2009年09月
Let's Note R7のHDD交換  (2009.09.29)

外国に旅に出ると一日当たり4〜6GB程度は写真を撮るので、今までは外付HDDやDVDドライブにデータを焼くことで待避させていた。だが、今年の旅行ではもしかするとSSDタイプのビデオカメラを新調するかもしれないので、それに備えてモバイルPCのHDDの交換を行うことにした。

今使っているモバイルPCは昨年購入したLet's Note R7。メモリはすでに増設して2GBにしてあるが、HDDはリカバリ領域を入れても80GB。システムやらいろいろで既に20GB位は埋まっており、残り領域は約60GB。これではやや足りない。
そこで、Acrois TrueImage 2009 Homeを調達してきて外付にしていた日立製のHDD(HTS723232L9A300, 320GB)にディスク丸ごとクローンを作成。リカバリ領域を手動で設定するとクローニングがうまくいかないという不具合はあったが、全自動処理をすることでクローニング完了。

一通り準備が終わったところで、いよいよLet's Note R7の分解を始める。このマシンはキーボードが防滴仕様になっているため、HDDの交換はかなり難しい。側面のスロットを引き出して交換して終わり、のThinkPadXシリーズと比べると異次元の面倒くささである。正直言ってノートPCの分解を今までやったことがない人には余り勧められる代物ではない。
なお、分解とHDDの換装に当たっては、以下のサイトを参考にした。
「Let'sNoteR6のHDD換装」http://syakazuka.com/Myself/r6/index.html
「Let's Note R7のHDDを換装してみた!」http://soliloquy.monosate.net/?eid=1146804
「CF-R6の内蔵HDDを交換する」http://blog.nabe.jp/archives/000121.html
これらの説明を熟読した後、静電気防止用の手袋をして分解。無事HDDの換装を終えることができた。作業に要した時間はおよそ1時間。

ケーブルを全部戻し、仮組みした上で電源を投入。BIOSにてキーボードの再接続にも問題がなく、かつHDDがちゃんと認識されていることを確認。OSの立ち上げを確認し、HDDにチェックディスクを行って完了。不良セクタが1つあるようなので、修復がうまくいっているか寝ている間にもう一度チェックすることにする。


原典版(笑)  (2009.09.26)

この連休中に書き上げた原稿を先日編集の人に渡したのですが、「対象としている読者の水準からすると難解すぎる」という理由で大幅な書き直しと相成りました。予想はしていたんだけどね……

とりあえず平易に書き直したものは昨日引き渡したのですが、個人的には初稿の方が完成度が高いと考えていますので、誌面の都合で字数を抑えた部分を復活させて全体的にさらに肉付けした版を、掲載号が出たあとこのサイトにて公開したいと考えています。掲載原稿と比較するといろいろな点がどのように難易度を落としているのかが分かって面白いかもしれません。


OSを入れ直した  (2009.09.20)


HDD交換とかCPUの交換とか色々細かい変更を加えつつ使ってきた今のマシンだが、起動が一通り完了するのに15分くらいかかるようになってきたし、色々とトラブルも起きるようになってきたので、思い切ってOSを入れ直すことにした。SP+メーカーにて各種パッチを導入したインストールCDを作り、外付HDDにドライバとか必須ソフトのインストーラを入れたのを準備した上で、OSをインストール。大昔のWindows98時代は起動ディスクを作ってそこにCD-ROMドライバを導入してやってようやくインストール開始……という面倒くさいステップが必要で、実際にはインストール用HDにあらかじめインストーラをコピーしておくのが基本だった状況に比べると、やっぱりXPの登場は画期的だったんだなあと思う。ちなみにWindows7はソフトの互換性とかがある程度判明してお金が貯まったら、新しくマシンを一台組もうかと思う。今のPCのパーツの大半は録画用PCでも組むのに使う予定。

というわけでシルバーウィークの前半はシステムの構築と必要ソフトの再導入でほぼ終わり。明日からは別に色々と用事もあるので結局蟄居気味の過ごし方になると思うが、さすがに健康に悪いので散歩にくらいは出かけようと思う。


また載るみたいですよ  (2009.09.17)

