2010年12月
字だろうが絵だろうが、だ。  (2010.12.15)

東京都の都議会で下らない条例案が通ったようだ。

この案件を巡る元作家様の白痴丸出しの妄言の数々は彼が最早まともな思考力を有してないことの証左以外の何者でもないが、元々彼はその程度の人間だったし、新銀行東京の実質的破綻や首都大学東京の大幅レベルダウンについて責任を取ろうとしない、むしろそれを回避することに血道を上げようとする倫理的水準の低さはいろんな意味で青少年の反面教師になるだろう。

さて、今回の言及するのも馬鹿馬鹿しいゴミ条例の話である。

読売新聞はこの条例を「青少年の健全育成の観点に立てば、規制強化は当然だろう。」という非常に論理的根拠の希薄な一言で正当化しているが、これはこの新聞の文化的水準の救いがたいほどの低さを証明している。文字がOKでなんで漫画がダメなんだ? この根本的な質問にこの言辞は全く正面から向き合っていない。

基本的に私は被害者が存在しないし性犯罪との因果関係も認められない(※)この種のポルノグラフィーに対する規制はできる限り行うべきではないし、行うとしてもそれは個々の当事者同士で解決されるべき問題だと考えている。それは即ち教育の問題を先行して考慮すべきであって、それを無視して単純な嫌悪感に基づく規制が横行することは、とりもなおさず石原や橋本のようなデマゴーグの台頭を許すこととほぼ同義だからだ。
※OECD Factbook2009の性犯罪率データを見る限り、日本の対女性の性犯罪率はOECDの平均をやや下回っている(http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/2788d.html)。勿論これは認知件数に基づくものなので実際はこれより多いと考えるべきだが、それでもスイスやアイルランドよりは低いと見ていいだろう。

そのような実証的な議論を無視し、「良識」という言葉を振りかざした石原には、「良識」がルソーの社会契約論ではどのような定義で使われていたのかを、もう一度教えてやる必要があるだろう。仏語が大嫌いな彼のことだから、どうせ恫喝まがいの戯言を吐いて、最早老害の走狗と化した詭弁家の猪瀬を盾に置いて逃げ回るのがせいぜいだろうが。

話を元に戻そう。周知の通り、いわゆる文字によって表現された作品類には、明らかに近親相姦を礼賛したり強姦や性暴力がこれでもかと出てくる作品は少なくない。不倫や浮気に至っては最早19世紀ヨーロッパ文学の基本中の基本になっている。なぜこれらがOKなのか? 少なくともまともに文字の読み書きができる中学生であればマダム・エドワルダや悪徳の栄えくらいは容易に読めるだろう。これを有害といわずして何というのだろうか。

問題はここに留まらない。もし、青少年の「健全な」とかいう育成なるものを目的とするのであれば、なぜポルノグラフィーだけを敢えて槍玉に挙げようとするのか。人間の認識に及ぼす影響という意味では、単なる自慰行為の題材となるだけのポルノグラフィーよりも遙かに重大なものはいくらでもある。PTA連中やこの条例の尻馬に乗って集票行為や天下り先の確保に汲々とするような水準の連中が感化している、或いは考えることすらできないのは、この問題である。

例を挙げよう。今映画化されて巷間を賑わしている話に、忠臣蔵がある。構図からすればいじめにあって逆上したためにハラキリさせられてしまった主君の仇を討った忠義の物語な訳だが、見方を変えればこれは法治主義を無視し、私的復讐を行った蛮行以外の何者でもない。だからこそこの話は江戸時代は直接に歌舞伎の題材とすることが許されず、過去の物語に翻案することで検閲を逃れ、「仮名手本忠臣蔵」という形で生きながらえたのである。また、一部の腐な人々に人気の高い新撰組とて、その活動を冷静に観察すれば保守反動のテロリスト集団であり、その行動原理自体は今日のタリバーンと変わらないとすら言っていい。これらに心酔することがお咎めなしで、中学生がエロマンガを読んで手淫を行うことがいけないのはなぜなのか? 間違った性意識は往々にして異性にビンタあるいは罵倒されることでまま解決するが、このようにして「歪んだまま」育った認識は誰が正すというのだろう? そのまま80近くまで生きながらえて、あまつさえ首都の知事になり、肥大した自意識を振り回すばかりで何一つ政治的業績を残していないどころか税金を自分の虚栄心のため「だけ」に浪費するような老人の内面が育ってしまったことについて、彼が今まで読んできたであろう本の著者達と出版社は責任を負うべきなのか?

彼らが真剣に認識することなく、良識というばかげた感覚論、もっと正確に言うのであれば偏見と高慢によってのみ構築された自己の経験だけが唯一の存立根拠であるような認識態度に、どれほどの正当性があるのだろうか。彼らが行うべきことは勿論皮膚感覚に基づく下らないこれまでの議論を自己批判するに留まるものではない。文化なるものが、或いは表現されたものが、言語化されたものが他者に伝達されることによって、それはどのような意味を持つからこそ文化たり得るのかを、芸術とかいう陳腐化したサンクチュアリをもてあそぶのではなく、自らの意識の中で再度深めることである。実はそのようなあり方こそが、子供の精神的成長を促すのではないのか。親の背を見て子は育つのである。エロ本の焚書坑儒に目を血走らせるような親を見て敬意を抱くような子供など、いないだろう。


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