2009年10月 |
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のりました
(2009.10.27)
9月17日の日記でまた載るかもと書いた原稿の話ですが、昨日発行の11月号にて掲載の運びとなりました。また例によって例のごとく非署名記事でしかも書店に並ばない雑誌ですが、興味がある方は左大臣に一報下されば10月・11月号合わせたものを関係者向け優待価格でご提供できるかもしれません。そんな大した内容ではありませんが。
篠原美也子「Helpless」に行ってきた
(2009.10.24)
さて今日はいつものように昼から仏語の講座に出た後、大学正門前のバス溜まりからバスに乗って篠原美也子ライブ「Helpless」@渋谷O-Westに行ってきた。バスでの移動を採用したのは単に駅での乗り換えが嫌いだから。 彼女のライブに足を運ぶのは何年ぶりだろうか。指を折って数えてみると、10年以上の間隔が開いていたことが分かり、自分のものぐさぶりに呆れると同時に時間の流れの速さを今更ながらに痛感する。彼女がインディーズに活躍の場を移してから、もう10年も経っているのだ。こちらも年をとるわけだ。 無論、ライブから足が遠のいていた理由は色々あるにはあるのだが、その懸隔が今回のライブのチケットを購入するにあたっても障壁となっていたのは事実だった。そして今日の当日になっても、雨を理由にどっかに飲みに行って逃げてしまおうかという迷いがあったのもまた事実だ。それでもその先にある何かに期待するようにして、O-Westに足を運んだ次第だった。チケットぴあで切符を調達していたこともあり、入場順序はほとんどラスト。ライブハウスのくせに基本座ったままという彼女らしいスタイルのライブのため、二階席に陣取る。 セットリストは以下の通り。 01. flower 02. 夜間飛行 03. Dear 04. ありふれたグレイ 05. You're so cool 06. my old lover 07. 月と坂道 08. 流星の日 09. 空に散る 10. プラネタリウム 11. Wing with Wind 12. Last Quarter 13. compass rose 14. 逆光 15. HELPLESS 16. いずれ散りゆく花ならば 17. S (以下アンコール) 01. 茜 02. M78 03. 秒針のビート 04. Journey 05. ナイショ(うたごえ喫茶バージョン) 「flower」の歌い出しのアカペラの第一声を聴いた瞬間、いろいろな事を思い出すと同時に、それが過去のものになっていくのを感じる自分がいた。この歌に、言葉に、色々あったけど私も帰ってきたのだという思いが満ちる。そう、ヘゲモニー的な価値によって無前提に傷ついた人々によってのみ受肉化されうる人間の尊厳の意味と連帯の希望の不可能な可能性を思い起こさせてくれる彼女の歌に。 かつてのラジオ番組でのトークを思い起こさせるMCをはさんで、曲は続く。いくつか懐かしい曲を今の彼女のスタイルで歌い上げることに新たな発見の喜びを見いだしつつ、徐々にテンポが良くなるMCに笑いが起きる。 しかし、話題が去っていったミュージシャンたちに及ぶと、語りと歌は別の色調を帯びる。特に、「Helpless」は自ら命を絶った者達に対する我々の偽善と他者性に起因する限界の苦しみを歌っていた。 それを聴きながら、自ら命を絶った何人かの知人の事を思い出す。無論苦しい時は相談してくれればよかったのにというような暴力的な意見を臆面もなく言えるほどさすがに私も現実的なものに身を落としてはいない。だが、これから見るもの、聴くもの、触れるもの全てが最後のものなのだと意識した上で最後の瞬間へと自らを攫っていく時の、彼らの内面の絶叫を想像する時、私は今でも自らの愚かさと無力さに耳を塞ぎたくなるほどの絶望を感じずにはいられない。この歌は、観念的な精神論のみで済まされがちなこれらの絶望を抱きながら現在を共有することを拒んだ人々に対する応責性の意味からも聴かれるべきだろうと思う。 そしてそのどん底を経由して、ライブは再び「どうしようもないバカ者達」(無論褒め言葉)の意味を確認するように進む。スタートス・クオに安住して傷の舐め合いをするのではなく、それぞれが自らの誇りを賭して日々高くあろうとすること。でもそれは無意味にストイックなものではなく、自分が幸せか否かを決定する権利と価値を自らの手に取り返すための営みなのだということを忘れてはならないのだ。 かくして「寄る辺なき」者達の集いはまた来年の連続ライブでの再会を期しつつ、うたごえ喫茶経由で解散となったのであった。
近況報告
(2009.10.11)
久しぶりに地上波用Friioを起動してみたら微妙に調子が悪い。でも考えてみたら地上波で見るものといったら「世界の車窓から」くらいしかなくてそれも面白いものはあらかたDVDで購入しているので結局テレビ番組で見るものといったらBSの紀行ものとドキュメンタリーばかりという余りにも老境全開な傾向に気がついた今日この頃。お気に入りのコンテンツが500巻くらい手元にそろってしまえばリアルタイムでテレビを見る必要はなくなるかもしれません。
Delfonics "Le livre des SENS"の仏語はメチャクチャだ