さて、9/9日付の日記で某雑誌に記事が載るとお知らせした件ですが、その次の号にも原稿が載ることになりました。今度は文化論的観点から現代のデジタル機器の問題を考察するという、構想だけはかなりでかい話です。一回あたりの掲載ボリュームは原稿用紙換算で12枚程度なので、もしかすると連載になるかもしれないとの事です。

とりあえず今度の連休中には初稿を上げて入稿するスケジュールですが、どうなることやら。


一部のサイトからのアクセスを規制します  (2009.09.15)

当サイトのアクセスログ(http://www.tunnel-company.com/report/replist.cgi)を久しぶりにチェックしたところ、いわゆるリファラスパムを行う業者がまたポコポコ沸きだしたので、一旦以下のドメインからのアクセスを拒否します。
*.zusp.net
*.fc2.com
*.y708.com
fc2.comはブログ貸出のサイトでもあり、一概にアクセス拒否を設定するのもどうかとは思うのですが、調べてみたところ当サイトにリンクしているまともなブログはないようなので、一括してアクセスを拒否します。

もし不都合が生じるようでしたら個別に対応しますので、メールを下さい。


「脳力」と「〜力」の胡散臭い関係  (2009.09.13)

金曜日は伊勢漬物主任他、某黒板色掲示板の皆様とオフ会。頂戴した水茄子の漬物は大変おいしく頂きました。翌日午前中は二日酔いで半分死んでましたが。

さて、そろそろ滅ぶかなと思っていたものの依然として絶滅してくれない卑語の一つに、「〜力」という語がある。どこの誰が始めたのか今となっては判然としないが、何でもかんでも「力」を付けたがる御仁が余りにも多いので、私としてはここは「適切な語に力という語を付ける力としての『力力』」(ちなみにフランス語でカカといえば幼児語で排泄物のことだ)を提唱して止まないのだが、例によって例のごとく誰も相手にしてくれない。寂しいなあ。

さて、この用語法のまず以て胡散臭いところは、「力」という分かりやすいようで実は何も分からない曖昧な語を付けることで、あたかもそれが人間の個性の一つであるかのように誤解させるところにある。背筋とか握力とかの測定可能な力であるならば、それは定量化された評価によって力の内実を実体的に把握することが可能になるだろう。
だが、「鈍感力」とか「男子力」って一体何だ? それは定量的に評価可能なのか? スカウターみたいなものを装備すれば、例えばAの鈍感力は87だが、Bの鈍感力は160なので下請けへの値切り交渉にはBを起用しろとか、合コンではCの男子力は90だがDの男子力は30のキモメンなので今日はC君にお持ち帰りされるべく媚びてみるかとかそんなことになるのだろうか。
答えは恐らくノーだろう。むしろ、そのような数的、即ち客観的評価を拒否する動機が、この「力」なる語には見え透く。何についての力であるのか、そしてそれはどのような場面で具体的に行使されるのかが、「力」という概念からは全く見えてこないからであり、むしろ、見えてこないことにその本来的意図があるからである。

では、この「力」なるくだらない語は何を隠蔽しようとしているのか。恐らくそれは、客観的あるいは絶対的評価の現状としての「能力」である。母語の運用能力の総体としての「日本語能力」を「日本語力」と言い換えることで、あたかも言語運用能力が些末な語彙力や語源の蘊蓄の量的蓄積に還元されうるような幻想を「力」という語は与える。同様に「男子力」なるものは「男子としての能力」と言い換えてしまえば、そこに垣間見えるジェンダー的な蒙昧、即ち男性なるものが現状の社会的コンテクストで要求されているものの総体の暴力性が暴露されてしまうし、「女子力」もまた然りである。能力という具体的指標に還元されることを拒否しつつ、個性化の柔らかな停滞を相互に舐め合うだけの契機を「力」という曖昧かつ空疎な概念は支持するだけである。そこには、平準化とつまらない自己保身のための相対主義が澱んでいるだけである。

