2006年10月
偉大なる指導者は聡明な思索に耽りながら  (2006.10.28)

東京文化会館に「反形式主義的ラヨーク」によるモノ・オペラを聴きに行った。
ショスタコーヴィチの『反形式主義的ラヨーク』はタコ好きでなくとも一度はタイトルを耳にしたことがあるかもしれない、でも演奏機会は激レアでCD化されている音源の入手は困難を極めるという、所謂マニア向けの幻の作品だったりするのですが、こんな曲の演奏会があるなんて長生きはするものです。12月には上映形式であるとはいえリゲティの『100台のメトロノームによるポエム・サンフォニック』も聴けるようで、他にもシェーンベルクの『ナポレオンへの頌歌』の演奏会もあったり、実にハラショーでございます。

さて、演奏会の中身ですが、非常に楽しい演奏会でありました。曲自体が有り体に言えば「ロシアのアカはバカばかり」という感じでスターリンやジダーノフやシェピーロフの無教養な田吾作ぶりを揶揄&風刺しまくる作品なので当たり前といえば当たり前なのですが、特にシェピーロフがベロベロに酔っぱらってリムスキー=コルサコフの読み方を間違えるあたりは痛快としか言い様がなく、日本語ナレーションをやっていた林統子氏のへべれけ芝居も相まって実に楽しかった。

で、『反形式主義的ラヨーク』は1時間弱の作品なので時間が余りまくり、アンコールで岩本氏は5曲(位)歌いまくり、最後は全員で『カチューシャ』合唱という、うたごえ喫茶なんだかよく分からない展開。どうもこのコンサートは年に1回のペースでかれこれ20年くらい続けているようで、そのせいもあって客席には頭に白いものが目立つ方が多かったような印象があった。『反形式主義的ラヨーク』はタコスキーには垂涎の一曲なんだからもっと若い連中も聴きにこいってば!

そんなわけで、スコアも買ってきたです。親切なことにスコアの歌詞にはカタカナでのフリガナが振ってあるので、♪フロイデシェーネルグェッターフィンケン トッホターアウスエリージォウム……とキリル文字の読めない私にでも歌えてしまうわけです。ハラショー。


ドミトリーのために  (2006.10.16)



今年生誕100年のショスタコーヴィチの取り上げ方が余りにも寂しいので、作ってみました。

一応フォローしておきますが、ショスタコーヴィチは20世紀最高の作曲家の一人です。ピアノ五重奏とか弦楽四重奏曲集とか交響曲とか2つのヴァイオリン協奏曲は大傑作です。スターリン勲章ももらってます。通勤時にはよく聴いてます。


手紙が来た  (2006.10.11)

高校1年以来、ホームステイ先の家族とは長いつきあいを続けている。彼らが私の人生をどう変えてくれたかについての説明はここでは省く。

で、今でも年に2回は必ず手紙のやりとりをしているのだが、昨年以来どうも旦那さんの具合が悪いようだ。
栓抜きなしでも瓶ビールの栓を豪快に捻り開けるほどのパワーの持ち主だった彼だが、齢80を目の前にして病を得てしまっているようだ。

人はいつか歳をとり、衰えてゆく。そうした当たり前の事実が親しい人の上に容赦なく襲いかかる――容易には見舞いに行けない距離であるから尚更――のを知るのは、分かっているとしてもやはり辛い。


アをバに変えろ  (2006.10.07)

ホビージャパン担当者のアキバブログの記事

「アカ」が共産主義者や共産党員を指し示す差別用語であることはある程度の年齢の人間ならよく知っていて然るべきだが、広報的性質の強い件のエントリーでこういう思想差別用語にお目にかかれるとは思ってもいなかった。

しかもだ。別に夏休みが貰えずそれを要求することは別に労働争議でも何でもなく、単なる一労働者の希望でしかない。「だからストすっかね」と言えばそれは労働争議のニオイもしようというものだが、差別用語を使うことが広報活動にどれほど不利になるのかを想像したことがないのだろうか。

勿論、差別用語を使うことがユーモアの一種だと考えることは、それだけ取り上げて考えるならば単なる個人の愚昧さで完結する問題に過ぎない。だが、それが組織のメッセージとして発信されるのであれば、それはかくの如き愚昧さを修正できないという組織そのものの体質あるいは知的水準の低さを示すことになってしまう。ホビージャパンの中の人は、その辺についてもう一度勉強し直した方がいい。


見えざるものの彼方へと緩やかに漂っていくこと  (2006.10.05)

今年もCEATECの季節がやってきた。現在抱えている仕事がある程度片付いたら、金曜日にでも行ってくる予定。

メディアの、特に映像記録メディアの変化が激しいのに驚く。CDは登場してから25年くらい経っていて今なお現役であるのに、DVDは登場から10年も経っていないのに(規格策定から10年経ってはいる)、もう次世代メディア次世代メディアと喧しい。フルHD環境が滅茶苦茶な速度で拡大していることやDVDの暗号システムがあっさり破られてしまったことも背景にはあるのだろうが、製品ライフサイクルがこうも短いと、最早何が何だかよく分からないというのが正直なところだ。電器屋さんの店頭では頭に白いものが混じったヘルパー氏がよく説明をしてくれるが、DLNAやらYUV444とか出てくるとマニュアルなしにはとてもではないが説明できない。末端ユーザーにそんなの分かるか?

