2006年09月
コストダウンのなれの果て  (2006.09.30)

ソニー電池回収のお知らせ

DELL製のノートPCが盛大に燃え上がる動画はネット方面で有名(≒テレビでは全然見かけない)だが、いわゆる「ソニータイマー」の話を知っているのならば、ああ、当たり前だなと思う要素がないではない。私個人も知人のVAIO(ノート)を2桁のオーダーで修理しているので、件の会社のノートPCの故障の多さとHDDを交換するためだけに10箇所以上ネジを外さないといけない、等のメンテナンス性の低さには程々呆れているのだが、今回の問題はそれとは別の、某トヨタのリコール頻発に通じるところがあるように思う。

DELLのノートPCは滅茶苦茶廉価なのは有名だが、実際個別にコストを積み上げていくとどうやっても販売価格を上回る。まあ自作PCがメーカー製PCより高く付くのは今や当たり前の話なのでそれはそれで仕方ないのかもしれないが、このような異様な低価格は当然の如く製造コストの徹底的な削減の上に成立する。そしてアルミニウムや銅や鉄等固定コストの国際相場がここ数年で高騰している以上、狙い撃ちにされるのは必然的に人件費になる。星野金属工業が潰れてしまったのも、正社員比率の高い同社ではアルミニウムの価格高騰を人件費の圧縮という形で凌げなかったからだ。そしてここ数年過去最高の利益水準に達している各大手企業では技術職や技能職といった工場での現場で品質管理を担う正社員を次々に派遣社員や期間工に置き換えていくことで人件費をガリガリと削っていった。おまけに偽装請負もやれば社会保障費も圧縮できるし、全くそれは経営判断としては正しい。某クリスタルヴァレーの労働者は大半が派遣社員だったり尼崎の某工場の労働者は社会保険が全く支払われていなかったり、大分でレンズ磨きに勤しむ労働者の月給手取りが10万円に満たないのはそのためだ。そしてIT技術の進歩による作業過程の徹底的な標準化はそのような労働賃金の固定化に大いに貢献した。即ち、作業指示が日本とマレーシアで共通化できるのなら、日本の労働者の賃金コストもマレーシア並みで結構ということだ。

だが、そんなことをやってれば究極的な品質管理に無理が出てくるのは避けられない。パイロットラインで生産して問題がなければ大量生産レッツゴーとなるわけで、せいぜい1000〜5000個(台)くらいしか生産しない試作ラインでは「対象電池セルの一部に微細な金属粒子が入った場合、電池セル内の他部品と接触し、稀にではありますが、電池セル内部で短絡(ショート)を起こす可能性があります。」(ソニープレスリリースより)なんてものは出現率0.01%だとしたら当然無視されてしまう。本来ならばそれを補うのは他ならぬ経験を積み熟練した工場の正社員なのだが、そんなのはコスト削減の大号令の下とっくに首を切られている、あるいは根拠を示せとつるし上げを食らって、さもなくば「コストが下がるからいいや」と自分に嘘をついてやりすごしてしまう。

結果、定期的にハザードに近い今回のようなケースが繰り返されることになる。どうも色々計算してみると今回の件でソニーが被る損害は1000億円くらいなので、BRAVIAで稼ぎ出した利益がゴッソリ消滅することになるようで欣快を叫ばずにはいられないのだが、コスト削減の美名の元に工場労働者の立場と賃金を引き下げに引き下げすぎた状態が続くようであれば、このような混乱はいくらでも起こりうるだろうし、また利潤追求のためにこのような非人間的手段を平然と採用する経営者はマネジメントから見ればは確かに優秀かもしれないが、人間と呼ばれるべきではない。なぜならそういう思考方法こそが現実に貧困層の大量生産の原因になっているからだ。口では「社会に貢献する」とか大層ご立派なことを唱えながら、その靴で人間の尊厳を踏みにじっているような連中はその本質において、人間以下の存在であり、金銭の奴隷である。


話にならん  (2006.09.24)

Mixiにて、国旗国歌掲揚&斉唱訴訟の違憲判決に対する反発の数々を目にし、あまりの水準の低さに愕然とする。本訴訟の争点が業務命令の合憲性、即ち良心の自由を侵害する形での命令の強制が妥当かという純憲法論的な内容で争われているにもかかわらず、「日の丸君が代が嫌いな奴は朝鮮中国に出て行け」だの、「アメリカの学校では毎日国旗掲揚してますよ?」、あるいは「式典なんだから場の空気読めよ」だの「国旗国歌に対する敬意を教えることは指導要領に盛り込まれてるんだからそれ守れよバカチン」といった感情的であまりのクルクルパーぶりに口あんぐりな言辞のオンパレードで、全く以て議論以前の問題であり、一つ一つに丁寧に反論というか愚かさ加減を訂正してやる気にもならない。アンブローズ・ビアスは「愛国心」について、「自らの名声を輝かせたいという野望を持つ者の火種となる燃えやすいゴミ。」あるいは「ならず者の最初の拠りどころ」と定義しているが、この種のならず者は日本海の対岸の某国の大統領様の愛国者ぶりを他山の石として捉えた方がいいだろうと思う。あんな連中と同水準に身を落としたいなら悪いことは言わないから今すぐ青瓦台に行けばいい。止めないよ。

