入口と出口を入れ替える
(2008.06.25)
バイリンガル、話す言語により性格変えている可能性=米研究(ロイター)
それぞれの言語はそれぞれが歴史的に培ってきた文化があり、文化とは個々人の行動様式も含む以上、一定のレベル以上でその言語を使うことができるということはとりもなおさずその文化に内在的な行動様式も身につけていると考えるのが妥当であることから考えても、他言語をかなりの自由度で扱っているときは性格も変わるというのは当然の帰結だというのは論理的に十分推論可能だと思う。実際私も特に仏語で話す時は相当性格が変わることからもそれは実感できる。ここまではごく自然な話だ。
ここからはあくまで仮説の世界に過ぎないのだが、もしも複数言語の一定水準以上の習得が、発話行為における複数のペルソナの保持を可能にしてくれるのであれば、この関係を逆転させることで別の有効性を確立することはできないかと思う。即ち、単一のペルソナではなく、複数の、時として全く異なるペルソナを持つことによって、現在の自分の内面性の重圧からの解放をもたらしてくれるのであれば、そのためにも他言語を学ぶことは有効ではないかとも考えられるのだ。今の自分の性格が嫌で嫌で仕方がないのなら、一歩一歩日常の努力の中で現在の性格を改めていくのは大事なやり方だとは思うが、いっそのこと別の言語を習得することで複数のペルソナを自由に纏うことができるのであれば、狭い狭い世界での自我の同一性というくだらない桎梏に苦悩することも軽減されると思うのだ。
何もこのことは外国語の習得に限らないかもしれない。所詮国語とは「国語とは陸海軍を備えた方言である」(マックス・ワインライヒ)に過ぎないのだから。いずれにせよ、複数の言語を、複数のペルソナを往還することで自我の重圧あるいは呪いから自らを解放するための一つの方途として学ぶというのは、自己の頭上に広がる空が青いことを知るためにも、面白いのではないかと思う。
佐藤賢一『オクシタニア』読了
(2008.06.16)
佐藤賢一『オクシタニア』を読んだ。
邦人作家の小説は滅多に読まないお前にしては珍しい、と揶揄する向きもあるだろうが、この本はタイトル通り「オクシタニア」、即ちラングドック地方とプロヴァンス地方西部を舞台にした、13世紀のアルビジョワ十字軍の物語である。ミストラルに続いての南仏の話なわけですどうもすみません。
非常に南仏贔屓の見方をすれば、アルビジョワ十字軍は南仏に花開いていた宗教的に極めておおらかな文化を抹殺した侵略者であり、この地域の文化に再び光が当たるのは19世紀後半のフェリブリージュ運動を待たねばならないという屈辱と暗黒の歴史がその後繰り広げられることになるのだが、『オクシタニア』が取り上げるのはそのような蛮行がまさしく行われていた時代の話である。
当然オクシタニアの人々の当時のリンガ・フランカはいわゆる中世プロヴァンス語であり、この小説ではそれを関西弁に代置することで、オイル語圏のフランス王国との違いを出そうとしている。関西弁自体には好き好きがあるのでこれをどう評価するかは読み手次第だが、言語が違うのだということを意識させるための一つの方法としては有効であったと思う。
さて、歴史的な事態の展開は様々な別の書物に譲るとして、本小説は前半で準備された主要な3人物、即ち「力こそ正義」の世界に生きるライモン7世、ドミニコ派の異端審問官として活動するエドモン、そしてエドモンの元妻でカタリ派の信仰に身を投じる完徳者ジラルダが、後半でそれぞれの信仰や立場をベースとしつつも、それらを懐疑的に捉え返すことで、単なる正義の押し付け合いにならない、より人間の存在に眼差しを向けた物語へと進んでいく。このあたりは何となくドストエフスキーの作品群を彷彿とさせないではないのだが、そこはオクシタニアの物語、豊饒な自然に恵まれた地域を舞台とするゆえ、佐藤氏の筆致もあるのだろうが極めて官能的かつ肉感的な人間観を伴っているのが、彼の地の美しく温和で優美な風景を思い出させてくれる。
歴史がそうであるように、この物語ももちろん悲劇的な結末を迎える。だがその過程で一瞬だけ顔を覗かせた、ジラルダとエドモンの宥和――その解釈の違いがまた悲劇を生んでしまうのだが――は、魂だけを徒に讃美せず、また肉体の快楽に溺れるのでもない、愛情の最もあり得べき形の一つを、南仏の素朴で祝福に満ちた光の中で示してくれているように思う。
