買ったよ
(2007.09.30)
会社の近所でビッグイシューを売っている人に会ったので、久しぶりに購入した。
結構社会的な問題意識が強い(雨宮処凛が連載していたりする)この雑誌を冷ややかに見るような無力な人間からは「サヨクだ」というような頭の悪い意見もチラホラ出ているようだが、そんなノイズに耳を貸すほどの意味も時間もないことは今更言うまでもないだろう。
で、この雑誌の奥付の辺りを見ると、支援定期購読者の欄にはゲイムマンが相変わらずいる。ゲーム脳というヒステリーを冷静に批判し、森昭雄のデマゴーグぶりを弾劾する彼の姿勢、そしてビッグイシューを支援講読する彼の連帯意識に、非常に強い共感を覚えたのだった。
消費の記憶
(2007.09.29)
デパートの商品券を、欲しい物を買うにはちょっと足りない程度に貰ったので、昼食をデパートの食堂にてとってみることにした。個々の店が1つのフロアに色々入っているタイプの食堂ではなく、デパートによっては食券を買って注文する形式だったりする、いわゆる大食堂だ。
注文したのは天丼+ざるそばのセット。プラスチックの給食然としたお盆にのせて出されてきた食事と、中途半端に装飾的な昭和40年代風の内装及びちょっと高い天井に、妙な郷愁を覚えた。時間が余ったのでその後足を運んだ屋上の遊戯施設も含めて、色々考えた。
一目で分かるとおり、このようなデパートの構成はかつてのデパートでの買い物が所謂「ハレ」の消費であった時代の名残である。デパートで食事をし、遊園地とまではいかないまでも屋上の遊戯施設で子供たちが遊び、そしてそののち階下の売り場を回遊して玩具なり衣服なりを買うという行動スタイルは、それ自体としてかの時代には非日常的な機会だったのだ。当然それに対する日常としては、商店街等の近隣の商店での食料品や日用衣料品の調達が存在していた。
そしてこのような形態は今や完全に消滅し、デパートも含めた大規模小売店は噴水効果に期待してのマーケティングに軸足をうち巣用になってきているのは今更言及することではないのだが、デパートの大食堂での先日の昼食は、消費すること、特に大量消費が非日常であった時代における一般人の消費行動に対する意識、そしてそこからあまりに遠くに来すぎてしまった我々の暗い未来に思いを馳せるわけにはいかなかった。
ドナドナ
(2007.09.28)
♪ある晴れた昼下がりムショへと続く道 軍用トラックがガタゴト坊主を連れて行く
と替え歌の一つも歌いたい今日この頃ですが、色々ニュースを見ていても日本の仏教団体がビルマ(敢えてミャンマーとは言わない)大使館に抗議文を叩き付けたとか声明を発表したというニュースを聞かない。調べてみると一応は全日本仏教会は抗議声明を関係各所に出してはいるようだが、ビルマの軍政を非難するトーンはどこにも見られず、内容のおとなしいことこの上ない。おまけに北品川のビルマ大使館前での示威行動があったという話もないようだ。投石とか放火とかの乱暴狼藉は確かに信仰に反するが、座り込みの抗議くらいはやってもいいのではないのか? 上座部と大乗の違いはあれど、いわゆる法難ではないのか? 某戦う鎌倉仏教のあいつらだって折伏大会をやる気配はないようだ。
この日和見的な態度は、日本に根を下ろした仏教が、社会からの徹底的な逃避をもってして満足という基本的態度を何ら変えるつもりが無いということを意味している。そうだ、翼賛体制の下であっても、さらには古くは江戸時代の差別的な身分制度に何ら介入してこなかった日本の仏教は、その根本的態度において無関心と諦観を至上とするがゆえに社会全体の変革を通じての個人の救済については極めて冷淡であった。だが、本来宗教とは人間同士の形而上的な連帯を、超越的価値の意義によってもたらすものではなかったのか? 特に衆生の救済を主眼とする大乗仏教は、自己の救済のみならず他者へとその信仰の価値を連結することによって大乗たり得ているのではないのか?
