2009年11月
同一ネタの使い回し  (2009.11.24)


本日午前中は久しぶりのセミナー。比較的遅めに家を出られるのはいいのだが、肝心のセミナーの内容がスカスカすぎて泣けてくる。講師の話し方が平板すぎて盛り上がりを全く欠いたのも眠気を誘う要因に。自分がセミナーとかでプレゼンをする時には気をつけようと反省した次第。ええ、いくら中身が大事とはいえ、パワポ資料を作り込む時には写真とかの素材を多用して賑やかにしないと、スピーカーによほどの話術がない限りは基本的にとても退屈な資料ができあがります。

で、帰り道遅ればせながらBigIssueの最新号を買う。予告されていたのだが、「私の分岐点」という見開きのインタビュー記事に出ていたのは田口ランディ。こいつのことを私が大いに軽蔑していると同時に嫌っていることはこの日記のどこか(調べたら「雑記」の2002年2月にある)で書いたことがあるが、今回の記事も内容スカスカの自分語りばかり。彼女の場合引きこもりの兄が首を吊って自殺したというのが余程自慢なのか、あちこちでそれを何回も再利用しては原稿のネタにしている(少なくともオンラインで見かけたケースでも5回以上使い回している)のだが、今回もそれは変わらないようだ。挙げ句の果てには盗作をやらかして叩かれたこともきれいさっぱり忘れているようで、随分とおめでたい海馬をお持ちなのだなあと呆れる。そして、次回にバトンタッチするのは、星占い師の鏡リュウジ。ニューエイジ・オカルト好きは相変わらずのようで……。

ニューエイジ「思想」なるものが、ルサンチマンまみれの衆愚向けにパッケージ化された思想のまがい物であるということは折に触れて私はこのサイトや日記でも書いてきた。私が田口のような作家と彼女が無思慮に味方するニューエイジを忌み嫌うのは、人類の歴史のとても長い時間を通じて積み上げられてきた思考の営みに対する謙虚さを全く持つことなく、単なる偶然を必然だと言いくるめることで無能な人間の全能感を保護するだけのインチキに荷担するからである。
理系文系どの分野であろうと、一つの対象について、持てる全ての知力を振り絞って自我が壊れるほどの格闘をしたことがある方ならおわかりかと思うが、自分の限界と先人の偉大さに直面し続ける極めて恐ろしい体験を一定期間半ば強制的にさせられた人間にしか、おそらくは到達し得ない世界というものが存在する。テクストとの格闘、あるいは実験において肉体が悲鳴を上げ、にもかかわらず頭脳が無限の高度まで飛翔を続けるようなあの極めて超越的な興奮、そして世界の全てを把握したと錯覚させるほどのこの経験をした人間は、世俗的な理解やコミュニケーションの空しさを同時に知ってしまう。また場合によっては元の世界には戻ってこられなくなってしまうのである。

正直、そういう経験と苦痛を味わったことのない人間には、思想がどうとか学問がどうとか語る権利はない。そして、田口の嫌みたらしく薄汚い語り口には、絶望して死んでいった者に対する応責性もなければ、人類の知的営為に対する敬意もない。あるのはただ自らの知的貧困をごまかそうとする自己中心的な愚かさのみである。そのような観点から、今回の彼女の同誌への登場については非常に残念であるとの思いを隠すことができなかった。


ゴンドワの谷の歌を想い酒を飲む  (2009.11.22)

金曜日は会社の帰り、近くに在住の上司とまた酒を飲む。家の近所の飲み屋なので時間を気にせず飲めるのはいいのだが、上司の都合に合わせて日本酒を飲むと結構な確率で翌日にダメージが来てしまう。学生時代から日本酒耐性を鍛えていたわけではないので、この年になると少々つらい。
そんな中、一杯だけボジョレー・ヴィラージュ・ヌーヴォー(BN)を飲む。800円也。高ぇよ。とりあえず一通りの感想としては酸味と苦みがバラバラだった去年のものよりはバランスがとれていてだいぶまともな印象。まあ一杯飲めば十分だけどね。

それで今日はいつものように仏語講座に行ってきたのだが、留学帰り組とお喋りしていて当然その酒の話題になった。皆同じように言っていたのは、学食とか寮の食堂とかあちこちでタダで振る舞うような酒がこの国ではなんだか扱いが違う、ということであった。
私がBNを飲むのは留学時代を懐かしむある種のノスタルジーからであるのは誰の目からも明かだろうが、往時の「パリ祭」で渋谷あたりのシャンソニエ等が馬鹿騒ぎをしていたらしいという過去の出来事に対するある種の違和感に似た感覚がどうしてもつきまとう。