そんなこんなで、CGMとかWeb2.0なんて屑だよ屑、と思う日々なのです。
最後にニーチェを引用。

「国家とは、すべての冷ややかな怪物たちのなかで、最も冷ややかな怪物のことだ。じじつまた、それは冷ややかに嘘をつく。そして、次のような嘘が、その口からひそかにもれる。「われ、国家は、民族なり。」
それは嘘だ! 民族を創造し、民族の頭上に一つの信仰と一つの愛とを掲げたのは、創造者たちであった。このようにして、彼らは生に奉仕したのだ。
多数者のためにわなを仕掛け、このわなを国家と称するのは、破壊者たちである。彼らは多数者の頭上に一つの剣と百の欲望とを掲げるのだ。
今なお民族が存在するところでは、民族は国家を理解せず、国家を毒々しいまなざしとして憎み、また、もろもろの慣習や法に対する罪として憎む。
民族の徴表として、わたしは次のことをきみたちに述べておく。それぞれの民族は、善悪についての、みずからの言語を語る。この言語は隣の民族には理解されないのだ。それぞれの民族は、もろもろの慣習や法というかたちで、みずからのためにその言語を考案した。
だが国家は、善悪についてのあらゆる言語を用いて、嘘をつく。そして、何を話そうとも、国家は嘘をつく――また何を所有していようとも、国家はそれを盗んだのだ。
国家に付随する一切のものは、まやかしである。国家は、このかみつく癖のあるものは、盗んだ歯でかみつくのだ。国家の内臓ですらまやかしである。
善悪についての言語が混乱していること、この徴表を、わたしはきみたちに、国家の徴表として述べておく。まことに、この徴表は死への意志を暗示しているのだ! まことに、この徴表は死を説教する者たちに合図を送っているのだ!
あまりに多数すぎる者たちが生まれる。この余計者たちのために国家は考案されたのだ!
さあ見よ、国家が、彼ら、あまりに多数すぎる者たちを、みずからのほうへおびき寄せる有り様を! 国家が彼らを呑みこみ、かみくだき、反芻する有り様を!
「地上にわれより大いなるものなし。われは神の秩序づける指なり」――そのように、この怪獣はほえる。すると、意気沮喪して屈服するのは、耳の長い者たちや近眼の者たちだけではないのだ!
ああ、きみら大いなる魂の持ち主たちよ、きみたちの耳にも国家はその陰気な嘘をささやくのだ! ああ、国家は、好んでみずからを浪費する豊かな心の持ち主たちを察知するのだ!
そうだ、きみら古い神の征服者たちよ、国家はきみたちをも察知するのだ! きみたちは戦いに疲れた、そして今や、きみたちの疲労がまたもや新しい偶像を崇拝するのだ!
国家は、英雄たちや尊敬すべき者たちを、みずからのまわりに配置したがるのだ、この新しい偶像は! 国家は、もろもろの満足せる良心の日光にひたることを好むのだ、――この冷ややかな怪獣は!
きみたちが国家を崇拝するなら、それはきみたちにすべてを与えようとする、この新しい偶像は。こうして国家は、きみたちの徳の輝きと、きみたちの誇らかな目の光とを買収するのだ。
国家は、きみたちを餌にして、あまりに多数すぎる者たちをおびき寄せようとするのだ! そうだ、ここに地獄の手品が考案されたのだ、神々しい栄誉に飾られて、がちゃがちゃと音をたてる、死のウマが!
そうだ、ここに多数者のために死ぬということが考案されたが、この死は生として自讃される。まことに、死を説教するすべての者たちに対する、心からの奉仕だ!
善人も悪人も、すべての者たちが毒を飲む者であるところ、わたしはそれを国家と呼ぶ。善人も悪人も、すべての者たちが自己自身を喪失するところ、それが国家だ。すべての者たちの緩慢な自殺が――「生」と呼ぽれるところ、それが国家だ。
さあ、これらの余計者たちを見よ! 彼らは、創案者たちのもろもろの作品や賢老たちのもろもろの宝を盗み取り、自分たちの盗みを教養と名づける――こうして、一切が彼らにとって病気と災難とになるのだ!
さあ、これらの余計者たちを見よ! 彼らはつねに病気である。彼らはその胆汁を吐き出して、それを新聞と名づける。彼らは互いに呑みこみ合い、決して相手を消化することができない。
さあ、これらの余計者たちを見よ! 彼らは努力して富を手に入れ、それによって、いっそう貧しくなる。彼らは権力を欲し、何よりもまず、権力の鉄挺たる、多くの金を欲するのだ、――これら無力な者たちは!
これらのすばしこいサルどもがよじ登るさまを見よ! 彼らは、互いに相手を乗り越えてよじ登り、こうして互いに泥と深みのなかへ引きずりこみ合う。
彼らはみな玉座のもとへ向かおうと欲する。これこそ彼らの狂気だ、――まるで幸福が玉座に坐っているかのように思っているのだ! しばしば泥が玉座に坐っている――そして、しばしば玉座がまた泥の上に座を占めている。
わたしにとって、彼らはみな狂気の者であり、よじ登るサルであり、熱中しすぎる者である。わたしにとって、彼らの偶像たる、あの冷ややかな怪獣は、悪臭を放つ。わたしにとって、これらの偶像崇拝者たちは、みな残らず悪臭を放つのだ。
わたしの兄弟たちよ、いったいきみたちは、彼らの口や欲望が発散する臭気のなかで窒息するつもりなのか? さあ、むしろ窓を破って、戸外へ跳び出せ!
さあ、悪臭を避けよ! 余計者たちの偶像崇拝から遠ざかれ!
さあ、悪臭を避けよ! これらの人身御供たちの湯気から遠ざかれ!
大いなる魂の持ち主たちにとって、いまもなお、大地は広々と開けている。一人でひそやかに生きる者たちや、二人でひそやかに生きる者たちのために、なお多くの座席が空いており、この座席をめぐって、静かな海のかおりを含んだ風が吹く。
大いなる魂の持ち主たちにとって、なお、或る自由な生が広々と開けている。まことに、少ししか所有しない者は、所有されることもそれだけ少ない。ささやかな貧困はほむべきかな!
国家が終わるところ、そこに初めて、余計者でない人間が始まる。そこに、必然的な者の歌が、ただ一回的な、かけがえのない旋律が、始まるのだ。
国家が終わるところ、――さあ、そちらを見やるがよい、私の兄弟たちよ! きみたちには見えないか、虹が、また超人の橋の数々が? ――」


