2009年07月
直接的であることの難しさ  (2009.07.26)


今年の春先に栗本薫が死んだことは多くの人が知っていることだろうと思う。かく言う私も、高校生のある時期まではグインサーガの愛読者の一人であった。インターネットなど影も形もなかった時代でもあり、学校帰りに本屋に立ち寄っては新刊が出ていれば購入し、それこそ貪るように一晩で読んだものだった。

しかし反発を畏れずにいえば、ある時点から彼女の文章は急速に幼稚な水準へと退化していったように思う。戦闘場面の描写はただ単に主人公達が暴れることで、あるいは反則に近いオーバーテクノロジーをなんの説明もなく持ち込むことで一方的な圧勝に終始するものがほとんどになり、外交上の駆け引きについても単に特定の人物に対する好き嫌いによって決定されるような浮薄な内容に形骸化していた。

また、60巻を過ぎるあたりから、後書きにはニフティサーブのパティオ(これらが何だか知らない人は自分で調べて欲しい)での話題が増え、ASCII-netとかPC-VANについてそれなりに聞き知っていた私にとっても相当に理解しがたい雰囲気があった。それと呼応するように、彼女の語彙力や構成力の著しい低下が顕らかになっていった時期は80年代後半からであり、後書きを読んでの記憶に頼る限りは彼女が執筆スタイルを手書きからパソコンでのワープロ使用に切り替えていた時期と重なる。

パソコン通信での話題など内輪の話題で盛り上がることによる弊害は勿論言うまでもない。但し、ここでむしろ問題にしたいと私が考えるのは、その執筆方法の側である。

文章を書く場合、一般に思考から言表までの時間的あるいは手続き上の遅延が少なければ少ないほど、即ち思いついた内容をそのまま言語化すればするほど、その内容は洗練を欠き、単なる駄弁に近づいてゆく。外国語等の言語習得において実は会話技術の習得が最も簡単であり、知識階級の文体での文章表現と詩作技術の獲得こそが最も困難であるとされる理由は実はそこにあるのだが、各種情報技術の導入と発展は思考から表現までの遅延を限りなく最小化することに成功している。言うまでもなく原稿を手書きにするよりも、あるいは音声入力するよりもまともなIMEを使用してキーボード入力した方が事実遙かに速い。また、データの蓄積と活用という観点からもデジタルデータへの変換効率の高い各種テキストファイルの優位性は明らかである。

しかし、その反面、その結果形作られるテクストは質的にも形式的にも口頭表現とほとんど見分けがつかない水準に堕落する危険性を常に孕む。そしてそれに自覚的でない場合、書かれるテクストは往々にして貧困な語彙と粗野さの一大展示場と化すのである。

文章表現において言文一致を旨とするスタイルが確立している今日では、むしろ書き手の「感性」なるものが最も直接的に現れているのだからそれはそれで良いことであり、度重なる推敲が絶対に必要であると考える私の立場を単なるエリート主義であると叩くのは容易い。しかし、直接的なものこそ最も内容が分かりやすく意味あるものだと捉える考え方は、それ自体として最も貧しいものであるという逆説はヘーゲルの議論を引用するまでもないだろう。脊髄反射的に書かれた各種の文章紛いの各種「ブログ」が、内容そのものよりも書き手の知的貧困を証明することになるのはそのためだ。

だから、冒頭に立ち返ると、栗本薫、就中『グイン・サーガ』の質的劣化の顛末は、テクノロジーの進歩が人間の知的行為の水準の向上には必ずしも寄与するものではなく、むしろ直接性あるいは無媒介性を価値として称揚することでむしろ無媒介的な無思慮を促進してしまうものでもあるというプロブレマティークを私に反省させてくれる。世間ではマイクロブログのようなものも流行しているようだが、そこに潜む無思慮あるいは無反省の陥穽は少なくとも意識してキーは叩くべきではないかとも思う。


自由と孤独二つの翼で  (2009.07.20)


ブルデュー『ディスタンクシオン』今更ながらに読了。面白いんだが持ち運ぶのには重すぎる体裁が辛い。次はもう少し(重量が)軽い本にしておこう。

歳をまた一つ重ねた。
もう祝われる歳でもないしそんな必要もないのだが、こういう機会は自分の末路を想像するいいきっかけになる。

恐らくこのまま年齢を重ねていけば、余程のことがない限り私は一人きりで死んでいくことになる。その光景を考えると、今のうちから手筈をそれなりに整えておかねばならない事が余りにも多いのに正直、気が滅入る。

