2007年03月
間違った世界に住む者  (2007.03.26)

自分の過ち、特に倫理的な次元での自分の間違いを認めるのは大変難しいことは重々理解してはいるつもりですが、それでも自分の立場が正しいと信じて疑わない人々と接しなければいけないというのは私にとっては途方もない苦痛です。
出自やその他諸々の問題もあって、私は自分が存在していることそれ自体が間違いだという考えをこの二十年間以上、捨て去ることができないでいます。自分は正しいという確信に満ち溢れた人と話し合いをしなければならない時、特に様々な必要性からこちらの立場を主張しなければならない時、最早それは苦痛を通り越してある種の拷問です。そういう人たちを説得することは元来不可能だと、彼らの表情を見た――あるいは声を聞く――だけで、全面的な無力感と絶望感と徒労感が泥のように意志そのものを縛り上げて動けなくしているのを強く強く感じるのです。

何故そのような人と関わらなければいけないのですか。私はただ静かに本を読んだり、好きな音楽を聴いて思索に耽ったりしていたいのです。そのような人とコミュニケーションなどそもそもが必要ないのです。彼らにしてもそれは然りで、彼らの行為の目標はすべて自らの正しさの王国の下に、私のような怯懦な民を組み敷くことでしかないではありませんか。彼らは何故、自分が間違っているという意識を持たざるを得ない人々について、その可能性のままに目を閉じることができないのでしょうか。

何もかもが厭になりつつあります。


もうね  (2007.03.25)

自分が正しいと思っている人間と接していると、途方もなく疲弊します。

そういう態度に近づくだけでもう例えがたい厭世感に襲われます。

率直に言って、500年くらい冬眠したいです。


断ち切られた歌  (2007.03.23)



今プライムタイムにテレビを付けると、スケートやらシンクロナイズドスイミングをやっているようです。大相撲も含めてスポーツ全般への興味が最近は徹底的にゼロに近づいているので、テレビの前に座ってキャーキャー言いながら見ようという気も全然ないんですが、何かの拍子にテレビを付けっぱなしにしていると見るともなしに見てしまうことがあります。

で、特にフィギュアスケートではクラシックが使われているわけですよ選曲に。ボーカル曲が禁止されているからというのもありますが。ありがちなのはラフマニノフのピアノ協奏曲第2番だったりしますが、ニュースを見てるとカルメン組曲とかサン=サーンスの序奏とロンド・カプリチオーソなんかもたまにあるようです。あ、「誰も寝てはならぬ」もありますか。

で、映像というか誰が演じているかなんてことには全く興味のない私はついつい曲の方に注意が行ってしまう訳です。これは飯を食いに行ってレストランで流れているBGMでもそうだし、リラクゼーションマッサージを受けたときもモーツァルトのピアノ協奏曲第21番が流れていて全然リラックスできなかったということもあったりします。

そりゃスケートリンクとかプールの劣悪な音響環境で流される音楽ですから、品質という点ではガタガタかもしれません。けれども、それはそれで自分の記憶にストックされている旋律を補うことで何とかなるものです。目の前で「合唱つき」の第4楽章を歌っているのが例えばジャイアンであろうと、頭の中に鳴り渡るに十分なメロディが蓄積されていれば、慣れ親しんだ曲であれば実は大した問題ではないのかもしれません。

むしろ、問題はそういうアコースティックな環境が悲惨であることに存してはいないのです。記憶の中の旋律を取り出して、耳に流れてくる音楽を辿ろうとすると、殆どの場合それらの曲はバッサリと切られていきなりのサビにワープしたりします。例えば先に挙げたラフマニノフのピアノ協奏曲第2番の場合、第一楽章の第二主題が導入されたらいきなり第二楽章とか第三楽章の聞かせどころにワープしてしまうなどということがよくあるわけです。序奏とロンド・カプリチオーソではロンド部のソロが終わってトゥッティが入るあたりでいきなりフィナーレ直前のアルペジオに飛んだり、もうやりたい放題です。演技時間の規定があるから、というのはあるにせよ。

こういう風に切り刻まれて編集された曲を聴くことは、正直私には耐え難いもののように思われます。無論私だってマーラーの交響曲第五番の第四楽章(=いわゆるアダージェット)だけ聞くとか通勤中には特にそういうことはやりますが、それでも旋律を切り貼りして別物を編集するなんとことはやりません。完成された作品はあくまで第三者の勝手な介入を許すべきではないと考えるからですし、またそういう風に編集された代物は音楽を聴くという行為を完全に蹂躙するもののようにしか思えません。