そしてエピローグ。非常にベタなサプライズがあるのだが、そこに込められた形而上的性格は、ジラルダが何を想ってあのような決断をしたのかという理由の根本を、より純化した形で象徴している。自分に向けられた愛情と精神的な紐帯が永遠かつ絶対のものであることを願うが故に、自分という現存在の消滅と忘却を目指した、ジラルダのエドモンへの愛情。そして当時も今も変わらず降り注ぐオクシタニアの太陽。
少々行き過ぎの感がある性描写等、難点を論えばきりがないが、豊饒な小説であった。
パソコン壊れた
(2008.06.05)
デスクトップマシンがいきなり壊れた。 CPUのコア焼けかと思って中古のCPUと交換してみたが起動せず。どうもマザーボードがショートしたか。コンデンサは壊れてなかったけど。
そんなわけで急遽マシンを一台組立。スペックはこんな感じです。 マザーボード: Gigabyte GA-MA790FX-DQ6 CPU: Phenom 9750(4core) Memory:4GB Video:RadeonHD3870
TDPが125W(前のAthlon64 4000+は89W)とのことで発熱が激しいのは想定していたのですが、実際使ってみると平均55度くらいの発熱。前のAthlon64 4000+が35度前後で安定していたのと比べると相当厳しいです。いずれは水冷式の導入を検討するか、プロセスルールが45nmになったら再度色々更新するかしないとまずいですね。
で、一応Maxtorのサーバー向けHDDは使ってはいるのですが、クラッシュも気になるし、筐体内部の熱源を外に出す必要もあるので、アイ・オーデータのLandisk Teraの2TB(RAID5使用の場合実際に使えるのは1.5TB)モデルも導入しました。目下HDDのデータを片っ端から追い出す作業をしていますが、書き込みだと10MB/secがせいぜいなので結構時間がかかります。
あー、お金なくなっちゃったよ。誰か下さい。
(後日付記) えー、悪いタイミングでPhenom 9750のTDP95W版が出ているのはどういう事でしょうか。 安くなったら載せ替えをかなり真剣に検討しますが、それよりもプロセスルール45nm版(多分TDPは65Wくらい)が今のマザーボードで動くといいなあ。
SE-DRS3000C衝動買い
(2008.06.02)
以前から修理しながら使っていたパイオニアのSE-Monitor 10R(http://pioneer.jp/accessory/monitor_head/index.html)がヒンジの所も含めて豪快に壊れだしたので、本格的な修理は連休などの休日に行うこととして、とりあえずケーブリングの手間が省けるワイヤレスヘッドフォンを前から探していたのだが、もう色々と疲弊したので同じくパイオニアのSE-DRS3000C(http://pioneer.jp/accessory/cord_head/index.html)を衝動買いした。もちろんボーナス払いですよ、ええ。
さて、色々と聴いてみた。そりゃSTAXとかの高い高い高い有線ヘッドフォンに比べればパワー不足の感は否めないが、値段から見れば非常に解像感の高い、いい音を出してくれる。試しに聴いてみたシュニトケのヴィオラ協奏曲(Va.カシュカシアン)は指板を叩く音やカシュカシアンの息づかいがかなりリアルに聞こえてきて、脳内定位もほとんどないので実に快適。
但し問題はこれが使用している2.4GHz帯の無線で、赤外線方式のような指向性は問わないものの、家庭内無線LAN機器と帯域が干渉するという点で、一応チャネルは自動的にコリジョンを避ける仕掛けはあるものの、時折プチッとノイズが入る。大昔の無線ヘッドフォンに比べれば大分よくなったが、気になるものは気になる。
が、そこまでこだわるならそれこそ有線ヘッドフォンを使えばいいわけだから、ある程度割り切った使い方に終始するけれども、音質は無視できないという左大臣のような困ったユーザーには便利な一品だと思う。
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