こういう境涯は当然自分が選び取った結果である。多くの場合、自由(Libertas)と精神的充足は並び立つことができない。そして言うまでもなく愛情なるものは後者を形成するものに属している。自由、特に精神的な自由に価値を置くのであれば、人は予め精神的充足を拒否する領野に身を置くこと、即ち徹底的な孤独をも受け入れなければならない。それはバイロン卿とかニーチェの教説、あるいは思考することの反幸福主義に関してアドルノなどが繰り返し説き続けてきたことでもあるし、それは承知した上で生きているつもりではある。また、基本的には実際私自身も他者との安定的な関係を構築していくのは大変苦手としているし、異性なら私のような人間にビジネス以外で関わりたいと思う人間などそもそも皆無だろう。
そのような複合的な要因、むしろ人格面のマイナス要素と社会的な大マイナス要素の相乗効果で、結果として精神的自由に価値を置くような状況にあるのは明らかだ。そんな中で偉そうに思想系の本を読んでグダグダとやっているのはマスターベーションそのものだと叩かれても仕方ない。

そういう覚悟の足りなさと中途半端な無能さもあり、ごくたまに非常に人恋しくなる場合がある。今日みたいなケースがまさにそれで、老いていく自分とそれを取り巻く光景を想像していくとき、形而上学的な喜びを共有する相手がいないというのは途轍もなく、叫び出したくなるほど寂しく悲しいものだと頭を抱えたくなるほどの絶望が心を塞ぐ。何か美しいものを見たとき、崇高なものを感じたとき、人間の真の偉大さに触れたとき、あるいは日常の何気ない出来事に喜びを感じたとき、それを分かち合う相手がいるというのはそれ自体として何ものにも替えがたいものであるように思う。そしてそれを時間の流れのなかで記憶として編んでいくことができるのは、それ自体として奇跡のようにすら感じられる。

だが、事実として私にはそうした世界は禁じられているのだろうと思う。自由のためにはそうした温かさを放棄することを受け入れなければならない。「我が上なる星空と我が内なる道徳法則」を眺めやり、それに心を馳せることで心を満たすほどの高みに至るまでには、まだまだ私の中には時の終わりに向けて捨てるべき愚かさが余りにも多いのだろうと思う。


ASPIRE REVO ASR3600-A34を買った  (2009.07.19)


誕生日おめでとう、俺。
ということで金曜日会社帰りに某家電量販店に寄ってASPIRE REVO ASR3600-A34(http://www.acer.co.jp/acer/product.do?link=oln85e.redirect&changedAlts=&CRC=600100215)を買ってきた。テレビにつないで、動画とか写真とかを見るのが目的。メディアプレーヤーとしての位置づけですな。
マニアな方ならば、なんでIOデータのAV-LS500VX(http://www.iodata.jp/product/av/mp/av-ls500vx/)を使わないのかと訝る向きもあるだろうが、実際私が使っている別のテレビにはLS500VXの一つ前の世代のAV-LS300DW(http://www.iodata.jp/product/av/mp/av-ls300/)をつないで使ってはいるのだが、DivXの動画の再生中に突然システムクラッシュしたりWUXGAにリサイズしたJPEGファイルが何故か読み込めないとかID3タグに特定の文字列を含むMP3ファイルは再生できないとかその他諸々余りにもバグが多すぎて正直使い物にならないというひどい経験をしたので、今回はPC接続一本でずっと検討していたという次第。LANDISKもたいがいな完成度だったので、IOデータの機器はしばらく購入しない予定。PC-9801時代はNECよりも安定した拡張メモリーボードとか出していたのに一体どうしちゃったんだろうね、IOデータ……

それはさておき、簡単便利さを全面に謳っている本機器だが、実質的にはマニア向けの機械であることは理解しておいた方がいいだろう。少なくとも私の購入したものは、テレビに繋いで起動したあと、
1. 無線LANの暗号化設定とローカルIPアドレス関連の設定
2. Microsoft Updateから各種パッチのダウンロードとインストール
3. Windows Vista SP2のダウンロードとインストール
が必要になる。

で、接続してみたところどうも画面の位置がずれる。接続先のPureVision PDP-427HX(42インチ)はアスペクト比が16:9なのに解像度が単なるXGA(≠WXGA)という摩訶不思議な仕様になっているため、PCの画面をHDMI出力してやるには色々と調整が必要なのだが、ブートする度にそれがリセットされてしまうため非常に面倒臭い。何とかならないかとnVidiaのサイトから最新のドライバを落としてきてインストールしてようやく解決。その後、空中操作を行うために調達してきたMX Air(http://www.logitech.com/index.cfm/mice_pointers/mice/devices/3443&cl=jp,ja)をドライバ共々インストールしてとりあえずの環境構築は完了。