多くの人にとっては確かに主は目の前の選手であり、音楽は従、つまりその添え物でしかありません。けれども、そういう音楽のバラバラ死体をでっち上げてしまうような競技自体を私は無条件に憎悪しますし、そういう問題意識を単なる現実問題がゆえに片付けてしまうような感覚の持ち主とは、恐らく私は一生話し合うことはないと思います。


お礼は5行以上、いやむしろ3MB以上な  (2007.03.22)

メインマシンが自作PCであったりするため、どうもPCに詳しい人間だと思われているらしい。実際の所PerlもRubyもVB.netもまるで分からないし、セキュアドの過去問をやってみたら50%くらいしか取れなかったので「詳しい」とは到底言えないのだが、それでも極めてライトなユーザーからのソフト選びや設定に関する質問を受けることは少なくない。まあそれは仕方のないことだと考えることにしよう。

問題はその後だ。こちらなりに色々時間を割いてアドバイスをしても、「分からないから詳しく教えろ」以外のケースで返事が来ることはまずない。事後の状況については知らせて貰わないと教えた側としてはそれなりに不安だし、もし解決したのならお礼の一言でも言って欲しいと思うのが人情ではなかろうか。少なくとも私は聖人君子ではないので、ヘルプをしたのならそれなりのお礼あるいはそれに類する態度を求めたいと思う。私に限らずこういうケースにおいては教える側は普通は善意でやっているわけで、その善意を当然のものとして無みするのであればそもそもが対価を払えということになろう。少なくともメーカーやパソコン教室は懇切丁寧なアドバイスを与える代わりに料金を取っている。それと同等の「サービス」をしかもタダで期待する、というのは貧乏ワレザーと同じではないか。

そういうことがあまりにも最近は多くなったので、この手の質問に対しては私はアドバイスをすることを一切やめようかと思う。色々知りたければ「教えて!goo」とか大手小町にでも書き込んで訊けばいいだろう。お礼を言う能力すらない人間の相手をするのはもう疲れた。

これを読んでいて身に覚えのある人、私はあなたのことを言っているのですよ。


賛成して反対することにした  (2007.03.15)

著作権保護期間の延長を行わないよう求める請願署名に賛成することにした。

理由は以下の通りである。

1. 著作権に関する利益を、原著作者以外に無際限に拡大することは文化産業関係者以外の利益にはならない。
2. 本質的には著作権の概念は創造的営為の発意を妨げるものである。

著作権の概念がなかった時代、確かに芸術家の貧困は想像を超えたものであった。クラシック音楽の世界で教科書に名前が出てくるような人々のうち、リヒャルト・シュトラウス以降の作曲家を除けば物質的に安定した生活を送れたものは特に18世紀以降ごくわずかである。大半の作曲家は赤貧洗うが如き生活を強いられ、そのうちの何人かは乞食同然の状況で死んでいった。文学の世界でも話は同様で、文学史に名前が出てくるような有名な作家で生活に困らなかったのはせいぜいプルースト(親族の遺産で一生遊んで暮らせるくらいの金があった)くらいである。自力で成功して自宅に専用の麻雀部屋をこさえたりできるような作家などまずいなかった。

そういう意味では著作権の概念は創作者の生活を保護しうるわけだから必要ではある。けれども、今日のように文化産業そのものが文化を圧制の下に組み敷き、商業的利益の至高性が創作活動の自由を暗黙のうちに圧殺している状況においては、著作権の無意味な拡大解釈は不労所得に依存する連中の怠慢と、それにまつわる利権構造の温存を放置するだけである。

むしろ文化的なものは、本質的には他者の模倣をその出発点とする。「学ぶ」の語源が「真似ぶ」であるというのは誰でも聞いたことがあるはずだ。現在の漫画作家の多くが実はアニパロ等と称される2次創作系同人誌出身であることはよく知られているが、このようにして模倣を反復することでのみ習得される創作の作法は実に多い。そうした可能性の芽を根こそぎ焼き尽くしてしまおうとする文化産業のシャイロック達の横暴は、もはや文化そのものを抹殺する反動としての機能しかないのではないかと私は考える。

著作権は本来、著作者の生存権を確保するためのものである。それに寄生する連中や天下りの連中を養うために存在しているのではないという点は、常に認識して然るべきだろう。


時々思う  (2007.03.09)

寝る前にいつも思う
このまま朝が来なければいいと
このまま目が覚めなければいいと


消費が思想を持っていた時代  (2007.03.07)

