人の悪口は書きたくないのだが
(2008.09.24)
できる限り、私生活で遭遇したひどい物言いについてはここで書かないようにしているのだが、ちょっとカチンと来たので今日は許して下さい。
昨日の日記で記したことについて、「ウソじゃんこれー」とか会社の連中の間でメールを回覧してたんですが、そこである女性がいうには、「所詮市場調査会社なんだから黒子で当たり前、名前が出ないとか言う方がおかしい」とかいったわけですよ。
あー、確かにマスコミ公表前のデータをこっちで調査し、プレスリリース用の資料のお膳立てをしてやることは多々ありますよ、実は。どっかの記者会見では私が作ったグラフがそのままカラー化されて使われてたなんてことはいくらでもあります。 でもさー、そういう仕事ばっかり受けてたから彼女が昔いた会社って潰れちゃったんじゃなかったの?
とりあえず私が現状の仕事というか会社については――ある程度キャリアを積んだら辞めちゃうつもりではありますが――、単なる市場調査会社では安値叩き売りのサビ残大会になるので、商品戦略コンサルタントの仕事を兼ねることで商品力を上げる方針でやっています。今回の講演の仕事もノーギャラ(打ち上げでビールくらいはおごると某社のオジサマはいってくれてますが)で引き受けていますが、それは広域分野でのコンサルタント業務への展開も見据えてのことであります。もちろん、そういう仕事をやることで私個人のキャリアの展望が少しずつ開ければ面白いよね、というのも狙いではありますが。
そういう付加価値戦略を考えずに、徒らに先輩風(経験は彼女の方が長い)を吹かすやり方というのは、あまり感心できたものではありません。実際売り上げとか粗利という非常にドライな見方をすれば、私は彼女の3倍以上売り上げを立てています(特にこの3ヶ月での売り上げは彼女のおよそ1年分に相当します)から、カーッペッペッというのが正しいあしらい方ではあるのでしょうがね。
あー、頭くる。本格的に転職を考えている次第です。
金も名誉も力もないから舐められるんだろうね
(2008.09.23)
さて、今度のCEATECのカンファレンスのあるセッションで話をするということは以前書いたと思うのですが、それに関する記事がITmediaに載りました。さてさて、小生の名前はどこかな……と虚栄心2000000000000%で探してみたところ、
…………、ない…………。
当該セッションのスピーカー氏名一覧の一番先頭(キックオフスピーカーだから)に載っているのに……
まあ、他のスピーカーは超一流有名企業なのに対し、小生はプレゼンで使用するPCすら支給しないアルパゴンみたいな爺さんが取締役の零細企業の極みの小さいところに勤務する市場調査&コンサル屋ですからまあ無視されるのは仕方ないんだろうね、とは思うのですが正直あまりにも悲しいのでとりあえず小さい会社だからって舐めんなよ、舐めるなら俺のピーーーーーを舐めろと苦情を送ったわけです。で、以下返事。 平素はITmediaをご愛読いただきましてありがとうございます。 ご指摘いただきました記事を担当したGと申します。
ご指摘いただきました件ですが Excelでベースの表を作成する際の入力ミスによるもので さきほど訂正いたしました。 ご迷惑をおかけしましたことを心からお詫び申し上げます。
なお、いただいたメールの中にあったような 「おそらくは無名に等しいということでのご判断に基づき小生の氏名及び社名の掲載は不要」 といった意図は全くなかったことを、ご理解いただけましたら幸いです。
弊誌としては今後、このような誤入力のないよう校正を徹底することで 信用の回復に努める所存です
このたびは、本当に申しわけありませんでした。 「今後ともITmediaに対するご愛読並びにご支援を賜りたく、宜しくお願い申し上げます」ぐらい書けないのかよとその非常識ぶりに呆れるのはさておくとして、 こんなミエミエのウソついてそれが通ると思ってんのかバカ。あと当該記事に赤字で訂正を記さないという狡猾さはどう説明すればいいんですか? という感想が当然の如く沸き起こる。 まあいい。ITmediaの連中はそういう輩だということはよく分かった。
写真なんか載せなければいい
(2008.09.18)
http://s03.megalodon.jp/2008-0918-2235-51/www.asahi.com/national/update/0917/OSK200809170038.html
http://s01.megalodon.jp/2008-0918-2239-01/www.asahi.com/national/update/0917/OSK200809170038_01.html
これはありうるだろうなあ、と思ったミシュランと京都の「一見さんお断り」店の摩擦の話。
ANAの機内誌「翼の王国」を読んでいると徳力某とかいう頭の悪いライターが京都の芸者を伝統文化の継承者としてやたらに持ち上げる連載に出くわして何とも気分が悪くなる。所詮高級娼婦でしかない芸者をことさらに持ち上げるというのは近代以降京都にはまともな文化が根付かなかったということを証明しているようなものだが、かの土地の料理屋もそういう前近代にずっぽりと浸ったままなのだなあと軽蔑を新たにした次第だ。
