2010年09月
Facebook始めました  (2010.09.25)

一ヶ月ほど前から、知人に誘われる形でFacebookを始めている。
世界的に見ればSNSとしてはほとんど一人勝ちのFacebookだが、しばらく使ってみてMixiとの違いがいくつか明らかになってきた。そしてこれは恐らく日本と欧米の社交スタイルの差に基づくところが大きいのではないかとも考えるようになってきた。

最初にその大きな違いとして気付くのは、Facebookにはいわゆる日記に相当する機能が実装されていないことだ。個人の現状を発言する機能としては「フィード」と呼ばれるいわゆるツイートがあるのみで、文章のスタイルできっちりと内容を練り込んでアップするものでは全くない。Mixiの個人コンテンツが実質的に日記に集約されつつあるのと比較すれば、その差は大きいだろう。

また、登録する際の名前も、Mixiはハンドルのみでの登録が可能、或いは実質的に推奨されているのに対し、Facebookは実名で登録しないとほとんど使い物にならない。CNNなどの報道を見ているとさすがに個人情報を全部丸出しにするのは非推奨にされつつあるようだが、それでもパブリックな領域に属する名前や顔写真は実質的にオープンでなければ他のユーザーとのコミュニケーションが取れないため、使っている意味がほとんどない。

このような、匿名性を付加価値の前提とするMixiと、実名使用がコミュニケーションの基礎となるFacebookでは、それらが暗黙のうちに拠って立つ社交のスタイルの差が明確に現れているのではないかと思う。日本は特に社会的流動性が低いため、特定の私人を晒しあげることが社会的にその人を抹殺する手段の一つであり、従ってそのリスクを回避するために実社会と結びついた情報の公開が忌避されるのに対し、Facebookが基盤としている特に米国では社会的流動性が少なくとも相対的には非常に高いため、むしろ個人間の結びつきが極めて重視される傾向にある。そのため社交のスタイルも構成員が常に変動することを前提にせざるを得ないため、ネットワーク上のつながりはそれを補完する働きが当然強調されるようになるのだろう。

そんな訳なので、私の実名を知っている人はFacebookで名前を検索して頂ければ見つかりますので、「トモダチ」になりましょう(笑)。ただし私の名前は読みが非常に難しいらしいので、漢字でしか知らない人はまず見つけられないと思います。


旅の予定  (2010.09.24)


とりあえず12月出発予定の旅の予定。

12/16(木)出発、真夜中チュニス着。
〜12/19(日)チュニス滞在
12/20(月)〜12/21(火)スース
12/22(水)エル・ジェム経由トズール入り
12/23(木)ドゥーズ(砂漠滞在)
12/24(金)ドゥーズ〜トズール帰投
12/25(土)トズール
12/26(日)トズールからニースに空路移動、ロクブリュヌ=カップ=マルタンに陸路移動。
〜1/1(土)ロクブリュヌ=カップ=マルタン滞在(予定)
1/2(日)出発、翌日帰国。


再販制度なんかやめちゃえ  (2010.09.17)


一昨日、どうしても急いで入手しないといけない本が数冊あったので、会社の近くにある比較的大きな有名書店に帰りに立ち寄って探した。店名を出すことは控えるが、神奈川のそれなりの規模の都市にお住まいの方なら誰でも知っているような書店である(これでほとんどバレる)。