仏を代表する思想家、ジャン・ボードリヤール氏死去(Asahi.com)

ジャン・ボードリヤールが亡くなった。

彼の著作に触れたのは高校1〜2年生くらいの時だったように思う。ロラン・バルトの『神話作用』にエラい感銘を受けた私は、何を血迷ったか結構な金額をはたいて『消費社会の構造と神話』を購入し2ヶ月くらいかけて読んだ。
勿論、今となっては彼の消費社会論は極めて当たり前のものだし、ヴェブレンの衒示的消費論の演繹といった風情がないわけではないようにも感じるが、それでも高校生当時、しかもバブルまっただ中の時代を生きていた当時の自分にとっては、非常に刺激的な内容であったことを覚えている。その後に大塚英志の『物語消費論』を読んだら異様に物足りなかったのはここだけの話だ。

大学に入ってからもフランス語の自由選択講座で『アメリカ』を読んだりしたこともあって、彼の著作はそれなりに色々読んだように思う。そして印象的だったのは、記号の交換可能性によってフラット化した世界には、極めて異質かつカタストロフ的な他者が現れ、そのシステムを嘲笑するかのように侵蝕するという、『透き通った悪』に見られる彼の思想だった。今思えば極めてそれは示唆的であった。

色々思想遍歴を経て私自身は彼の著作を読むことはほとんどなくなっていたが(ウィリアム・ボガード『監視ゲーム』の邦訳の手伝いをするときに少し読み返したけど)、こうして彼の訃報に接すると、やはり寂しさはぬぐいきれないものがある。

思えばあの時代、消費を語ることはそれ自体として思想のトーンを帯びることが許されていた。思想のトーンを帯びるとはとりもなおさず批判的アプローチを伴いつつ、その対象を解体していく営みのことだ。ボードリヤールのシニカルな消費社会論は、それ自体を消費される事態として俎上に載せるとき、少なくともあの時代には思想が消費されうる存在であったという、知性の最後の残光と光芒が垣間見えるようにも思えるのだ。


今、思想は消費すらされず、ただ黙ってその死を待っている。もしかすると、思想、あるいは考えることそのものが、もはや死に絶えてしまったのかもしれない。

ボードリヤール氏の冥福を祈りたい。


ひどい仕事に泣いたとしても夜はギコギコネット漬け  (2007.03.06)

ストレスが限界を超えたので今日は有休を取って一日寝てました。
当方も人間なので我慢できないことは多々あります。

仕事柄、私はアンケートのチェックなどを行うことが間々ある。アンケートの回答内容がちゃんとデタラメでないかを調べていくという極めて地味な作業ではあるのだが、グチャグチャなのをそのままにしたらとんでもないことになるので、メイキングにならないように注意しつつ妙ちきりんな回答を弾いていく作業を行うわけだ。

ところがまあトンでもない回答が頻出すること夥しい。使用している器具の合計本数を回答するのに、個々の値(しかも項目数は3つ程度)と総和を平気で間違うなんていうのは基本中の基本。「一つだけ答えてください」と書いてあるのに複数の項目を回答するのも殆どお約束。ひどいのになると選択肢を完全に無視して思いの丈をガンガンと書き殴る御仁もいる。自由回答も漢字の間違いは当たり前で、「意外」を「以外」と書くのは最早食傷気味のレベルに入る(オンラインアンケートなら誤変換の可能性もあるので仕方ないが、自記入式でもそんなのはよくある)。
そういうのに胃を痛めながら一つ一つ整理していくことでようやく品質管理というのは賄いうる訳なのだが、そういうリテラシーというか人の話をまるっきり聞く意思がない、あるいは聞き終わる前に自分の主張をガンガンと、しかも修辞や表記が破綻した日本語(といえないものも多い)でやられる現状を目にすると、学力低下なんていうのは別に最近の話題でも何でもなくて、大昔から大多数の人々というのはその程度の水準で生きてきたのだということに気づかざるを得ない。また、『水は答えを知っている』(http://www.hado.com/books/kotae.htm)なんていう馬鹿丸出しの本にもアマゾンでも肯定的な評価がついていたり、根拠が全くない、そもそも蓋然性が完全に否定されている血液型占いを信じて性格判断をする蒙昧の輩なんかも世代を超えていくらでもいるわけで、詰まるところ我々はみんなバカなんであって、若い世代が云々というのは自分の愚かさから逃避するためだけの言い訳に過ぎないんじゃないかと、ラ・ロシュフーコーを再読中の私は思うのでした。


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