同様に、「脳」に還元する各種風潮にもこのことは当てはまる。後天的に獲得したものも含めて人間性の一切を脳というハードウェアに還元するやり方は存在論的還元主義のできそこないと叩くことは実際そう難しいことではないし、脳ブームの由来となったであろう例の本はかなりの部分がカントの認識論、就中コペルニクス的転回のあたりを卑俗化した脳科学で焼き直したものに過ぎないのだが、専門家が日銭稼ぎにこのようなことをやるのはよくあることなので放置するとしても、環境も含めて後天的な部分が大部分を占める個々の人間の能力差をあたかも先天的に決定された脳なるものに還元するこのような意識は、自分が無能であることを生まれのせいにできるため、私のような貧乏人には実際心地よい。だが、それが無能さを改善してくれるわけでは全くないし、イチョウ葉エキスのサプリメントを毎日飲んだからと言ってバスク語とかクリンゴン語がペラペラになるわけでは勿論ない。
即ち、両者共にあからさますぎるほどに見えてくるのは、能力という冷酷な格差の問題を隠蔽する、あるいは別の概念にすり替えることで自分の悲惨をやり過ごそうとする停滞そのものである。
無論、自分の無能さに毎日直面させられていたら私のような弱い人間は胃に穴が開くか狂ってしまうかのどちらかなので、例えば酒のようにそれをやり過ごす方途が存在することそれ自体は否定しない。だが、だからといって愚かであり続けていいわけではないとさすがに誤謬の全面的流布を眼にしていると思わないではいられない。


テレビは今や衰退しつつある産業である  (2009.09.12)


先日、日本テレビ系列の「高校生クイズ」を見た。テレビのバラエティ番組はほとんど見なくなって久しいが、それなりに有名な進学校の面々が出てくるこの番組については気が向いた年はだらだらと見ているように思う。ブログを色々と読んでみると「問題が難しい」との声が多かったが、高校生クイズのレベルであれば幸い私にも7〜8割は何とか答えられる程度の知識量は維持しているようだ。現役高校生の頃は微積で凄絶な点数を取ったりインド王朝史(今でもサータヴァーハナ朝とグプタ朝の区別ができない)が全く覚えられなかったとかベンゼンとエチルベンゼンの化学式が覚えられずに教師に罵倒されたとか嫌な汗をかかずには思い出せないような記憶が多いのだが……

それはさておき、番組そのものの作りがお粗末極まりない。出場者の着ている服が同じだったことからして、恐らくはスタジオでの1日録りで、勿論屋外ロケもなし。日本テレビ本社のアトリウムくらい使ってやれよというのは偽らざる所だろう。ひな壇座りのくだらない芸人のギャラを削ればそのくらいのコストは余裕で捻出できる。いずれにしても、余程激しく制作経費が削られているのだろう。セットもチープ感強すぎたし。

確かに経費が削られると、成果物のクオリティは一般的に落ちる。納期がタイトになるとその傾向は一層強くなる。貧すれば窮すし、おまけに時間がなければやっつけ仕事になるのはどの世界でも同じだろう。それは強く同意する。

しかし、成果物の質は単に物質的な基盤にのみ拘束されるものではない。限られた所与の中で、最高の可能性を模索するのは誰もが望むことだろうと思う。そして、そのような格闘の結果、物質的制約の軛を超えて強い印象を与えてくれたものが数多くあることを、私たちはよく知っているはずだ。事実、80年代後半の深夜番組のいくつかは異常なまでの低予算と強行スケジュールによって制作されていたと聞くが、それでも私達の記憶に残るものは多い。そして、同様のケースは90年代に発売されたゲームでもいくつかの例を挙げることはさほど難しいことであるまい。即ち、現状の閉塞を打破するのは物質的な質・量の改善もさることながら、第一義的には当事者の能力に深く依存するのである。