さて、肝心の動画再生だが、IONの恩恵にあずかれない圧縮方式の動画はATOM 230でのデコード作業になるため、例えばH.264で圧縮したフルHDの動画の再生はかなり厳しい。720Pクラスの動画でもH.264の場合、ビットレートによってはガタツキが相当目立つ。このあたりはドライバの改良を期待したいと思う。また、同様の理由で、YouTube等のFLV形式の動画の再生も余り期待しない方が賢明であるように思う。もし同様のプラットフォームでテレビサイドPCを自作したいのであれば、デュアルコアのATOM 330の方がある程度まともな環境になると考えられる。但し相当熱くなるらしいので放熱には注意。

その他、無線LANの能力も余り高くないようだ。PCI-Expressスロットに搭載している形の小型カードなのでそのあたりは仕方ないと言えば仕方ないのだが、テレビのそばで他のネット対応家電を使っているのであれば、Planex CommunicationsのGW-EC300N5P(http://www.planex.co.jp/product/wireless/gw-ec300n5p/)あたりと組み合わせて使った方が精神衛生上よろしいかと思う。

そんなわけで、欲を言えばきりがないしマルチコアの最近のPCと比べるとスペックは2〜3世代前のものなので明らかに見劣りする要素も少なくないが、簡易メディアプレーヤーとして使うのであれば全く問題ないと思うので、そのあたりは事前の割り切りが必要だ。ちなみに私としては今後これにFriioを追加することでプロテクトフリーなデジタルレコーダに拡張したいというプランを持ってはいるのだが、それはまたいずれ、ということで。


時間の蓄積  (2009.07.18)


土曜日は仕事とか二日酔いでもない限り、師匠が大学で開いている仏語の講座に出ているということは時々書いているが、今日は久しぶりに体調も安定し、こなすべき仕事もないので講座に参加してきた。色々と相談することもあったので、昼食をとりながら世間話をしていた時間も入れると4時間くらい仏語漬け。最近はちょっと間が空いてしまったので、語彙の回転が余り良くなかったと反省。気分がすぐれないので本もあんまり読んでないし。

講座が終わり、アトリウムにて解散となった後、院生の時に教務補助としてバイトをしていた場所に行ってきた。かつて視聴覚&PC教材準備室として使われていたそのフロアは今ではすっかり寂れ、実質的に廃墟と化していた。学部生時代に仏語の上級クラスの洗礼を初めて受けた屋上プレハブ教室も放置され、屋根のトタンがめくれ上がるなど損傷が激しい。以前は教室不足もあって色々な学部の講義も行われていた校舎だったが、ほぼ全ての校舎が建て替えられて高層化し、私がお世話になっていた組織も解体されて消滅した今となっては、これらの老朽化した教室が使われることはほぼないのだろう。

確かに、典型的なインテリジェントビルとして耐震性も考慮されて建て替えられた新しい校舎は利便性という点において古い校舎を凌駕している。売店スペースにはコンビニもテナントとして入っており、学生ラウンジは採光性も良く開放的で快適そうだ。監視カメラが至る所に設置されているのが気にくわないにしても、だ。

だが、それでも私は思う。古い建物に蓄積した時間はそれ自体として人を作るものであると。すり減った階段、明らかに数世代昔の建築様式の廊下と教室、石材を多用する建築方法のために窓が少なく薄暗い研究室、そして壁のあちこちに残る張り紙の跡。それらは全てかつてその場所を通り過ぎていった人々が確実におり、そしてそれぞれがそれぞれの学生時代の日々を過ごしていったことを物語る。彼らが皆全て偉大な人間なのではないが、むしろその故にそれらの痕跡は彼らの時代の息吹を身体で獲得することができる、そういった濃密さが古臭く不便なこの建物に息づいているのではないのかと私は思うのだ。そして、それらの重みは単なる知識の獲得ではなく、それぞれの存在者がそれぞれの時間の流れの中で編成してきたこの社会という共同体に対するより重層的な視座の獲得を可能にするはずだ。便利ではあるが真新しいだけの建物には、そうしたアウラが決定的に欠落している。

全く人気のない廊下と階段を歩きながら、院生時代の日々を思い返した。後悔すべき事は余りに多く、気がつけば三十路を遙かに越えて四十路が見えてくる年齢にいつの間にかなってしまったが、それでも教務補助のバイト連中と共に仕事をした日々はそれなりに楽しかったし今から見れば充実していた時期だったようにも思う。先哲の面影偲ぶ、と言うほどの学究の日々は全く送っておらず基本的にはダラダラの極みだったが、それでもまだ人生というものに何がしかの意味を見出すことができた頃だった。だが、その日々は遙か彼方に消え失せ、想い出の場所もただの廃墟として朽ち果てようとしている。