長いって? 失礼しました。


だるい  (2006.09.21)

なんか色々疲れて、心身共に絶不調。
リタリンくれ。もうだめだ……。


スタイルシート  (2006.09.18)

現在Movable Type3.3を導入すべく苦闘中。
スタイルシートが自分で書き起こしたものではないので何が何だかわかんねえよオイ(;´Д`)

スタイルシートそのものの操作については解説サイトもないに等しい状態みたいなので、どうすべきか思案中。

それはそうと、書店の品揃えの水準が急激に落ちていることに愕然とすることが多い。
今日も壊れてしまった通勤靴を買い替えるためにデパートに行き、ついでにそのデパート内の書店を冷やかしたのだが、レベルの低下は目を覆わんばかりだった。
書架に並ぶは某社の「できる」シリーズかその亜流のような本ばかり。思想書のコーナーでは社会学のコーナーにブランショの本があったり池田某や各種新興宗教のクズみたいな本、いや本と称することすら否定されるべき塵芥が大きなスペースをとって配されている惨状だった。そしてその脇を幼児や児童が喚声を上げて駆け抜けてゆく。ここは本屋ですか?

考えてみれば、ロングテールなる概念はそもそもこういう本屋とは無縁なのだろう。従来思想書や美術書、あるいはそれに類する極めてマイナーな書物について回遊型のまとめ買いをしていた人々はとっくにアマゾン等に移行してしまっているのだ。結果リアル店舗での滞在時間の長い客は、雑誌かラノベか売れ線のどうでもいいような本ばかり買うような、能動的探求とは無縁な人種が大半を占めるようになる。つまりは受動的に「感動をありがとう」とか「萌え」とか抜かす連中ばかりが本屋のフロアを埋め尽くすことになるというわけだ。そういえば今日件の本屋ですれ違ったオバチャン二人も江本某の水の結晶の写真の話を真顔でしていたよ。あんたらバカですか?