結果は、ものの見事に空振りであった。探していたのは別に極端な専門書ではなく、ビジネス関連のごく一般的な理論と分析手法に関する解説書だったのだが、文字通り一冊もなく、支店在庫すらないという状況には呆れるのを通り越して笑ってしまった。その一方で、店舗の約2割はコミック+ラノベ類、もう2割は雑誌類のコーナーであった。つまり足しあげれば約4割が回転率のいいライトな商品によって占められているということである。しかも哲学書のコーナーに行けば『超訳 ニーチェの言葉』みたいないわゆるゴミレベルの入門書やら船井幸雄のオカルト本が平積みされていて、例えばデリダの『グラマトロジーについて』とかフッサールの『イデーン』とかラカンの『エクリ』みたいな基本図書なんかまるで置いてない。仕方ないので、帰宅後Amazon.co.jpで検索したら在庫が見つかったのでお急ぎ便にて落手。リアル書店、オンライン書店に品揃えの面でも敗北かよ……
勿論、小生の家の近所にも書店はある。児童書と雑誌と漫画とラノベと学習参考書を取り除いたらほとんど何も残らないような書店なのでかなりダメダメなレベルだが、大都市の大手の比較的床面積の広い書店でもこの為体だということには、正直驚きを隠せない。いつから日本の書店はこんなにバカ向けのものに堕落したんだ?

勿論商売は売り上げを立てて初めて成り立つものなのだから、ある程度手離れのよい商品を扱うことそれ自体を私は否定しようとは思わない。しかし、再販制度の存廃が問題になったときに、書店と出版社側は出版文化の維持とやらを錦の御旗にして同制度の維持を頑なに主張したのではなかったか。にもかかわらず、ごく一部のメガ書店を除くと大半の書店がこのような水準に堕落してしまっている現状を鑑みると、そうした根拠は極めて疑わしい。むしろ売れない本はますます高くなり、結果仕入れの対象にすらならないという負のスパイラルが加速しているだけではないか。とするならば、売れ残って一部褪色が始まっているような本については、バーゲンセールでもいいから処分した方が余程出版文化やらのマーケティングとしては効果が大きい。何せ現状は一部の物好きを除けば誰もそれらを買ってくれていないのだから。再販価格維持制度なんてこの際やめてしまえばいいのだ。

そんなこともあるので、ますます私のAmazon.co.jp依存は強まりそうなわけです。


『イヴの時間』劇場版BDを見た  (2010.09.09)

頭に輪っかの付いてる不思議な存在つながり、ということで今回は『イヴの時間』劇場版BDを見た。アプコンでしかも一部はマスターの画質そのものが崩壊していた『灰羽連盟』BD版と比べるとかなり良好な画質。フルHD万歳。

話の核心にあるのは、ロボットが人間と同等の「心」を持ったら、というifにおいて提起される「人間とは何か?」という極めて古典的な問いであり、この種のライトモチーフはアシモフの『われはロボット』以来延々と繰り返されてきたものである。そういった意味では特に驚くべきこと・新奇なものとして取り上げるべきテーマは本作品の中にはない。
勿論そうしたことはこれを見る側、そして作者の側にも当然の所与として共有されている。むしろ、本作品がその古典的モチーフの反復にプラスする形でのアクチュアリティーを持ちうるのは、ハウスロイド(家事雑用全般をこなすアンドロイド)に感情移入してしまう「ドリ系」と呼ばれる人々が、ここ数年来一気に人口に膾炙し陳腐化してしまった、かつての「萌え」を創案した人々を明らかに反映しているという点だろう。即ち、この物語において「ドリ系」と呼ばれ、非難されるべきメンタリティを有しているとまず見なされる主人公リクオ、そして彼と好対照をなす真崎が共に魂の再生を果たす契機が、ハウスロイドの人格性あるいは魂の存在というものを首肯することに存している点において、この物語は我々自身の人格性の再生或いは不器用ながらの構築がどう行われるべきかという問題について、「萌え」という語がかつて有していたはずの批判的射程を参照しつつ、それと同時にそれを表層的嫌悪感によって駆逐しようとする勢力の独善性も含めて、メルヘンとしてのSFに昇華しているのである。

本筋とは余り関係はないが、本作はスケジュール面でも比較的ゆとりのある条件で制作されたこともあり、OSのインターフェース等の小道具等も含めて中々に凝った画面構成になっている。作画品質にばかり拘泥して物語そのものの質を見失ってはいけないが、まずは見るに値する作品ではあるように思う。


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