにしてガバナンスを喪失し、最後は浴びせ売りで滅ぶのかという経済小説的側面も含めて非常に多面的な読み方ができる傑作。

第19巻『壊滅』:普仏戦争でフランスがいかにして壊滅的大敗を喫し、またパリコミューンがどのように進展したのかを知る上でも意義深い作品。兵站がダメダメだし情報伝達が泣けてくるほどデタラメだった当時のフランス軍の悲惨の描写は、ここに至るまでの18巻分で描かれるブルジョワ社会の腐敗と庶民階級の悲惨を思い起こすと泣ける。また、本巻で特筆すべきはジャン・マッカールに撃たれたモーリスが今際の際に「パリは燃えている」と延々と繰り返す台詞の合間に合間にパリ市の崩壊と壊滅、そしてペール・ラシェーズ墓地での虐殺が冷酷と言っていいほどの筆致で進行する場面であり、その圧倒的な絶望感の演出は圧巻という他はない。

さて、次は何を読もうかな。


原発を巡る一部の言辞に思う  (2011.04.10)


おんぼろ原発が大事故を起こしてからというもの、正直精神状態が余り良くない。酒を飲んで気晴らしをしてみても、いっこうにスッキリしない。結果深酒をして翌日はダウンというパターンをたどることになるのだが、これはアル中の典型的パターンなので少し酒断ちをして態勢を立て直そうかと思う。といってもせいぜい半月くらい酒を飲まずに過ごすだけですが。

さて、今回のこの事故に関連して、原発が建てられている地域の人々の一部からは、「東京の連中の贅沢な暮らしのために、自分達がこんなリスクまみれの(あるいは被害を被るような)暮らしをするのはうんざりだ、という意見が聞こえてくる。それは被害者感情としては理解できなくもないが、このような都市と地方を二項対立的に捉えるものの見方はそれ自体としては極めて不毛なものだと私は思う。

なぜか。その理由は簡単だ。都市に住む人間にしてみれば同種の不満は当然日常的に地方に対して抱いているものでしかないからだ。自分達が夜遅くまで働いて稼いだ所得から巻き上げられる税金は、地方交付税や補助金という形で、多くの場合無意味としか形容のしようがないな公共事業を通じて地方にばらまかれているし、一票の格差にしてもまた然りである。実際に地方の都市を旅してみると、特に「有力政治家」なるものを輩出した都市や地方は道路も立派に舗装され、人口規模に見合わない程に豪壮な音楽ホールが建っていたりする一方、私が住むある首都圏の衛星都市では財政難を理由に築35年は優に過ぎているボロボロの市民会館の建替え工事がずっと延期され続けているし、もちろん公共の温泉保養施設などないから、まっとうな設備のあるところでひとっ風呂浴びたいと思ったら住民はそれなりの金額を払ってスーパー銭湯に行くしかない。そして我々はそんな劣悪な環境に住むことを強制されつつ、毎日乗車率170%、ひどい路線では250%を超える満員電車に1時間程度揺られて通勤している。即ち、都市部の平均的な階級の人間は、少なくとも経済的な形式の上では地方の経済を破綻させないために法の下の平等すら確保されない状況の中で搾取されているわけだ。従って、もし原発が立地している地域の人々が全てそれらを拒否して安全な土地に住みたいと願うのならば、本質的にはこれらの地方交付税や補助金を全て拒否し、複数の県をまとめてもせいぜい1〜2人しか国会議員の定数を与えられない状況と、経済的自立を実現してからそのような要求は出すべきだ。都市と地方という二項対立に基づく議論はこのような苛烈な結論に最終的には逢着せざるを得ない。そしてこれが著しくリアリティを欠くのは誰の目にも明らかだろう。

事の本質は、だから自分達の気に入らないものを誰かに押しつけることの是非ではない。結局はそれは誰かが引き受けなければならないし、そこには日常生活で我々がよく知っているように、冷徹な経済の法則が支配しているからだ。そして、その法則こそ、我々が依存していたと同時に利用していた制度の総体に他ならない。地方の人間も都市の人間も、この制度の被害者であると同時に、無思慮な日々を享受していたという意味では深い意味でその恩恵に浴していたとも言えるのだ。従って、まず批判されるべきはこの経済の法則に対する依存であり、それに対する無思慮だと私は思う。そして、それは必然的に、我々のこの文明が向かうべきあり方そのものについての問題提起をせずにはおかない。残念ながら私の無思慮ゆえに未だその方向は抽象的なものに留まらざるを得ないが、金を寄越せだの、汚いものを押しつけるなだのといった表層的議論に満足することなく、せっかく生まれた久しぶりの夜の闇とその静けさの中で、私たちはもう一度その可能性について考えを巡らせてみるべきなのだと思う。


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