これは私が無神論者だから言うのではない。他者への連帯を志さず、ただ単に既得権益の確保にのみ汲々として宗教的ジャーゴンを法話云々と称して繰り返すだけの連中は例外なく宗教者を語る資格はない。
「人生の短さについて」
(2007.09.27)
われわれは、短い時間をもっているのではなく、実はその多くを浪費している。人生は十分に長く、その全体が有効に費やされるならば、誰でも偉大なことを完成できるほど、豊富に与えられている。(セネカ『人生の短さについて』)
ザコンが潰れて
(2007.09.26)
秋葉原のザコンが9月20日に閉店となったことは、少なくともこんな辺鄙な個人サイトの日記を読まれるれかたなら知っているだろう。地下の「めいどinじゃぱん」も8月いっぱいで閉店しており、某G太氏オキニのはるか嬢のゆくえは杳として知れない。
そんなことはどうでもいいとして。
ザコンが開店したのは確か1990年頃だったように思う。当時は国民機と言われたNECのPC9801シリーズ絶頂期ではあったが、DOS/V及びPC/AT互換機が着実にその版図を広げている時期だった。GUIのOSと言えばせいぜいがMacOSであったがそれも使いづらいことこの上なく、多くのユーザーはPC9801でMS-DOSを走らせてパチパチやっていたのだ。業務レベルでも一応パソコンは既に使われていたようだが、パーソナルユースでのパソコンは極めてマニアな趣味に留まっていた。
だがそれ故にこそ、というべきなのだろうか。マニアの趣味に局限されていたパソコンは、それなりに満足のゆく使用環境を構築するためには多大な苦労を要したし、さらに進んでマシンを駆使するには機械語と呼ばれる一般人には全く理解できない文字列の羅列を習得する必要があった。私のようなヘタレ人間でもハンドアセンブルなんかは結果として学ばざるを得なかった。そうじゃないと当時のパソコンは満足な働きをしてくれなかったのである。結局アセンブラを習得したのはPC88のでだったけど。
けれどもそうして得られた世界には、ハードウェアと自己が一体化するが如きのある種のドライヴ感があった。自分の両手はキーボード――マウスオペレーションと縁遠かった昔のマシンのキーボードはみな大変に質がよかった――というデバイスを通じて、プロセッサやメモリモジュールやFM音源チップを脳に接続するが如き興奮を獲得できたのだ。今となっては時効だろうが、コピープロテクトのチェックルーチンを見つけ出して書き換えたり、ゲームのキャラクタデータを書き換えてムチャクチャな強さの主人公で豪快な出鱈目プレイを楽しむなどという経験はたまらなく愉快でかつ爽快だった。暗い趣味といわれればそれまでだが。
翻って現在、パソコンは生活にかなり不可欠の道具となり、基本的な操作であれば殆どの人が問題なく使える程の平易さを達成している。呪文のようなコマンドを打ち込んで苦心したり、うっかりデータの入力を間違えてマシンを暴走させる恐れはなくなった。だが、その一方でコンピュータは多重レイヤーに保護されたブラックボックスになり、私も含めて多くのユーザーはソフトを末端の一人として操作するだけの存在になってしまった。
それは確かに正しい進化であろうとは思う。だが、一方で、「ユーザー」という立場に固定され、頑固な機械と格闘しつつもある種のアニミズム的な連帯感をはぐくんでいたあの時代の熱気――当時は自分のマシンに名前を付ける連中が居たのはそのためだ――は、もはや地平線の向こうに消え去ろうとしているのだろう。
ザコンの閉店は、従ってかつてのパソコンの青春時代の終焉を告げるものであるのだろうと思う。パソコンという存在は今や成熟を迎え、そのアウラはゆっくりと老い、消滅してゆく。極めてシステム化が進んだこの社会の中で、マシンがマニアにとってのアルター・エゴであったことの痕跡は、再開発の槌音の中に飲み込まれ、我々という個別の存在者の人格同様、抹消されていく。そして我々はシステムの末端として、極めて不安定なワイヤーにぶら下がって、群青色と紺色と漆黒の虚空の中で無駄なもがきを繰り返しつつ死に至るのだ。