というわけで、左大臣はますますアマゾンの優良顧客に成り果ててしまうのでした。バイバイ、A屋書店。


直接的なものは無価値である  (2006.09.05)

なぜ起こる? 「炎上」の力学(ITMedia Anchordesk 2006.09.04)

率直に言って、何故これほどまでに水準の低い文章が「アンカーデスク」を冠して掲載されるのか理解に苦しむというのが偽らざる感想である。
何故水準が低いと私は断じるのか。まずは筆者の意見を引用しよう。

しかし、確固とした考えがあっての意見であれば、発言し、議論し、間違いがあれば正し、それでも正しいと思えば貫くという態度を取れば、炎上することはないと思われます。

このような判断が真として成立するのは、議論を巡ってのルールが全ての参加者にとって自明のものとして共有されている場合に限られる。いわゆるハーバーマス的な対話的理性が絶対の掟として君臨している場合は、確かに筆者の言うような仮説は一定の有効性を持ちうるだろう。だが、そのような言説空間を構築するためにMovable Typeのコメント機能が果たして資するとは言い切れるだろうか? 私は全くそのようには思わない。
その理由は実に簡単である。炎上の現場に殺到する圧倒的多数の連中と、それにたった一人で応戦しなければならない書き手との間には、物理的前提そのものにおいて平等性が成立しないからである。
オルテガは『大衆の反逆』の中で以下のように書いている。少々長いが引用しよう。
平均人は自分の中に「思想」を見いだすが、思想を形成する力には欠けている。思想が住む微妙きわまりない場所がどこであるのかを考えもしない。意見を述べたがるが、およそ意見を述べる際の条件や前提を認めようとはしない。そのため彼らの「思想」なるものは実際には思想ではなく、音楽付き恋愛詩のように、言葉をまとった欲望に他ならないのである。(強調部は引用者による)

その結果大衆社会では討論が絶滅しているとオルテガは主張するのだが、事実炎上してしまったブログの大半の事態はまさしく討論に名を借りた著者の公開処刑でしかないではないか。そのような状態を眺めながら「炎上しないための心得」として小学校の学級会におけるようなお題目しか提案できないのは、余程おめでたい考え方しかできないのだと羨望を抱かずにはいられない。
問題の本質は従ってブロガー個人の態度に帰せられるほど甘っちょろいものではないのである。これはMovable Typeを典型とするいわゆるブログが創出する言説空間が、少なくとも日本の多くのケースにおいてはおよそ対話的理性を涵養する言説空間の基体とはなり得ないということに由来しているのである。
では何故ブログが対話的理性を形成する空間ではないと言い切れるのか。それは、何よりも対話者の数的問題に帰せられるべきだろうが、そのような圧倒的な袋叩きを大衆に可能にさせてしまう背景には、表現行為とそのアウトプットの距離が時間的・物理的にも極めて短かすぎることが明らかにあり、常時接続のブロードバンド環境はそのお膳立てをしてしまっているのだ。事実、自己と格闘した軌跡のない言説は直截的であり可解性に優れはするものの、その結果として洗練を欠いた極めて粗野なものに陥りやすい。そんなことは自らの表現が多分に自らの精神の表象であることを理解している、一定の訓練を積んだ人間なら誰でも理解していることであり、ゆえに推敲作業は慎重の上に慎重を重ねて行われ、難解な文章はそのような過程を経てきたからこそ重みと内容を持ちうるのだが、「わかりやすさ」のイデオロギーに慣れ親しんだ今日の文明に汚染された我々は、表現に対する飽くなき彫琢の結果磨き出されてきた純粋な形式としての完成された美しいシンプルさと、思考停止のまま脳髄から垂れ流されてきた貧相な表現の質的区別ができなくなっている。大切なのは殴り書きの嘲笑を投下することではなく、それを書いた自分の顔を鏡で見直すことであるにもかかわらず、自分の矮小さを知ることを本能的に恐れ、しかもそのままでやり過ごすことが可能になった今日に生きているがためにニヤニヤと寂しい笑みを浮かべながらマウスをクリックしてしまう。
このような機構そのものに「炎上」が示す問題の根はあるのだ。

Web2.0といえば聞こえはいいかもしれないし、CGMとか略語を並べれば頭の悪いクライアントは騙せるかもしれない。だが、そのような言表のやりとりが果たして理性的かどうか、そして思想の名に値するかといえば、私は疑問符を70個ほど並べざるを得ない。


カボチャ  (2006.09.04)

夜の駐車場

カボチャ

収穫してきましたヽ(´ー`)ノ白いカボチャです。


スパムすげけ  (2006.09.02)

今日に入ってからスパムが凄い。subjectが文字化けしてるけど。
送信元をWhoisしてみたら、中国だけではなくオーストラリアやアメリカからも爆撃を受けております。
こんな状況が2〜3日続くようだったら、メールアドレスを変えますのでよろしくです。


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