2006年09月 |
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コストダウンのなれの果て
(2006.09.30)
ソニー電池回収のお知らせ
話にならん
(2006.09.24)
Mixiにて、国旗国歌掲揚&斉唱訴訟の違憲判決に対する反発の数々を目にし、あまりの水準の低さに愕然とする。本訴訟の争点が業務命令の合憲性、即ち良心の自由を侵害する形での命令の強制が妥当かという純憲法論的な内容で争われているにもかかわらず、「日の丸君が代が嫌いな奴は朝鮮中国に出て行け」だの、「アメリカの学校では毎日国旗掲揚してますよ?」、あるいは「式典なんだから場の空気読めよ」だの「国旗国歌に対する敬意を教えることは指導要領に盛り込まれてるんだからそれ守れよバカチン」といった感情的であまりのクルクルパーぶりに口あんぐりな言辞のオンパレードで、全く以て議論以前の問題であり、一つ一つに丁寧に反論というか愚かさ加減を訂正してやる気にもならない。アンブローズ・ビアスは「愛国心」について、「自らの名声を輝かせたいという野望を持つ者の火種となる燃えやすいゴミ。」あるいは「ならず者の最初の拠りどころ」と定義しているが、この種のならず者は日本海の対岸の某国の大統領様の愛国者ぶりを他山の石として捉えた方がいいだろうと思う。あんな連中と同水準に身を落としたいなら悪いことは言わないから今すぐ青瓦台に行けばいい。止めないよ。 「国家とは、すべての冷ややかな怪物たちのなかで、最も冷ややかな怪物のことだ。じじつまた、それは冷ややかに嘘をつく。そして、次のような嘘が、その口からひそかにもれる。「われ、国家は、民族なり。」 長いって? 失礼しました。
だるい
(2006.09.21)
なんか色々疲れて、心身共に絶不調。
スタイルシート
(2006.09.18)
現在Movable Type3.3を導入すべく苦闘中。
直接的なものは無価値である
(2006.09.05)
なぜ起こる? 「炎上」の力学(ITMedia Anchordesk 2006.09.04) しかし、確固とした考えがあっての意見であれば、発言し、議論し、間違いがあれば正し、それでも正しいと思えば貫くという態度を取れば、炎上することはないと思われます。 このような判断が真として成立するのは、議論を巡ってのルールが全ての参加者にとって自明のものとして共有されている場合に限られる。いわゆるハーバーマス的な対話的理性が絶対の掟として君臨している場合は、確かに筆者の言うような仮説は一定の有効性を持ちうるだろう。だが、そのような言説空間を構築するためにMovable Typeのコメント機能が果たして資するとは言い切れるだろうか? 私は全くそのようには思わない。 その理由は実に簡単である。炎上の現場に殺到する圧倒的多数の連中と、それにたった一人で応戦しなければならない書き手との間には、物理的前提そのものにおいて平等性が成立しないからである。 オルテガは『大衆の反逆』の中で以下のように書いている。少々長いが引用しよう。 平均人は自分の中に「思想」を見いだすが、思想を形成する力には欠けている。思想が住む微妙きわまりない場所がどこであるのかを考えもしない。意見を述べたがるが、およそ意見を述べる際の条件や前提を認めようとはしない。そのため彼らの「思想」なるものは実際には思想ではなく、音楽付き恋愛詩のように、言葉をまとった欲望に他ならないのである。(強調部は引用者による) その結果大衆社会では討論が絶滅しているとオルテガは主張するのだが、事実炎上してしまったブログの大半の事態はまさしく討論に名を借りた著者の公開処刑でしかないではないか。そのような状態を眺めながら「炎上しないための心得」として小学校の学級会におけるようなお題目しか提案できないのは、余程おめでたい考え方しかできないのだと羨望を抱かずにはいられない。 問題の本質は従ってブロガー個人の態度に帰せられるほど甘っちょろいものではないのである。これはMovable Typeを典型とするいわゆるブログが創出する言説空間が、少なくとも日本の多くのケースにおいてはおよそ対話的理性を涵養する言説空間の基体とはなり得ないということに由来しているのである。 では何故ブログが対話的理性を形成する空間ではないと言い切れるのか。それは、何よりも対話者の数的問題に帰せられるべきだろうが、そのような圧倒的な袋叩きを大衆に可能にさせてしまう背景には、表現行為とそのアウトプットの距離が時間的・物理的にも極めて短かすぎることが明らかにあり、常時接続のブロードバンド環境はそのお膳立てをしてしまっているのだ。事実、自己と格闘した軌跡のない言説は直截的であり可解性に優れはするものの、その結果として洗練を欠いた極めて粗野なものに陥りやすい。そんなことは自らの表現が多分に自らの精神の表象であることを理解している、一定の訓練を積んだ人間なら誰でも理解していることであり、ゆえに推敲作業は慎重の上に慎重を重ねて行われ、難解な文章はそのような過程を経てきたからこそ重みと内容を持ちうるのだが、「わかりやすさ」のイデオロギーに慣れ親しんだ今日の文明に汚染された我々は、表現に対する飽くなき彫琢の結果磨き出されてきた純粋な形式としての完成された美しいシンプルさと、思考停止のまま脳髄から垂れ流されてきた貧相な表現の質的区別ができなくなっている。大切なのは殴り書きの嘲笑を投下することではなく、それを書いた自分の顔を鏡で見直すことであるにもかかわらず、自分の矮小さを知ることを本能的に恐れ、しかもそのままでやり過ごすことが可能になった今日に生きているがためにニヤニヤと寂しい笑みを浮かべながらマウスをクリックしてしまう。 このような機構そのものに「炎上」が示す問題の根はあるのだ。 Web2.0といえば聞こえはいいかもしれないし、CGMとか略語を並べれば頭の悪いクライアントは騙せるかもしれない。だが、そのような言表のやりとりが果たして理性的かどうか、そして思想の名に値するかといえば、私は疑問符を70個ほど並べざるを得ない。 |
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