有難いことに
(2007.09.25)
知り合いがイタリア語の講座に潜らせてくれるかもらしい。 有難いことなので、積極的に頼ろう。残る最大の問題は私自身のやる気だ。
そんなわけで
(2007.09.24)
今後下記の旅行計画を仮計画段階の「バルトルディ作戦」から、「The Rake's progress作戦」と呼称を変更します。 由来は当然アレです。
左大臣は行くことにした
(2007.09.23)
ここしばらく日記のなかでは示唆しているが、年末にイタリアに行くことにした。
親孝行をしたいとか言いつつ、自分だけはパラサイトシングルを謳歌するようなバカにはなりたくないので、一応親も連れて行く予定。小生の親不孝ぶりは恐らくブルジュ・ドバイ並みにずば抜けているとは思うが、少しずつでもそれを贖って行ければと思う。
そんなわけで、イタリア語を勉強しているのだった。残念ながら安寧なパック旅行をプレゼントするほどの金銭的な余裕はなく、また両親私共にそのようなツアーでは体力的に厳しいという理由もある。外国旅行に行くことばかり唱えて語学の一つも自主的に勉強しようとしないのではこれまた向上心から逃走する怠け者という謗りは逃れ得ない。この年齢になって、いくらフランス語に近いイタリア語と言えどもゼロからの学習をするのは決して楽なことではなく、覚えたはずの単語や文法規則は翌日になってみるとすっかり記憶から抜け落ちていることも少なくないのだが、それでも新しい言語を、まだ見ぬ土地を夢想しながら学ぶというのは楽しいものだ。
で、ドイツ語を勉強したときにはニュートンプレス社のトレーニングペーパーに大変お世話になったのだが、イタリア語にはそのような本はない。千野栄一も『外国語上達法』の中でこぼしていたことだが、日本では英語以外の参考書が極めて少ない。仏独くらいは一応辞書も含めてそこそこあるのだが、その他の言語となると途端に厳しくなる。辞書類は一応何とかなるにしても、問題集などは資格検定試験向けの本以外に探すことは困難を極める。今でこそネットで心ある人が公開してくださっているものも少なからずあるのだが、外国語=英語という経済的環境が突出していることはある程度仕方ないとしても、独習者のための環境がもう少しは充実してくれることを切に願う。
フランス語 や ら な い か
(2007.09.22)
フランス語の師匠に用事で電話。昨年度一杯で退職していたことを知る。ああ、もうそんな歳なんだな…… こっちが歳をとってるんだから相手も年を同じだけ重ねるのだという当たり前の事実を今更ながらに思い知り、周囲に対する自らの鈍感を恥じる。
色々と昨今の状況について話す。無料でフランス語の公開講座を続けているので、参加しないかと誘われた。
今でこそイタリア語の勉強にパワーを傾けているが、それ以前は確かに英語以外の勉強はしていないに等しい状況ではあった。外国語の勉強は実際気が晴れ、色々と思考方法を組み替えるいい機会でもあるので、色々と体力と精神状態が回復したら参加してみようかとも思う。
また、友人の身辺の変化の報に接する。
時は流れる。
酒
(2007.09.21)
久々に外で酒を飲む。弱くなったなあ……
無許諾の音楽・映画 ネットで入手、自宅でも違法に
著作権ゴロの連中の脳味噌は完全に腐っているとしか思えない。 これを推し進めて行けば多分DRMのないデジタル音楽データとか映画データは所持自体が違法になるんだろうな。
そこまでしてコンテンツを押し売りしたいか? だったら若年層の可処分所得を食い潰している人材派遣業者=口入れ屋と法外な使用料金を強要している携帯電話キャリアもまとめて弾劾しろよ白痴。
発想そのものが余りにもバカすぎて突っ込みを入れる気も起きないのだが、コンテンツの健全な発展のためにはこういう旧世代の人間を粛正する方が圧倒的に利益になるだろう。リチャード・ストールマンがこいつらと近い世代というのが信じられないが、まあ能力もないくせに既得権益にしがみついて天下ラーを山ほど確保するのに汲々としているような彼らはとっとと死んでください。