オーストリアのホイリゲ開封、あるいはドイツのオクトーバーフェストのイベントでもそうだが、その年の新酒を樽開けして飲む(後者は醸造開始のお祭りなのでちょっと違うが)というイベントは酒そのものの出来不出来を云々するというより、今年も少なくとも酒が飲める程度には実りをもたらしてくれた自然の豊穣さをあらためて想起し感謝するという色彩が濃いように思う。事実、ボジョレー地区という語、あるいはブルゴーニュという語によって喚起されるイメージは、かつてのブルゴーニュ公国の富(最盛期のそれはフランス王国を凌駕していた)、そしてコート・ドール県などの山野を葡萄の木々が埋め尽くすという風景と分かちがたく結びついている。従って、BNを飲む時に我々の感覚が呼び覚ますのは、ワインに対する取り澄ました蘊蓄ではなく、その年の春先に我々の頬を撫でた微風であり、夏に我々を照らした太陽であり、額に汗し葡萄の木々の世話を怠らなかった人々への敬意であろう。そして、これをあえて一つのイベントにするのは、それらに対する志向を今一度共有することで、都市で生活することがそうした結びつきを往々にして忘れてしまうことを確認するためでもあるように思う。

だが、ボトルがユーラシアを旅し、税関を通る過程で、そうした結びつきは綺麗さっぱり洗い流され、ジョルジュ・デュブッフが望んだような「フランスの豊かな食文化」なるものを表象する媒体としてBNはコンビニエンスストアの店頭に並ぶことになる。地球に優しいとの謳い文句でペットボトル詰めされて。

それはグローバル化した消費社会の中では、ある程度仕方のないことなのだろうと思う。だが、昨日テレビで放映されていたらしい『ラピュタ』の後半で出てくるゴンドワの谷の歌の中の「土に根をおろし、風とともに生きよう。 / 種とともに冬を越え、鳥とともに春を謳おう」という有名な一節を思い出すと、BNの出来不出来をしたり顔で語りながら「フランス的なるもの」の表象を消費することの悲しさに考えを馳せてしまうのだ。


想像を超える  (2009.11.14)


土曜日はいつものように仏語の講座。昼食タイムのお喋りに間に合わなかったため、調子が今ひとつ乗らない状態で講座に臨む。うーん。

別件で、原稿の依頼が来る。大した量ではないのだが、どうも頭の中に構造が固まらないため、筆が進まない。そんな贅沢なこと言ってられないのだが。

さて、Skype等で普段全く話すことのない人と話す機会がたまにある。話題を共有しない人とお喋りをするのは正直色々な水準が符合しないと伝達内容の共有自体が困難になるのは言うまでもないことなのだが、今更ながらそのようなことを身をもって知る事となった。
具体的な内容は省く。ただ、余りにも人間はそれぞれが違うのだという当たり前の事が、我が身の孤独を更に苛むような気がしてならない。それに耐えられるだけの自我を磨くためにも、そしてそれを信仰などという安易な方法で解決することなく、何らかの方法を見いださなければ、その前に私自身が壊れることになるだろうと思う。


切符届いた  (2009.11.12)


おおおおおおおおおおおおおお、ベルリンフィル印の封筒で切符が届いたぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁああああああああ!!!!!!!!!!!!!


HDR-CX520Vを買いました  (2009.11.05)


12月出発の旅行では車窓からの風景とかをビデオカメラで撮ろうということで、前からビデオカメラを物色していたのですが、かなり手ごろな価格まで下落してきたので、ソニーのHDR-CX520V(http://www.sony.jp/handycam/products/HDR-CX500VCX520V/)を先日某安売り屋さんで買いました。8万円弱。それにワイコン(VCL-HGA07)とアクセサリーキット(合計3万円ちょっと)をVISAのポイントで引き替えた3万円の商品券で購入。

とりあえず夕暮れ時の風景を会社の屋上で撮影してみたが、シャッタースピードが遅くなり従来のビデオカメラでは残像が目立つ状況でも、非常に良好な解像。また、歩きながらの撮影も行ってみたが、ガタガタ揺れる昔の手ぶれとはかなり違うレベルで補正されていてビックリした。
オートフォーカスについては各所で指摘されるようにやや遅い。特に専用AFユニットを載せているキヤノンのiVISに比べると相当遅い。この辺りは改善の余地ありだろう。ただしそれでも昔のビデオカメラに比べると早いのだが。