随分遠いところに来てしまったように思う。何もない、ただ広漠と開けているだけの場所に。


酒と酒の日々  (2009.07.11)


ここしばらく、金曜日は必ずといっていい頻度で会社帰りに飲んでいる。ざっとまとめるとこんな感じ。
5/23(金):チームで飲み会
5/29(金):チームで飲み会→タクシーで帰宅
6/5 (金):会社の飲み会
6/10(木):知り合いと飲み会→タクシーで帰宅
6/11(金):帰り道の飲み屋で1人酒
6/18(金):知り合いと飲み会
6/25(金):帰り道の飲み屋で1人酒
7/2 (木):古い知人と飲み会
7/3 (金):上司と飲み会
7/10(金):知人と飲み会→タクシーで帰宅

肝臓がかなりやばい状態なのはもう仕方ないので諦めるとして、泥酔したときにタクシーを使うのは結構な出費になるので止めたいなぁ……。


内面性とクリック一発  (2009.07.03)


木曜日、古い知人と久しぶりに会って飲んだ。場所は日比谷のあたりの某所。
ここ1年くらい、古い知己と飲むというケースが何だか多いような気がする。もう少し世間が広がるといいようにも思うが、自分自身の気むずかしさを考えるとそれは結構厳しいかもしれない。お酒は好きなんだけれど。

会うのは久しぶりなので、ちびりちびりとワインを飲みつつオシェトラキャヴィアなどをつまんで会話に花を咲かせる。ロストジェネレーション直撃の世代なのでそんなに景気のいい話が出るわけもなく、基本的には世を拗ねるトーンが支配的だったが、巷間で今喧しい「婚活」なる語についての話が出た。

私自身はそういうものはさっぱり分からないし、その種のものに登録して汲々とするなら本を読んでいたい位の厭世ぶりなので詳しいことはよく知らなかったのだが、どうもその種のサイトでは相手(男性)を探すのには主に年収・身長・学歴を検索条件に設定してエイヤとクリック、気に入った相手を探すらしい。

少なくとも検索のプロセスだけを構造として抽出するのであれば、これは例えばAccess等でデータベースの中から該当するデータを検索する作業でしかない。即ち、個々の人間は既に決定されたいくつかの因子の集合としてここでは扱われている。それら因子は基本的には個々の存在者の特殊固有性を予め無視し、排除することによって検索上の可視性を提供している。即ち、たった一人の人間を求めるために共約性のみによって構成されている対象者を抽出するわけである。仮に構成因子が全て同一であるのならば、対象者の固有性は存在しないのと同じであり、そこには内面性の問題が介在する余地はない。

一般的な理念に従えば、我々は人間の個別性を個別性として認識するにおいては、基本的には内面性というある種の神話(あるいは擬制と呼ぶべきかもしれないが)を必要としている以上、このようなやり方はそれだけを捉えるのであれば頗る傲慢、かつ安易なアプローチであり、IT社会がもたらしたコミュニケーション不在の典型だ、とあちこちで見かける結論に飛びつくことはそれほど難しいことではない。だが、問題の根はその先にある。

このようなアプローチ手法が一定の支持を集めている背景には、恐らくはパートナーを探すにおいても内面性の問題は二の次に回される傾向が特定の個人の問題と片付けられるレベルには既に留まっていないことがある。人をモノのように扱うのは、個人の問題であると同時に、そのような心性を生み出す社会的文脈があると見るのが妥当である。なぜなら、心性を構成するのは社会的諸関係の連続に他ならないからだ。

そして、恐らくその社会的関係とはまさしく、我々が社会的水準でまさに実際に行っているところの、他者との関係の総体ではないかと私は思うのだ。即ち、個々人の人間観はその人が受けてきた他者としての扱いそのものであり、そうであるが故に彼ら・彼女らのパートナー探しの手法の裡には、我々、少なくとも私が他者に接するときの態度が表象されていると考えるべきだと思うのだ。

とするのであれば、彼ら・彼女らのあり方を見て違和感を感じるのであれば、真っ先に省みるべきは間違いなく私自身の他者、特に異性に対する態度なのだろう。友人に言わせれば私はかなりの面食いだそうだが、そういう傾向には間違いなく他者の内面性を蔑ろにする意識が宿っている。そう、批判すべきは結局いつも己自身なのだ。


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