スパム
(2007.09.20)
最近またスパムが増えている。Whoisしたら発信源はみんな中国。
tunnel-company.comへの中国台湾韓国ロシア及びはてなブックマークからのhttpでのアクセスは.htaccessで全て遮断しているのだけれど、メールサーバーも中国からのアクセスを完全にシャットアウトできるようにするいい方法はないものか。
だからさー
(2007.09.19)
MSOffice関連のサービスパックを当てる。
だからさー、バグフィックスを当てる度にデフォルトの日本語入力システムをMS-IMEにする悪癖は治らないものかね? こちとらATOK使ってるのですよ。 風の強い日は 風に吹かれて タンポポの種をとばそう 日差しの強い日は ひまわりのように 太陽をあびて進もう 花咲き乱れるまで あしたが見えるまで ずっと (田村直美「日差しの強い日はひまわりのように太陽をあびて進もう」)
懲りずに大物
(2007.09.18)
今度は『パサージュ論』に挑む。小休止も兼ねて軽いものでも読めばいいのだろうが、寝床では目下ルーゴン・マッカール叢書を読み進めているので、19世紀初頭に成立したパリのパサージュを基軸にしたベンヤミンのこの草稿集は都市と人間の有り様を考察する上で、もっと気楽に言えば現在のパリがパリとして成立してゆくその歴史性をより重層的に理解しつつ、西欧の街並みを散策する上での思索の手がかりを積み重ねていくことは、様々な意味で旅をすることの喜びを深めてくれるように思うのだ。
まあ、今度のは改行も多いし、5巻組なのでそんなに苦労はしない……と思いたい。
終わった
(2007.09.17)
とりあえずの本棚片付け完了。と言っても棚に無理矢理詰め込んだだけなので、本格的な片付けはこれから。 『失われた時を求めて』を読了したので、次は『パサージュ論』にとりかかる。今度は2ヶ月くらいで読了したい。
ここのところしばらく、メモをとりながら本を読むことをしていない。哲学関連の本は当然の如くメモをとりながら読まないと内容は把握できないので、この習慣を回復させることも急務だと思う。
つまらない目標に拘泥する余り、知的習慣の多くを疎かにしてきたように思う。それではまずい。
鉛筆
(2007.09.16)
近所のホームセンターへ行った。ガイドブックに印を付けるための付箋紙などを買いに。
とりあえず一通りの買い物を終えてレジへ向かうと、商品入れ替えに伴う投げ売り商品が積まれたワゴンが目に入った。版権ものの色鉛筆やら筆箱が積まれているのが遠目にも分かる。
キャラクター商売の末路に対する下世話な興味もあり、そのワゴンに近づいてみたところ、片隅に見慣れた鉛筆が積まれていた。三菱鉛筆の「ユニ」である。
筆圧がかなり高い私は、今でも勉強用には鉛筆を使う。シャープペンシルだと芯はおろかペン先までも数ヶ月で潰してしまう。そしてユニ鉛筆は小学生の時以来の付き合いだ。書き心地の良さは初めてこの鉛筆を使ったときから全く変わらない。
それが投げ売りされていた。私がガキの頃はシャープペンシルは「使うと字がヘタになる」と言われていたものだが、硬質芯がポピュラーなものとなった今ではそんなこともないのだろう。気づけば鉛筆を使う人間は周囲に誰もいなくなってしまった。時代の趨勢というのはこういうものなのだろう。
ワゴンに積まれていたユニ鉛筆は勿論全て買い占めて保護してきた。最近は書類書きには万年筆を使うケースが多く、鉛筆の使用機会も救いようのない怠惰ゆえやや減ってきたように思うが、これを機会にまた鉛筆を大いに使ってやろうと思う。
本が多すぎる
(2007.09.15)
片付け絶賛続行中。 しかし本が多すぎるな……本棚に詰め込んでも詰め込んでも本を積めた段ボールが減らない。いや勿論減ってるんですが、見かけの手応えに殆ど変化がない。一体どういう事だ?(答:本の買いすぎ)
色々と相談。
