2009年04月 |
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毀誉褒貶のレシピ
(2009.04.29)
デジカメに少しばかり関係のある仕事をしていたり、D300というデジタル一眼レフカメラを使っているせいか、写真の撮り方の入門書はどんなのがいいのかと聞かれることが時々あります。私自身は各種アルバムを見ていただければ分かるとおり、ヘタの横好きもきわまれりという水準のライトユーザーでしかありませんが、それは別にしてもそういうとき私がいつも勧めるのはナショナルジオグラフィックの「プロの撮り方/デジタルカメラ(撮影編)」(http://nng.nikkeibp.co.jp/nng/shop/j/professional_2.shtml)という本です。 この本のいいところは、ナショナルジオグラフィックのプロの写真家が比較的基礎的な話題から丁寧に説明をしており、ありがちな求道的精神論に流れない点にもあるのですが、何をどのように表現したいのかを意識しながら撮影する経験を積み重ねていけば、きっと誰でも素晴らしい写真を撮ることができるはずだ、という信念が一貫して貫かれている点だと私は思う。だからこそ本書の最後には携帯電話のカメラで撮影した写真で写真集を作ってしまった話が取り上げられていたりするのですが、この読み手を励ますような姿勢は実際読む者にとって大きな支えになると思う。だからこそこの本を私は薦めることにしています。無論、例えば森枝卓士氏の『デジカメ時代の写真術』などもユーモラスで非常に有用な本ではありますが。 他方、某写真家(名前は伏せます)のブログを読むと、技術的な話題を振った挙げ句、「素人は偉そうな口をきくな」的なトーンが目立ちます。レンズの光学的性能の評価しかり、撮像素子のマイクロレンズの構造に関する話題しかり。 確かにいわゆる専門の技術者と単なるアマチュアの間には絶対に埋めることができない圧倒的な知識量とノウハウの差が存在しています。だからそういう関係者との意見交換を頻繁にしているプロが、アマチュアの間で交わされる与太話を一刀両断に切り捨てたくなるのも分からないではありません。 しかし、そのようなある種の尊大さに満ちた物言いが、人を育てることにつながるのかというと、私はどうも懐疑的にならざるを得ないのです。間違いは間違いとして指摘するとしても、では本質的な問題はなんなのか、そしてよりよい方向に多くの事柄が向かうように行為するのが望ましいのかを考えるのであれば、「私はプロだ」的な特権性、言い換えるなら「先行者としての既得優越性」を誇示するかのような言い方は、読む者を萎縮させるか嘲笑に似た反発を招くことはあるにせよ、相互にとってより良好な方向へと志向対象の関係を変化させていくことは難しいのではないかと思うのです。 色々ここ数ヶ月で会社の組織が大分変化したこともあり、人を指導することも最近は多々あり、どうすれば彼らが成長してくれるのかを考えながらミーティングを行うようにしています。使えない人間を使えないと面罵するのは非常に簡単なことなのですが、自分だって昔はそんな人間だったわけで、いくら余裕がないと言ってもそういう行いに出るのは最終手段にするくらいの慎み深さはなんとか維持したいと、日々戒めつつ胃を痛める日々です。
近況報告
(2009.04.25)
どうもこんばんは左大臣です。 最近は残業が多く、土日も必ずどちらかは出勤という有様です。 世間ではゴールデンウィークとか言ってるようですが、連休中は別プロジェクトの企画書を書かなければいけないので出勤予定です。なんだこの忙しさ。貧乏暇なしとはよく言ったものです。 そんなわけで、4年ほど使っていたミネベアのキーボード(CMY-6D4Y6)の変換キーやその他いくつかのキーの調子が悪くなってきたので、Realforce108UBKを調達してきました。もちろん今回も自腹ですよ。約18K円也。 私自身が昨今では絶滅しかかっているかな入力派なのでキートップにはカナキーアサインの印字がされている方が有難いと言えば有難いのですが、Realforce108UBKは英字のみの印字。まあ大して困る問題ではないですが。ザラザラ感を残したキー感覚にするためか、印字方式がレーザー方式なのがグレータイプのRealforce(こちらは昇華印字方式)とは違い、キートップの文字が鮮明なのに最初は戸惑いました。レーザー方式はHHKでも使われているのでギャーギャー騒ぐような問題でもないですね。 もちろん最大の問題であるキータッチフィーリングは最高のレベル。nキーロールオーバーを採用しているため、オラオラオラオラオラと高速打鍵しても全くチャタリングを起こさないのはアドレナリンだだ漏れになるほど素晴らしいです。 今までキーボードの交換・新規購入をしたことがない方は是非とも一度はRealforceとは言いませんが、それなりに値段のするキーボードを使うことを強く強くお勧めしておきます。廉価なデスクトップPCに付属してくるキーボードの価格はせいぜい1000円程度、ヘタをすると500円もしない代物なので最初はその価格差に驚くかもしれませんが、その価格差に見合うだけの疲労軽減とストレス低減は得られるはずです。
他人は自分ではない
(2009.04.12)