いわゆる「一見さんお断り」という顧客囲い込みの手法が有効であるのは、その店で常連になることがステイタスとして認知されている場合に限られる。場末のスナックの常連であることになど実際には価値はなく、むしろ侮蔑のネタにしかならないのと同じことだ。 とするのであれば、「一見さんお断り」の店の衒示的価値はその店の常連に対してではなく、その店に来ることができない人間にこそ意義があると考えるべきだろう。今まで行くことができなかった、入ることができなかった店に行くことによって得られる喜びは、通常そこで今日される食事の内容に対する喜びを上回る。生理的欲求と自我あるいは自己実現の欲求、どちらが上位にあるのかくらい分からないのか? 私は俗っぽい人間なので、初めてオテル・ド・ミクニとかタイユヴァン・ロブション(分裂する前)とかオー・グー・ドゥ・ジュール・ヌーヴェル・エールとかラリアンスとかに足を踏み入れた時は少なくとも味を楽しむ以前にああ働いててよかったなあという見栄度2000%の感想しか持たなかった。味が分かるようになるほどまでにはまだ行ってないですが。ちなみにこの前行った虎ノ門のサラマンジェはクネルが絶品でした。でもワインリストがちょいとアレなのは辛いなあ。来週末は送別会で岩崎邸そばのコーダリーに経費で行ってきます。
……話がそれたが、初めて有名店に来るような人間は服に着られてコチコチ歩きをする社会人一年生のように、味など確かに理解はしない。それを不愉快に思う人間がいるのは否定しない。 だが一見さんの存在は決して悪いことではないと私は思う。人はそうした中でも何かを少しずつ学んでいくものだし、その試行錯誤の中でようやく自分にとっての店のセレクションリストを構築していくからだ。そしてそもそも初めて来る客に対して最大のもてなしをできない言い訳に排除の原則を持ち出すのは全くの間違いである。常連だけを相手にした馴れ合いの商売をしたいなら会員制のレストランでもやればいいのだ。現にそうした業態の店は東京に来ればいくらでもある。私のような貧乏人は会員権(大体50〜150万円くらいがよくある相場)を買うことすらできない。どうだ、年に数度の晴れの日に着飾ってレストラン巡りをするような連中はこれで排除できるではないか。
また、ガイドへの掲載の許可を求めるミシュラン側も正直読み手を馬鹿にしているのではないかと思う。以前私は東京版の同ガイドが店との癒着と馴れ合いの上に成立しているのではないかと指摘したことがあったが、それを払拭するためにも京都版は敢えてくだらない写真など掲載せずに発行すべきだ。もしページ数が稼げないというなら神戸・大阪も対象にすれば星なしも含めて150ページ分くらいの店はリストアップできるはずだ。それができないならカー用品屋の店頭でミシュランタイヤのおまけにでも付けるフリーペーパーにすればいい。美食の価値など本来そんなものだ。
他者とは地獄であるとサルトルは言ったが、そもそも評価というのは常に一面的なものであり、他人から自己への価値観の押し付けに他ならない。それが嫌ならお互いに評価されない微温的な関係を構築して緩やかな死を待ちつつそこに逃避するか、別の評価を構築することである。幸いミシュランにはゴー・ミヨーとかザガットといういいライバルがいるのだから、彼らを利用する手だってあるだろう。そこまで頭が回らないのかあるいは評価されること自体が嫌いなのかは分からないが、猛烈な勢いで地盤沈下を続ける日本という国で今まで通りの高級小料理屋然とした商売を続けてそれなりの収入と尊敬が得られると思ったら、時代錯誤&大間違いの愚昧であることはしっかり指摘しておこう。
2008年 09月 12日の日記
(2008.09.12)
「…しかし松枝清顕さんという方は、お名をきいたこともありません。そんなお方は、もともとあらしゃらなかったのとちがいますか? なにやら本多さんが、あるように思うてあらしゃって、実ははじめから、どこにもおられなんだ、ということではありませんか?」
「記憶と言うてもな、映る筈もない遠すぎるものを映しもすれば、それを近いもののように見せもすれば、幻の眼鏡のようなものやさかいに」 「それなら、勲もいなかったことになる。ジン・ジャンもいなかったことになる。……その上、ひょっとしたら、この私ですらも……。」
「それも心々ですさかい」 (「豊饒の海」第四巻『天人五衰』)
そういえば明日は911ですか。
(2008.09.10)
色々静かになった身辺を見渡すと、実は最近あまりにも勉強していなかった事実に気づきました。イタリア語の勉強も、プルーストを原書で読むことも、ドイツ語のリハビリも全然していない。もちろん近代プロヴァンス語の学習資料を収集することもしていない。アドルノは6月に『新音楽の哲学』を読んだきりだし。
詰まらぬことで色々と気を紛らわしていた積もりでしたが、そういうことは実はむなしさの埋め合わせでしかなかったということに今更ながらに回帰してきたということなのかもしれません。つまりは、"Noli foras ire, in teipsum redi; in interiori homine habitat veritas ―― 外へと向かうことなく、汝の内へと立ち返れ。真理は人の内にある"(アウグスティヌス)ということだったのでしょう。物欲ですっかり腐った私の脳味噌に立ち返っても、出てくるのはゴミばかりでしょうが。