要望を集約しにくい場合――というのは多くの場合そうなのだが――に時間や経済性などの問題を勘案して最大公約数的な解を得る作業というのは実に骨の折れるものだ。特に、そこに自分の希望を適切に反映させたいという場合には、それをエゴとか自分勝手とか相手置き去りとかの不条理な批判や抵抗をある程度無視してやり過ごすことができなければ、そういう立場は勤まらないのだろう。
メンバー、あるいは相手がそのような環境におけるコンセンサスの困難をある程度了解しているのであれば、それはかなりスムーズに行く。だが、オルテガの例を引くまでもなく、こういうときに頑強に自らの要求を貫徹させようとするのは大概努力をせずに今まで自らの欲望を適当に充足させてきた連中だ。
努力を忌避し、自らの限界を直視することを怠ってきた人間の要求の台詞というのは往々にして醜悪である。それがさらに彼ら自体の価値を思いっきり押し下げているのだが、まあそういう人間には関わらないで生きられるようにしたい。
読了
(2007.09.14)
『失われた時を求めて』読了。2年ちょっと掛かって読み終えた。遅いといえば遅い。 しかしその分濃密で手応えのある作品だったと思う。特定の人物の展開が筋となる多くの長編小説(一応「私」にまつわる筋はあるにはあるのだが)とは全く異質なこの作品は、話者の意識に広がる広大な時空の分かちがたい豊かさの圧倒的な質そして量が、読む者に強烈な印象を与える。
物語の後半、自己の肉体の衰えを自覚することによって芽生える死に対する話者の考察は、物語全体が終末=形態としての死を迎える段階と歩を同じくしていて実にもの悲しい。それだけに、話者と読者が共に歩いてきたこの物語の時空の高みの何物にも代え難い価値が、読む者にも強烈な体験として刻印される。そして、恐らくはこれから私はマドレーヌを口にするときや、石畳で思わずコケてしまう時、この小説と共に過ごした時間と言葉の旅路のことを思い出すだろうと思う。その時、私が蹴躓く石畳はサン・マルコ寺院を思い出させるのではなく、プルーストのこの作品を読んだ時の印象を呼び覚ますだろう。そしてさらにはサン・マルコ寺院を仮に私が訪れる機会を持つことができるのならば、恐らくその大理石の床を見て私はこの本を読んだ時のことを思い出して時がサン・ジェルマンの路地から私に向かって延びている、無数の時のつながりのうちの一つを見出すことになるだろう。
素晴らしい本を読ませて貰ったように思う。
言語を学ぶ
(2007.09.13)
イタリア語の勉強をしている。
未知の言語が少しずつでも分かるようになっていくときの快感というのは何とも言えないものだ。全く知らなかったテラ・インコグニタが言語を通じて少しずつ親しみのある街角に変貌して再構築されていく過程の心が浮き立つ様は、語学を学ぶ上での楽しみの一つだろうと思う。無論、その先には無数の困難と意思疎通し得たときの無上の喜びが深い沼地のように横たわっているわけだが。
いずれにせよ、現代イタリア語は現代フランス語と古代ラテン語からの類推で大体の言葉の意味は理解することができる。ただ、規則変化動詞の活用や定冠詞の前置詞との縮合等々の個別の事柄についてはそれこそ気合いを入れて勉強する必要がある。
そんなわけで、今更ながらに勉強の楽しみを思い出していたりもする。
とったどー
(2007.09.12)
作戦始動。 とりあえず切符と宿は確保。列車とかは明日やろう。今日はもう疲れた。 おやすみなさい。
計画発動
(2007.09.11)
計画発動の見込が高まる。よかったよかった。 しかし費用の試算をしてみたところ壮絶な金額になったので、これからはケチケチ生活が決まりそうだ。
それでも11月にはD300を買うわけですが、何か間違ってますかね?
ぐあー
(2007.09.10)
3ヶ月以上先だというのに予約が一杯だぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!!!!!
悪戦苦闘。さあどうする。
If we get the trancient facts, then we feel the INFO-HIGH.