最近色々とあり、きわめて縁遠い親族とも嫌々顔を合わせる機会も少なくないのですが、そういう場面では現状を紹介し合う必要もあるため、色々な話をしたりします。私自身が親族同士の付き合いからは基本的に距離を置いているため、謎の人A的な扱いを受けて色々と穿鑿されることも多くそれはそれで不愉快なのですが、それは仕方のないことと割り切れるくらいの厭世的思考は維持しているつもりです。 ただ、そうした話の中で、(私にとって)全く関係のない知人の話を持ち出してある種の自慢話をする人々の相手をする人がいます。「○○さんは〜でね、すごいでしょ?」と話し、自分はその人と係累にあるからすごいだろう、と仄めかすやり方です。 このような人たちの態度は、他者と自己の共約不可能性あるいは絶対に埋めることのできない溝を無視する、あるいはそういったことに無知であることに拠って成立しています。そしてその無知は多くの場合、私の個人的生活にも土足で踏み込むことも多々あるため、この種の人々のご機嫌を取ってやることは往々にして精神を疲弊させること大であり、それゆえ今まで彼らとの付き合いを拒否してきたということがあったりもします。 無論、自慢することそれ自体を私は否定しません。但し、素朴な規定を敢えてするならば、それは自分が成し遂げたことに限定されるべきであると思うのです。きわめて卑近な例では自分の年間所得、あるいはそれに付帯して成立する社会的ステイタスについては、それを鼻にかける権利があると私は思います(基本的にその手の人たちはそういうことはまずしませんが)。しかし、自分で成し遂げたのではない事柄については、たとえそれが配偶者や恋人、親兄弟であっても吹聴の対象とするのは、逆にその人自身の内面的な貧しさ、そして社会的な弱さに対するルサンチマンを露呈する以外の何者でもないと思うのです。以前職場でとある人が某社のプラチナカード(家族会員)をひけらかしていた現場にも出くわしたことがありますが、そういう行為は逆に当人の内面的貧困と配偶者への愛情の質に対する懐疑をうむだけです。 愛のない生活を送っているため(笑)私自身も虚栄心はかなり強い方ですが、穴の開いた割れ鉢であるところの虚栄心を満たす水については、少なくとも自分の手で注いでやりたいものだと思うのです。
軽く疲れている
(2009.04.04)
三浦あずさ「さん」と同じ誕生日の左大臣ですこんばんは。 #何のことか分からない人はスルーしてくれ。 この前書いたシュミットの『モーツァルトと我が人生』を読みながら、ある人のことを思い出した。かつて特定の、限定的な範囲ながらもきわめて幸福なサークルで言葉を交わす経験を持った人なら、ほぼ間違いなく思い出せるにもかかわらず、それ以外の人にとっては縁遠い以外の何者でもない、モーツァルトとショパンをこよなく愛したあの人のことだ。 正直な話、中学高校と理科と化学の教師だったTという物凄く嫌な奴がモーツァルト好きだったせいもあって、モーツァルトの音楽を聴くことについては、数年前まで非常に強い拒否感があった。所属していたオケで彼のHr協奏曲第1番をやった時も直前まで降り番の希望を出そうかと考えていたほどだ。ピアノも楽理で触った程度だからショパンもPf協奏曲と非常に有名なピアノ独奏曲を数曲知っている程度だった(これは今でも余り変わらないかもしれない)。 しかし、件のサイトを運営していた彼の音楽に関する断章(日記)は、そうした立場の違いを超えて、音楽とは何か、言うならば消費し尽くされることのない永遠の形而上的価値とそれを可能にする態度の正直(せいちょく)について考えさせられることが多かった。例えば、本気で死を考えていた彼が『魔笛』を聴いて魂も枯れよと涙を流し復活した話など、シュミットの経験と重なる点も多く、「かつてエロゲ論壇というものがあっ」た時代(http://d.hatena.ne.jp/nakamurabashi/20090112/1231699072)の、今は失われた熱気を持ったにぎやかさと共に、あのサイトを運営していた彼が、音楽に、あるいはモーツァルトやショパンに、何を求めていたのかをもう一度考える機会をシュミットの本はもたらしてくれたように思う。 ここからの話は、多くの邪推を含むものである。だが私はようやく今になって再び思う。本当に美しいものは、それを本当に必要とする人間にしか現れないし、それがもたらす経験は、認識を根本的に変えてしまうことによって、その人の生き方を完全に変えてしまうものであり、ひとたびその世界を知ってしまった者は、少なくとも日常の世界においては絶望的な孤独に耐えなければならないという責め苦を負う。これを特権意識あるいは選民意識と揶揄するのは簡単だが、泣ければいい、あるいは感動すればいい的な消費意識が大手を振って覇権を謳歌する中では、その種の音楽経験を語ることは嘲笑の的となることもまた事実だ。 だから、シュミットの本を読みながら、私は思うのだ。あのサイトの「彼」をしてこれほどまでに彼岸の美を希求させた経験とは何だったのか、そしてモーツァルトの音楽は彼の耳にどう響いていたのかを。 もちろん、この問を立てること自体が冒涜的であろうとの謗りは逃れられないと思う。けれども、このような経験を恐らく私はこの先ほとんど共有することがないだろうということを意識し、日常そのものが恐怖の総体にしか思えない状態に陥る時――殊に最近はその頻度が高いのですが――、そのようなことを思ったりもするのです。 |
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