(2009.10.08)
いろいろな事情があり、私は10月始まりの手帳を使っている。そして先日、これまで使っていた手帳が古くなったので、丸善で見かけたDelfonics社のle livres des sens という手帳に買い替えた。ガリマール社の本のカバーに似ているというごく在り来たりかつミーハーな理由に基づくものだ。 で、買ってきてから気づいたのだが、この手帳、フランス語の表記がメチャクチャである。言い回しの表現がおかしいとかそういうレベルではなく、綴りそのものが間違っていたり、日付表記が間違っていたりといった壮絶な初歩的ミスが余りにも多い。正直クラクラ来てしまったので返品も考えたが、まあいいやということで放置。その代わりデルフォニクス社にはメールで「せめて翻訳会社くらい通した方がいいよ」(別件でとある翻訳会社に仏訳を頼んだ時には余りにも酷い出来で怒鳴り込んだことがあったりしたがそれはそれ)とメールで知らせておいたのだが、今日になるまでなんの返事もないので、ここで晒すことにした次第。 以下は、ありのままにこの手帳の表紙と裏表紙に書いてあることを入力したもの。スペルチェッカがギャーギャーと悲鳴を上げていたがあえて無視。仏語が分かる方はどの辺りが崩壊しているのかを探してみましょう。仏作文が物凄い苦手な私でもほとんど全文書き換えになりそうなことは分かりました。 De Octobre 09 á Décembre 10 Le livre des SENS D’un POETE Journal Précieux Les jours de notre vie forment une poésie, et vont s’accumulant un immortel chef-d’oeuvre En priant pour votre bonheur C’était un café plaisant, propre et chaud et hospitalier, et je pendis mon vieil imperméble au portemanteau pour le faire sécher, j’accrochai mon feutre usé et délavé à une patère au-dessus de la banquette, et commandai un café au lait. Le garçon me servit et je pris mon cahier dans la poche de ma veste, ainsi qu’un crayon, et me mis à écrire. Après tout, le café est amer, avec son arôme venu de royaumes interdits et dangereux. Séjour a café.
古典四重奏団の演奏会を聴いてきた
(2009.10.04)
昨日は午前中に大学に行き、師匠の昼食+アトリエの仏語講座に出席。夏期休暇を挟んでいるため3ヶ月ほど仏作文はご無沙汰だったわけだが、案の定と言うべきか語彙や表現の力が低下している。少し睡眠不足というのもあったのだが、それは言い訳になるまい。また、パリでヴァカンスを過ごしてきたMさんと再会。年末の予定を話したところ、彼女もパリへ年末また行くかもしれないのでレヴェイヨンをやるのも面白かろうという話に。具体的な予定はこれから詰める。 で、午後4時に講座が終わった後、第一生命ホール@晴海トリトンスクエアでの古典四重奏団のコンサート(http://www.gregorio.jp/qc/sqw2009.html)に出向く。ちょっと早く着いてしまったのと、昼はおにぎり一つで済ませていて腹が減っていたというのもあり、アトリウムそばにあるセガフレードにて軽く食事を済ませる。 曲目は以下の通り。11月のマチネと併せてショスタコーヴィチの後期弦楽四重奏群を演奏。 弦楽四重奏曲第10番変イ長調作品118 弦楽四重奏曲第11番ヘ短調作品122 弦楽四重奏曲第12番変ニ長調作品133 以下感想。事前に予習した音源はフィッツウィリアムSQの全集。スコアは持ってないので練習番号とかへの言及はできません。 1. 弦楽四重奏曲第10番 軽妙さの中にシニカルさを湛える後期ショスタコの作品にあって、ある意味典型的な作品。第1楽章の精緻なアンサンブルから引き続いて鋭角的な第2楽章、ピアノ5重奏などを思い起こさせる第3楽章への移行は見事。徒にデュナーミクを強調することのない演奏は好き嫌いが分かれるところではあるが、ホールの大きさを考えると昨日の位でちょうどいいのかとも思う。 第4楽章は第1楽章の主題が回帰してくるところで全員の呼吸が再びぴったりと合流するのが見ていても分かり、このアンサンブルのコミュニケーションの良さを確認した。 第2・第3楽章の元弓でガリガリと弾く辺りはもっとマルカートな弾き方が個人的には好みだが、全般的には好印象。 2. 弦楽四重奏曲第11番 ショスタコーヴィチが親しくしていたベートーヴェンSQの第2ヴァイオリン奏者シリンスキーの死去を悼んで捧げられた曲。 全般的にこの曲は非常に地味なため、聴かせどころを作っていくのが結構大変なように感じられるのだが、事実第3〜4楽章辺りは少しアンサンブルが弛緩したように感じた。