音楽への訣別
(2006.07.30)
クレーメルによる無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータを聴いた。近所のCD屋で初回限定版を偶然発見しそのままお買い上げ、となったのだ。
ヴィヴラートを抑制し、時として乱暴にすら響くアクセントの付け方やデュナーミクは決して美音的ではないという点で、名盤とされるシェリング盤やクイケン盤とは対極にあり、むしろシゲティのそれに近いと思う。但し、全体的に遅めの速度でバッハの器楽曲に内在する精神の孤独な輝きを必死に掘り出そうとするシゲティの演奏に比べて、クレーメルの演奏はかなり自由に速く弾いている箇所も少なくなく、かつ音の粒が全く崩れていないのは彼の演奏の技術水準の高さを証明していると言っていいだろう。また、手元にあるヨアヒム版の楽譜と見比べると、各所で解釈の違いが見られるのだが、そのいずれも彼の演奏の高い説得力と緻密な弾き分けで全く以て納得させられてしまう。それだけバッハの「無伴奏」は多様な解釈の可能性を豊かに今なお蔵しているということだ。
そして、クレーメルのこの演奏を聴いて浮上してくるのは、バッハのような美が今日では最早不可能になってしまった事への諦念に似た距離感である。これは残響を強く残した録音の特質にも依るところが大きいのだろうが、元々現代音楽の演奏において評価の高い(ペルトやノーノのヴァイオリン曲でまともな録音が聴けるのはクレーメルの功績の一つである)クレーメルのバッハに対する態度は、単にそれが美しく、モダン楽器であっても全くその価値が減じることのない独奏曲の最高峰として例えばシャコンヌを礼賛しているだけではないように私には思える。美的な、単に美しい――それはそれ自体として極めて困難な一つの到達点ではあるのだが――演奏ではなく、敢えてピリオド楽器の時代のようにノンヴィヴラート奏法を基本とし、敢えて言うならば傷だらけの音符の連なりを敢えて剥き出しにして差し出すことで、バッハの音楽が単純な感動を誘発するだけのものであることを痛烈に拒否し、クレーメルはこのような音楽が不可能になりつつある現代の商業化された文化の自滅的状況を嘆くでもなく、そこから静かに遠ざかろうとしているように感じられてならない。例えばこの録音の最後のジーグは前半の短調の曲群に比べて、何と明るい自由な開放感に満ちていることだろうか。険しい音色でありつつも伸びやかな健やかさを湛えたこの演奏において、クレーメルはバッハの時代と現代の音楽状況の双方から静かに微笑みを浮かべつつ別れを告げようとしている。 曰く、美はある、けれどもここには美はないのだ、と呟くことによって。
そういう意味において、単に美しいのみならず、聴いていて極めて辛い気持にさせられる録音だと思う。単にこの曲の素晴らしさを堪能したいだけであればシェリング盤を勧める。但し、我々の時代が持つ美的なものへの不可能性といったアポリアに沈潜して思考したいのであれば、クレーメルのこの演奏は一つの手がかりを与えてくれるかもしれない。
銀河の歴史がまた1ページ
(2006.07.28)
今使ってるPCのケースを作っていた星野金属工業が不渡りを出しました。 潰れたわけではないけれど、何でこうひいきにしたメーカーは傾くかな……
兎に角静かに
(2006.07.18)
朝の通勤。雨が実に鬱陶しい。
そんな中、お出かけとおぼしきオバチャンが二人。 当然の如く色々とお喋りをなさっているわけですが、近所のスーパーの安売りやら近所の某氏の息子さんの成績がどうだとか、親戚の娘が嫁に行った先で姑とうまくいっていないらしいだの、そんな話ばっかり。
パーツの安売り情報なんかは私も好きですから否定はしませんが、せっかく出かける時だというのに何でそんな話しかできませんかね? ヘッドフォンで音楽を聴いて耳を塞いでても大きな笑い声やらお喋りが聞こえてきて朝から疲れてしまいました。
泥酔
(2006.07.08)
金曜は飲み会。
ストレス爆発で飲み過ぎた……
頭痛い……
翌朝上司から「生きてるか」とのメール有り。 申し訳ないです、すみませんごめんなさい生まれてすみません……
業務連絡
(2006.07.02)
データディレクトリにアップしていた写真は、削除しました。 ダウンロードした方から貰ってください。
正直言って
(2006.07.01)
色々なものがどうでもよくなる瞬間というのがある。 肯定的な意味ではなく、無論否定的な意味でだ。
年を取るというのはそういうことなのかもしれないが、人間の醜悪な面や悲惨を多く目にする機会が増えたように思う。それはそれで仕方がない。この世界は楽園ではないし、全ての人間が全ての瞬間に渡って幸福ではないのだから。そりゃエゴとエゴのぶつかり合いや調停のしようがない利益の衝突はあるだろう。その位はとりあえず理解できるだけの知能は一応持っていると私は思っている。
そして苦しみや悲しみ、そうしたものを口にしたくなる、そういう気持ちに人間はなることは有り得る。そんなのは当たり前だ。私がこの日記に書き散らしているのも大半はそうした愚痴だし、生きていることにほぼ不可避的に伴う孤独や絶望のオンパレードだ。だから、こんなのを読んでいる人は有難いなあと思うわけだが、それはともかく、機会あるごとにそうしたものを連続して面頭向かって聞かされるとそれはそれで気分が萎えるのもまた事実だと思う。
辛いのは程度の差こそあれ誰でも同じである。それは十分承知しているし、時折であればそういう話の聞き役に回ることは別段苦にならないし、むしろ信頼してくれているのだなと感謝すら抱く。だが、それが毎日毎日のように続くと、それはこちらとしても単なる苦役でしかなくなる。そのような話を聞かされるごとに蓄積する私の孤独や絶望、悲嘆はどこに持って行けばいい? 私のお人好しぶりは愚痴の最終処分場か?
そんなこともあり、先日就寝中に一度自我が完全に崩壊した。解消しようのない孤独感が、世界そのものに対する恐怖あるいは最早破壊意志しか形成しないほどの猛烈な憎悪へと意味を変えてゆくときの内面の徹底的な惨状を、あなたは想像したことがありますか? そしてそうした事態を目にしたときあなたは何を感じますか?
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