撮影した画像を42型のプラズマテレビで鑑賞してみたが、確かにプロ向けの機材に比べるとレンズの解像感はやや劣る。だが民生用機器でここまでのレベルの動画が撮れるのであれば最早何を望むのだろうという感じだ。

作例は後日どこかにアップする予定。しばしお時間を。


古典四重奏団の演奏会に行ってきた  (2009.11.04)

さて、11/3は晴海トリトンスクエアの第一生命ホールで行われた古典四重奏団のショスタコーヴィチ・ツィクルスの最終回を聴きに行ってきた。第10〜12番を演奏した10/3に続いて、今回は第13〜15番。晦渋すぎてたまらんですよ。

以下感想。
第13番。予習していた時は中間部のコル・レーニョをどうやって叩いているのか興味があったのだが、それが分かって納得。不意を突くような形でこれが鳴らされると、何かマーラーの交響曲第10番終楽章のグランカッサを思い起こさせ、死の影を感じてしまうのは私だけかもしれませんが。
この曲に限らず、後期ショスタコーヴィチの弦楽四重奏曲群は同一のパッセージを楽器間で緊密にやりとりする場面が多く、奏者間での密接なコミュニケーションなしにはアンサンブルが一撃で崩壊する危険をはらんでいるのだが、それをカッチリとこなしつつ低弦群の渋い旋律が非常に聴かせる点がすばらしい。これはやはり全暗譜でこなしているが故のアンサンブル水準の高さだろう。また、細かい点だが、1stVn川原氏のピツィカートはともすると単なる韜晦に流れがちな演奏の中で構成を引き締める働きをしており、すばらしい。

第14番。極めて高い緊張感と集中が維持されたすばらしい演奏。文句なしにこれはブラボーを叫べるものだと思った。シャコンヌの主題の推移、1stVnとVcのデュオ、声部の各パートでの受け渡し、「セリョージャ」のピツィカートから始まる第三楽章、いずれも文句のつけようがないほどの鋭さを持っており、晩年のショスタコーヴィチが至った音楽を通じての思考の断片がホールの中に現出したかのような幻覚すら抱く。曲想は明るく終わるが、そうであるが故に救いようのない孤独さとそれを嘆くのではなくより高みへと至ろうとする者において当然のこととして笑うドミートリーの姿が、チェロの旋律には垣間見えるように思う。

第15番。装飾性を一切排除した、まさにカルテットの骨組みだけを徹底的に研ぎ澄まし尽くしたこの曲は、演奏する側は当然のことながら聴く側も非常に神経をすり減らす。ほとんどソロの受け渡しによって成立するようなこの曲は、四重奏とは何か、そして音楽とは何かという根源的な命題を通じて、我々の音楽美学の意識を再度問い直すように思う。たとえば第2楽章冒頭の12音クレッシェンド、第4楽章や第5楽章の低弦群のソロで歌う部分、これらは方法としてセリエリスムを採用せずとも旋律の解体を通じて、20世紀の文化的状況の中で、芸術なるものが果たして可能なのかという問題を我々に投げかける。古典四重奏団の演奏は緊密なアンサンブルを通じて、少なくともそのような問題意識を抱いて思考することは宥和そのものをもたらすわけではないが、芸術ものがその否定性の故に持つであろう可能性について耳を澄ますことの意義深さを教えてくれるようにも思う。また、曲が終わった後、4人がすぐには椅子を立たず、緊張感に満ちた静寂がホールを覆った瞬間は、この種の音楽を聴く上での醍醐味の一つである。

総じて、大変いい演奏会でした。特にヴィオラの三輪氏の大活躍ぶりには喝采を送るべきでしょう。ただ、主な聴衆層が比較的年齢の高い人たちばかりであるというのは気になりました。以前「反形式主義的ラヨーク」の日本初演を聴きに行った時も来ていたのは年齢の高い人たちばかりだったし、私ももう若いとはいえない歳だけれど、この種の音楽会が今後どうやって成り立っていくのかを考えると、ちょっと悲しくもなったりしたのでありました。
さて、同ホールに次に聴きに行くのは来年の2月。クァルテット・エクセルシオによる西村朗とシュニトケの演奏会です。音源を調達しないとなあ……


放送倫理機構  (2009.11.02)


おっしゃあ! 12/20(日)午後8時〜のベルリンフィルの切符とれたぜえ!


原典版公開  (2009.11.01)

以前雑誌に記事が載ると書いた件ですが、原典版(とはいいつつも本当の原典版からかなり書き足してますが)を公開しましたので、興味のある方はお暇な時にでもよんでやって下さい。


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