ああ、それにしても勉強がしたい。仕事など打ち棄てて朝から晩まで本を読んでいたいです。文字通り寝食を顧みず頭が壊れるまで本を読んでいたい。何をやっても結局ダメになるのなら、好きなことだけやって死にたい。
閑話休題。 私が最も恐れる語の一つに、「誤解」があります。諍いに近いやりとりが生じる時、「それは誤解だ」という主張をされると、ほとんどパニックに近い恐怖を感じ、それ以上は何も考えられなくなることが多々あります。 実際、私のコミュニケーション能力はかなり低い水準にあることは重々承知しています。そもそもが相手と意思疎通がうまくいくことを期待していないはずなのに、少しでもやりとりがうまくいくと過度に相手にのめり込んでしまう性格そのものが、典型的な境界性人格障害過ぎて笑ってしまう他ないということは自明ではあります。 それ故に、「誤解している」という表現を私自身が使ったことは ―― 少なくとも記憶している限り ―― 一回もありません。恐らく話した内容は相手には伝わらないだろう、そしてそれは自分の無能力と内面のまずさのためだということは言うまでもないからです。そこまでの苦痛を無理矢理やり過ごしても会話を続ける意味は、正直全くないように思えるのです。
もちろん、普段の私のお喋りぶりを知る人にとってはこのような告白は奇異に映るでしょうし、信頼性を欠くでしょう。けれども、日常私が壊れた機械のように喋るのは、何も話したくないからに他なりません。コミュニケーションそのものが稀にしか成立せず、そうした場合には相手を困惑させるような依存に陥りがちであるのなら、最初から関わり合いなど持つべきではないのです。故に日頃の私はお喋りです。
ですが、そういうことにも最近疲れてきました。人から手段と見なされる経験――容姿も醜く将来性もなく性格も悪いなら仕方ありますまい――があまりにも多く、そういう性格ゆえ嫌われつつある以上、世間からはフェードアウトするのが次善の方法だと思えて仕方ありません。一言で言えば、私はこの世界で生きるのに向いていないし、その改善の意思も見込みも必要性もないのです。
最近はほとんど一日中自分の死のことを考えています。正直仕事になりません。本などをどう処分するかという具体的な問題に加え、荼毘に付す時にかけて欲しい曲――フォーレのレクイエムは外せないでしょうね――のことなど。ニーチェが言うように確かに死を思うことは強い慰めではあるのでしょう。それでも、その慰めを越えて、死神の声が浄福を約束する子守歌に聞こえてくるのです。
もう、色々な意味で、ダメかもしれません。 少し休みます。少し。
持ってけドロボーCD2受領
(2008.09.01)
土曜、篠原美也子の「your song-anniversary selection 2001-2008」と「Spiral(15th anniversary edithion)」の二枚購入特典のCD、「持ってけドロボーCD2」が届きました。特典申込葉書を投函したのが5月上旬。やー、待ちました。 CDの内容はトーク中心なのでここでレビューする類のものではないのですが、デビューしてからもう15年になるのか、と流れた月日に色々考え込んだ次第です。
彼女の歌に最初に触れたのはちょうど大学1年の秋でした。今から見ればずいぶんとありがちな話ではありますが、グタグダな人間関係に相当疲弊していた時期、偶然ラジオで「ひとり」のフレーズに接して、気がついたらボロボロ泣いていたというかなり情けない出来事がきっかけでした。
当時はネットなんていう便利なものはなかったので、聴き取った歌詞を手がかりにCD屋の親父に調べて貰って注文して手に入れ、テープにダビングして(DAPなんていう便利なものはなかったしMDも持っていなかった)大学の行き帰りにパワープレイして聴いていました。
彼女の歌は時代によって大きく変化するため、一言でその特徴を言い表すことはできません。ただ、恐らくずっと彼女の歌に通底して流れているものは、弱い、そしてどうしようもなくだらしのない、色々なものに流されつつそれに悲しみと生き辛さを抱えた我々に対する緩やかでしかし途切れることのない連帯ではないかと今になって思います。色々な変転を経てすっかりダメな三十路男になってしまった私も、15年前に持っていたであろう希望とか理想とかはすっかりどっかに押し込めて明日もまた満員電車に揺られて少ない金を稼ぐ為にストレスと疲労を溜め込む日々に没入していくわけですが、時折記憶のどこかで鳴り響く彼女の歌は、この世界で生きていることの手応えを思い起こさせてくれるようにも感じられます。
思っているよりもずっとずっと人生は短い 遅すぎるかもしれない だけど顔を上げて 誇り高くありたいと願えば日々はあまりにせつない 勝ち負けで決まるならきっとずっと人生はたやすい (「秒針のビート」)
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