昨今のバラエティ番組の画一的なフォーマットへの堕落と内容の救いがたいほどの低水準化は、無論番組予算の削減という要素があることは否定しない。だが、それと同時に、番組を作る側の能力が、著しい速度で落ちているということをそれは認識させるものであるように思う。換言するならば、均一化された能力でルーチン作業に長けた人間しか、制作側には最早残っていないのだ。
それは何故か。テレビというメディアは高い能力のある人間を引きつけるに値する存在では、最早なくなりつつあるのだ。理由は様々にあるだろうが、能力のある人間を引きつけることができなくなった産業は、それ自体として既に衰退のフェーズにあることは歴史が証明している。即ち、古色蒼然旧態依然とした体質を改めることがないまま相撲の世界が魅力ある人材の確保に失敗することで誰にも明白なレベルで衰退しているのと同様、テレビというメディアは担い手・コンテンツ双方の質的劣化を拡大再生産する時期に突入しつつある。

更にいえば、このことはマクロなレベルでも当てはまるケースは多い。目の前の小銭を拾うことはさして難しいことではないだろうが、その道は地獄に続いていることを忘れるべきではないように思う。


雑誌掲載のお知らせ  (2009.09.09)

ええと、今月の末くらいに発行される某雑誌の最新号に、薄型テレビ市場の見通しに関する私の原稿が載ります。諸般の事情で署名記事ではありませんが、左大臣が誰かをご存じで内容をご希望の方には抜き刷りくらいはお送りできると思いますので、メール等お寄せいただければ対応します。

なお、この雑誌は書店売りはしていない定期購読専門誌ですので、立ち読みとかはできません。残念。


年末滞在予定  (2009.09.06)

ホテル予約終了。色々調べつつ探しに捜したら5時間かかった。
滞在予定都市は以下の通り。
・ベルリン
・ニュルンベルク
・ストラスブール
・パリ
ベルリン〜ニュルンベルク間は車での移動という誘惑が頭をよぎったが、真冬の旅ゆえ事故が心配なので見送る予定。


《往きと復り》《妻を帽子と間違えた男》を見てきた  (2009.09.05)


9/5は晴海トリトンスクエア内の第一生命ホールで行われた東京室内歌劇場のヒンデミット「往きと復り」とマイケル・ナイマン「妻を帽子と間違えた男」(日本初演)を観に行ってきた。晴海トリトンスクエアは勝ち鬨にある典型的なビジネス商業コンプレックスビルだが、エントランスの広々としたアトリウムはそれなりに開放感があっていい。

さて、今回観てきたのはいずれもそんなに長いものではなく、特に「往きと帰り」はトータルで15分弱というヴェーベルンの交響曲みたいな短い実験的作品なのだが、一応序曲にヒロインの独唱に二人でのアリア等のオペラの基本要素は一通り詰め込まれている点が笑える。
勉強用に聞いた録音はニューヨーク室内管弦楽団による英語版(同時収録がメノッティの「電話」というお得盤)なので歌の面での比較はできないが、賢人役に医者というのはちょっと違和感が残った。「システムの復旧」という点からするといかにもオタ然としたサーバー管理者等のIT系テクノクラートをあてがった方が皮肉が効いていて面白いと思う。そりゃ大道具とかの予算の問題もあるわけだけど……

次の「妻と帽子を間違えた男」は録音が見つからなかったので初めて聴いた。原作は『レナードの朝』の原作者でも知られるオーリヴァー・ザックスのドキュメンタリー的アンソロジー小説。寡聞にして読んでません。すみません。

本作品では冒頭で予言されるとおりシューマンの歌曲集からの引用がミニマル風、あるいはリズム音楽風に引用されてあちこちで使われる。演奏前の中川賢一氏による解説では14曲も少なくとも引用されているようだが、シューマンと言えばチェロ協奏曲と「子供の情景」と「詩人の恋」くらいしかまともに聴いたことがない私が実際に聞き分けられたのは3曲くらいしかなかった。くやしい。
演奏は一部難ありとせざるを得ない箇所があったものの、総じて良好。比較するべき演奏がないので何とも言えないが、P教授役の今尾滋氏は認識機能がやられてしまった人の滑稽さと歌心の気高さのコントラストをうまく歌えていたように思う。ちなみにライブエレクトロニクス(というほどでもないが)を担当していたのは有馬純寿氏。

「妻と帽子を間違えた男」の内容の解釈については後日まとめるが、こういう作品を聴きに行くのは楽しい。でも客席の入りが8割くらいだったのは残念だと思う。


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