汝の意志の格率が
(2008.02.29)
同時進行プロジェクトが3つ。さらに来週からはもう一つ増加予定…… 現在はなんとかデスマーチにはなっていないが、来週はかなり地獄かも。早朝出勤はマストですな。
さて。 ある程度年をとってくると、見知らぬ人間同士が社会的関係を構築しようとする時には、肩書き等々の形式的要素をその人間を判断する上での蓋然的な手がかりにしてしまう。色々な人と無前提に関わる時間もなければ余裕もなくなってくるので、ある程度の敷居を設けるためだといえば仕方ない話ではあるのだが、時としてこの構図が逆転されて、「一定以上の肩書きのある人とお知り合いになりたい、そうでなければ都合よく利用してバイバイ」という泥炭のような欲望がやりとりの隙間から垣間見えてしまうというのは、正直人間性に対する興味はおろか、そのような人間と関わり合いになる愚を犯すのは単なる人生の浪費ではないかという考えをより一層強くするだけだ。
何でそんなことを今更ながらにグダグダと書いたかというと、来週末に食事会と称した合コンをやる予定なのだが、どうも先方はこちらをテキトーに利用して事実上のタダ飯でもするかという意図がミエミエだったりするのだ。 確かに私は社会的には給料は安いし外見は醜いので、そういう意味では彼女らにアピールする要素は限りなくゼロだ。だが、そりゃこちらも仕事で腹の探り合いみたいなことはそれなりにやってますので、そのあたりはいくらこちらが世間知らずの院生崩れだからといっても、合目的性の本質がどこに存するのか位はいくら何でも明白じゃないとお前の目は節穴ということになるだろう。いや、正直なところそもそもそんなどうしようもない連中から友人を求めようとさえ私は元々思ってないので、中止してしまっても構わないんですが。
そもそも論からいえば、恐らく基本的な蹉跌はこちらが2流とはいえフレンチの店を選んだことにあるだろう(左大臣が個人的に本当に高く評価する店はそういう機会には使わない)。相手の意図を確認するためにダメな中華料理屋でも最初に提起しておくべきだったというのは反省事項だ。 しかし、さすがにあまりにもこちらを蔑ろにすること大なその態度には少々どころかかなりカチンと来たので、なにがしかの手を打とうとは思う。人を自己のために利用しようと策を弄する人間は、結果として他者から利用されるだけで、人間性に対しては全く見捨てられるだけだ、という基本的な立場を、もう一度自分も含めて確認しなければならない。
閑話休題。
先般南仏の知人から貰った手紙の中には、こんなことも書いてあった。 「お前を見ない人間は、お前の中にフランスを見ようとするだろう。自分の憧れる“フランス的なもの”をお前を通じて見つけようとするだろう。お前を見ることができる人間を捜すべきだし、気をつけるべきだ」
けだし至言だと思う。
手紙が届いた
(2008.02.14)
かれこれ20年近い付き合いのあるフランスの老夫婦から、年賀の手紙が届いた。高校1年生の時、ホームステイでお世話になって以来、彼らとはこうして年に1〜2回定期的に手紙のやりとりをしている。彼らが私にとってどういう人であるのかは、また別の機会に詳しく書くこともあるとは思うのでここでは省く。
手紙にはこうあった。
「何がどうであろうが、お前は私たちにとってこの上なく愛しいクソガキだ。またエスカルゴとウサギを食いに来い」
陳腐な言い方かもしれないが、彼らの手紙はいつも太陽の薫りがする。
もう少しだけ、眼差しを高くして、日々を乗り切っていこうと思う。
ある日アラブの偉いお坊さんが♪
(2008.02.13)
D300の極端な条件下での縞縞問題解決ファームがアップされていたので早速更新。明らかにバグ出しのテスト環境でしか出ないような話だが、まあやっておいて損はないだろう。
さて。 今日はあまりにも寒いので昼休みはあまり外を出歩かず、会社近所のカフェで仏語の師匠から貰った新聞の切り抜きを読んだりしながら休憩していたところ、隣に座っていたフランスからの観光客2人組(男女)とふとしたきっかけで話に花が咲きました。 2人は姉弟で、弟はパリ第3大経由で目下慶応にて情報社会学の勉強をしているとのことで、大学休講期間を利用してお姉さんを半月の予定で日本に呼んだそうな。 中世フランス語とかアカディア語(ケベック語)におけるoi音の保存、ポール・ロワイヤル文法の話など話題が諸方面に激しく飛ぶのはこの手のお喋りの基本だが、ネグロポンテ流の情報社会学の楽観主義過ぎな立場は単なる阿呆だ、みたいな立場で一致。弟君はその点も含めていわゆる教養階級のフランス語を用いるため、非人称構文や代名動詞の多用などが微妙に心地よい。有声Hの変化の話は姉君は知らなかったらしいが。 その他、日本語では指示対象(あるいは主語)の明示化を文脈に依存しているため、立言内容の十全な把握は文脈の暗黙の共有を前提としているが故に外国人には大変近づきにくいと同時に興味深いものでもある、というのはこちらとしても大きな発見だった。普段何気なく感じていることでもこのように概念化されると確かに捉えやすい。
西欧近代における市民的公共空間の出現においては、実は(トルコからもたらされた)コーヒーハウスが大きな役割を果たしていた、というのはイーグルトンなんかも確かどっかで書いていたと思うのだが、全く見ず知らずの人とカフェでこういう風に議論をする機会を得ると、それも又然りというのは腑に落ちるところ大ではあると思う。
それにしてもだ。議論がたけなわになってくると自らの語学力の低下を痛感する。何はなくともまず勉強しないとダメだ、と思う。
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