(2007.09.09)
クリプトン社から発売されているVocaloid2 初音ミクの歌を聴く。凄い。滑舌がよすぎるのでポルタメントをかけると何とも摩訶不思議なロボット歌謡な印象はぬぐえないが、PerfumeのようなテクノポップとかI'veのようなトランス風味ユーロダンスを歌わせると、音程と音価が正確な分だけ下手な人間よりもずっとうまいのが恐ろしい。例えば3オクターブくらい(聴き取りレベル)の音域を要求される「鳥の詩」でもあまり破綻なく歌えているあたりが、ニッポンの技術万歳という感じだ。
だが、ここから翻って言えるのは、音程や音価すらまともに守って歌っていないような自称アーティストの歌のようなものを我々は毎日耳に注ぎ込まれていると言うことではないか。無論テンポの中で微妙にルバートしたり1/16程度の音程の揺らぎを与えて立体感を与えることは許容するとしてもだ。
結局、「音楽文化」とか「アーティスト」とか結構なゴタクを並べようとも、その実質はジャンクフードの如き、音楽としての基本すらまともに守れていないようなゴミが実は我々が聞かされているものの正体だったというわけだ。
暑いよ
(2007.09.08)
台風一過でフェーン現象なり。暑い。
片付けは相変わらず続いているわけで、今日はPCにさらに配線を行ってグチャグチャぶりに拍車がかかりました。そういえばPCのスペックもだいぶ変わったので、サイトのデータも改訂しておかないとなあ。片付けが済んだら写真撮って改訂しよう。
それはそうと、年末へ向けて「バルトルディ作戦」(仮称)を発動することが決まりそうな気配。 買ってきた本を色々と活用するべく、片付けよう。
作戦の概要はまた今度。
ああ、疲れた
(2007.09.07)
一週間終わり〜。
私は普段遣いの時計としてはシチズンのExceed EBB74-0761という懐中時計を使っているのだが、チェーンが切れてしまったので今日交換してきた。汗かきなので、腕時計はついつい外してしまって紛失することが結構多かったので、4年ほど前から懐中時計を使っている。今のは2代目。白蝶貝の文字盤と細身のローマ数字に惹かれて購入したものだ。
懐中時計は腕時計に比べさほど売れるものではないせいか、取り扱っている店も少なく、せいぜい1〜2万円程度の安価で壊れやすい(竜頭がすぐダメになる)ものが主流で、いい品に巡り会うことはなかなか難しい。そりゃ銀座とかの専門店に行けばあるのだろうが、ヘタレな私には敷居がチョモランマ並みに高い。
でもカタログを色々見てると、確かにロンジンとかウォルサムの懐中時計はいいデザインだなー、と思う。値段もそれなりにするものばかりで、今の私の給料ではとても手の届かないような品ばかりだけれど。資本主義というのは悲しいものだとつくづく思う。
絶賛片付け続行中
(2007.09.06)
片付け続行中。テレビ周りの配線に相変わらず悪戦苦闘。もう各種端子の取り回しならメシの種になるくらい経験値が溜まりましたよメーン(;´Д`)
今回の配置ではPCとホームシアターシステムをかなり離す格好になるので、オンキヨーのGX-77Mを買ってきてデジタル接続にてセットアップ。エイジングとテストをやっている最中だが、確かに評判通りのヌケがよく、定位感のある音質。こんなものが2万円で買えるとはいい時代になったものだと思う。
で、テストがてらモーツァルトのヴァイオリン協奏曲第5番(グリュミオー盤)を聴く。艶やかで清冽なグリュミオーの音色がこの曲にはよく映える。いや、オイストラフ盤みたいなパワーのある演奏も第一楽章の絢爛豪華で自信に満ち溢れた旋律にはバッチリなんですが。
20番台のピアノ協奏曲にしてもそうだが、モーツァルトの協奏曲群は時折、それが人間の手になる作品であるとは全く思えなくなってしまう瞬間がある。この協奏曲にしてもそうで、第一楽章の独奏ヴァイオリンによる主題の変奏は、奏でられる全ての音符に聴く者を硬直させるだけの圧倒的な完全性がある。全ての音符が、有史以来の必然によってそのような鳴り方をすることを運命づけられていたかのように、聴く者を魅惑すると同時にその完璧さによって私達を恐怖させるように思う。
そういう意味では、「トルコ風」は――他の作品にしてもそうなのだが――美しいのではない。単なる美醜の範疇を超えている。神的な水準までに飛翔する圧倒的に軽やかな力が、地にはいずり回る私の精神の悲惨を嘲笑する。
人間とは何なのか。ありふれた、けれども考えに尽きせぬ問いが頭をよぎる。
戻ってきました
(2007.09.05)
というわけで引越地獄が一段落し、無事戻って参りました。
まだまだまだまだ片付け作業の修羅場はつづくのですが、とりあえず寝起きする環境は構築できました。 約1週間、ソファの上での寝起きはそれなりに疲れるものではございますよ、ええ。
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