おかげで少し記憶が飛んだりしたが(笑)、終楽章の主要主題の回帰とフィナーレに至る部分、1stVnのスピッカートとグリッサンドで入りを示してそれが各パートに引き継がれていく辺りは見事。特にピツィカートで主題をおさらいする時の緊張感は見事なものがあった。 3. 弦楽四重奏曲第12番 出だしで12音技法が使われているものの、気がつけばショスタコ独特の音楽語法に引きずり込まれている第1楽章。シリンスキーの不在を嘆くように時折2ndVnが沈黙する辺りに、後期ショスタコーヴィチにもつきまとう死の影を感じるのはそう難しいことではないと思うし、また粛正の時代をともに生き延びてきた盟友が次々と鬼籍に入るのを見届けねばならなかった彼の寂しさを思うと、和音の一つ一つが重くのしかかる。第1楽章の演奏は明らかにシリンスキーの不在を意識したもので、各パートの嘆き節がそれぞれに際だつ解釈。 第2楽章はこれだけで20分を越える長大な楽章だが、様々な主題が錯綜して現れ、時には殆どマルチフォニーのように進む難解なパッセージが連続して続く。よくこんなの弾けるなあ。うらやましい。複数の主題が同時進行する時にはそれぞれを受け持つ楽器が頻繁に変わるのだが、それを違和感なくスムーズにやりとりするのは全暗譜で演奏をこなすこのSQならでは。一部の超絶技巧ソリストを除くと、プロとアマの演奏能力の最大の違いはテクニックではなくレパートリーを全て暗譜しているか否かだというのはよく言われるが、目の前でこうして全暗譜で密接なコミュニケーションの元に演奏しているのを目にすると、正直驚かずにはいられない。 そして、終結部。一旦沈潜した旋律に第一楽章の主題が回帰し、オスティナート気味の反復を重ねつつ無調気味のフィナーレに突き進む時の4人の集中力は、聴衆全体を演奏に引きずり込むだけのパワーを十分に有していた。そして解決は見るものの、この曲の内奥に横たわる問題が実は何も解決していないのだという余韻を残してこの曲が終わるのだが、アンサンブルの緻密さはそのマッシフな苦悩を鋼のような一体感で磨き上げていたように思う。 こういうのを聴くと、室内楽やりたいなあとかまたいろいろな欲望が頭をもたげてくる。楽器の再開をするべく社会人向けの音楽教室を色々探しているのだけれど、生来の横着ゆえなかなか見つからない。ここは一発決断しないとダメだろうな。
篠原美也子『いずれ散り行く花ならば』落手
(2009.10.01)
私のサイトを大昔から読んで下さっている方なら知っていると思うが、篠原美也子(http://www.room493.com/)というマイナー極まりないシンガーソングライターをデビュー以来、そしてインディーズに転じた後も極めて個人的に応援している。途中色々あって紆余曲折があったことは否めないのだが、それでも彼女が出しているアルバム類はすべて購入している。 そして、先日彼女の『いずれ散り行く花ならば』というライブ盤を入手した。いずれも今まで発売されてきたアルバムには未収録の曲ばかりなのだが、その中でも『Compass Rose』という曲が強く印象に残った。歌詞を一部引用すると以下のような感じである。 その怒りでその涙で変わるものなどないとしてもこの一節を聴いて、私はショーペンハウアーの言葉を思い出した。実際にはロマン・ロラン『魅せられたる魂』からの孫引きなのだが、 甘ったるい形而上学は警戒すべきだ! 大きな問題は善のそれではなく、悪のそれであることを忘れてはならない。涙や、嘆息や、歯のガチガチ震える音や、世界の殺人の物凄い修羅場が音を立てるのが、頁を通して聞こえないような哲学は哲学ではない!……という言葉がそれだ。 無論、ショーペンハウアーが言わんとしているのは、三面記事よろしく人間の醜悪なところばかりを取り上げるのが、あるいは世界の惨禍を執拗に描き出すこと、それのみが哲学だということではない。 彼にとっての哲学は、むしろこの世界の救いがたい程の悪を逃避しようのないほど見据えるというその行為を通じて、人間の精神の尊厳、気高さをもう一度個々の人間が自らのうちにその萌芽だけでも見いだすことなのだと私は思う。そして、その精神は、「奴隷状態から人倫の完成に至るのが歴史ではなく、むしろ石斧から水爆へと至るのが人類の歴史だ」と言ったアドルノの怒りにも通じるところがあるだろう。目に見えない、否定的な形でうずくまるもの、その苦しみや悲鳴に耳を傾けないものは、思考の名に値しないのだ。 だが、多くの場合において、実証的な論証過程を経ないため、またソーカル事件という不幸な出来事のせいもあって、哲学は単なる「音声の風」と揶揄され軽蔑される傾向が支配的であるように私は感じる。しかし、そのうち捨てられた状態にあって、哲学し思考することは、まさにその無価値さゆえに、逆説的に人間の精神の本当の偉大さを示唆している。価値がない、意味がないとして顧みられない破砕した世界の残像を手にすることで、思考はむしろ希望とは何であるのかという問いを引き受けることができるし、それを否定的な形であるにせよ、理念という形で道を示してくれるのだと私は思う。 |
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