ブルーレイやHDDVDで記録された映像をフルHDのモニターで見ると、確かに美しい。SEDのデモンストレーション映像は、確かに絶句するほど素晴らしい。だがその一方で、そこまでの情報量を詰め込んだコンテンツを一体誰が作るのかという疑念が頭をよぎる。また、そこまでの映像を見ることに意味があるのかという疑問も同時に沸々と沸き起こる。多分、香り立つ美しさについては、SEDやらスーパーハイビジョンを何台持ってこようが、恐らくあなたや私の脳内の妄想の方が遙かに上だからだ。しかも電気代がかからない。

つまりだ。映像の美しさがただ闇雲なスペックの直線的進化の延長線上に構想されるものであるとするならば、その進化はR.バルトが洗剤の広告について揶揄したように、意味を持つに値するものではないと私は思う。むしろ、人間の想像力を軽やかに飛翔させるような、開かれていると同時に濃密な意味の体験への扉を開く契機こそ、私達は愛するべきではないのか。

にもかかわらず、単なる外的印象の美しさの押し売りだけが至上命題として続くのであれば、それは結果として私達の想像力の場所を客観性の暴力で蹂躙することになるだろう。それなりに(表層的であるにせよ)美しいものがカウチに座っているだけで手に入るのであれば、わざわざ活字等に耽溺して脳内にトリスタン和音を垂れ流して法悦に浸ることは商品経済の観点からは非合理的きわまりなく、そんなものはリストラしてとっととパッケージメディアを買え、となるからだ。そしてそのパッケージメディアを作ることができるのは極めてシステマティックな制作システムを完備した、官僚機構の如きコングロマリットのみである。作り手の顔はどこにも見えない。美しい映像と豪華な音響があなたの前にさあどうぞと差し出されるだけだ。

だがそれは違うと思う。かつて「魔法の笛と銀の鈴」でしのぶさんが言っていたように、作品と対話しようとしないものには真の(真の、という言葉を乱発するのは独断の謗りを逃れないとは思うが)超越的経験は訪れない。そしてそのような経験こそが独我論の罠に、もっと卑俗化して言えば他者を単なるモノのように見なしてしまう愚昧に陥ることを押しとどめてくれる、想像力が持つ飛翔の力を養ってくれるのだと私は信じる。そういう意味では、映像文化――それは文化ではなく、今となってはただの「映像技術の押し売り」としか映らないが――の現在の展開には、深い絶望と危惧を、悲嘆と共に抱かずにはいられない。


立て祖国の子らよ 栄光の日は至れり  (2006.10.03)

AERAの今週号に、語学教育の特集の記事があり、小生の母校も取りあげられていたので買ってみた。まー表層的きわまりない特集なんでこんな記事に360円払った自分を呪いたくなったのはさておくとして。

私が卒業したかの学校では、フランス語を第一外国語として選択でき、確かに上位クラスの連中は卒業する頃にはフランス語はまあまあ流暢に話せたと記憶している。少なくとも私が卒業した年次の仏語選択者の上位クラスの連中はセンター試験やら某上智大の特別外国語試験(かのソフィア大は英語以外の外国語で受験する場合は別日程で全学部統一の外国語試験があった。今はどうなったかは知らない)なんかは手応えをフランス語で話したりといったかなり嫌味なことをやっていた。あと、飲み会の時や街中を歩いていて「あのバカくたばれ」といった汚い罵り言葉を口にする場合もフランス語に切り替えて、というのはよくやっていたし、今でも時折やっている。

また、言うまでもなく大学ではどえらく英語で苦労させられたのだが、英語の文法そのものは仏語に比べて相当に平易であるため、発音規則の支離滅裂さを別にすればフランス語既習者にとって英語の習得はそれほど難しいものではない。そんなわけで同期の仏語選択者には英仏はほぼ自由に扱える連中が多い。大学で知り合った獨協出身の知人も似たようなことを言っていたような記憶がある。

だが、少なくともかの学校では、英語選択者の状況は全く異なったものであった。一応言い訳程度に第二外国語としてフランス語も勉強することは勉強するが、そもそも実社会では何の役にも立たない時代遅れの教養主義の遺物と了解されているフランス語である。誰も真面目に学ぶ者などいないし、卒業した途端にあらかたその種の知識は制服と一緒にゴミ箱行きである。もしも、第二外国語としてフランス語やドイツ語を中学や高校で勉強した、あるいはそういう人間が周囲にいるなら、êtreやavoir、あるいはseinやhabenといった極めて基礎的な動詞の活用すらまともにできるのか確認してみるといい。

極めて多くのケースにおいて、第二外国語の学習というのは所詮その程度のものなのだ。英語のヘゲモニーに安住する教員がいくら「第二外国語の学習は視野の拡大に有効だ」と抜かしたところで、そんなものは詭弁でしか無く、言語と身体の関係を無視したフヌケた戯言の水準を出ない。もしも英語を通時的に見たかったら別にフランス語なんかやらずにロマンス言語学の基礎でも勉強したほうがよっぽど有益だろう。新たな言語を習得するということは、全く違った思考方法、そして身体を手に入れるということなのだ。それは視野の拡大という陳腐な認識植民地主義とは根本的に質が異なる。

話を戻すと、そんな事情もあり、かの学校での英語選択者の友人達のフランス語に対する理解のダメさは悲惨以外の何物でもなかった。また、かと言って英語がバリバリ話せるのは上位クラスの連中でもごく少数に限られていたわけで、進学実績は必死こいて何とか維持していたとしても、ことペルソナを纏ったコミュニケーションの技術としての外国語の教育としては、かの学校の英語教育の内実には今以て尚強い疑義を呈さざるを得ないというのが偽らざる所だ。第二外国語でフランス語をやってますよ、というのは単なる営業上のトークでしかなく、そんなデコイに騙されるようなバカな親しか件の学校には早晩寄りつかなくなるかもね、と私は思う。

まあ、英語を一生懸命勉強したいなら渋幕とかもっと優れたノウハウを持ってる学校があると思うので、そっち行った方がいいですよ。共学だし。


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