年をとったかもしれないのだ
(2006.03.30)
人間ある程度年齢を重ねてくると、そして人並みの経済活動に首を突っ込むようになると、それなりに人間の醜悪な面や本当にどうしようもないとしか形容のしようがない惨状、しかもそれが現在の資本主義と分かちがたい姿で結びついているようなケースを多々目にすることになります。そういったことをよく知っておくのは別段悪いことではないし、むしろ人間が霞だけを食らって生きているわけではないということを弁えておくことは至高に現実性をある程度付与しうるという点で、まあ知っておくに越したことはないことではあります。
ただ、いかにも訳知り顔にそういうことばかり述べ立て、いかにも自分は世事に聡いのだ、という物言いをする人々、往々にして彼らの話題には風俗店等での行状自慢も含まれたりするのですが、そういう話ばかり聞かされると気が滅入るのもまた認めねばなりません。 ただそれは、そういった「現実的」な話題が陰惨だから、ではありません。むしろそういった世界が全てである、あるいはより価値がある「根源的な」世界であると頑なに信じてこざるを得なかったそのような人々の生のあり方そのものに、私はある種の深い悲しみと幻滅を感じるのです。
醜悪なものに対する知見は、社会で生活していれば必然的に身についてしまうものです。そんな物でしか自分の思考のリアリティを証明できないのだとすれば、それは単なる塵芥自慢にしか過ぎないように私は思います。むしろ、自らが自覚的に思考してきたというのであれば、醜さではなく、崇高さの契機によってそれを示すべきではないかと思うのです。
明日に続くかもしれませんが明日は花見の予定。
無題
(2006.03.27)
先日PIE2006に行ったことは既に書きましたが、同展示会のAdobeのブースでは、デモンストレーションの折にBGMとして『青き美しきドナウ』(多分)が使われていました。確かに典雅な旋律ではありましたが、アンプを通して聞こえてくるそのメロディは優美というよりむしろ醜悪なものとすら感じられました。あれを美しいと解することができる感性を持っているのならば、私は素直に『森の歌』あたりをお勧めしておきます。
それはさておき。 私がこの騒音の中に身を置いていて思い出したのは、他ならぬ『ラ・ヴァルス』でした。第一次世界大戦直後に書かれたこの曲は、2つの失われたもの、即ちラヴェルの母と大戦前の社会に眼差しを向けています。退廃の極みにあったけれども文化爛熟のピークでもあったかの時代は、戦争の暴力の前にあっけなく失われ、作者の母もまた時の彼方へと喪われてしまったという空虚感、そして在りし時代への郷愁がこの作品を貫いているわけですが、と同時に、この曲はルチアーノ・ベリオの『シンフォニア』第3楽章を貫く主題ともなっています。この曲は1960年代の、世界がまだ人間の顔をしていた頃の熱気を、スウィングル・シンガーズのお喋りに似たスキャット(余談ではありますが、1995年のブーレーズ・フェスティバルでこの曲のスキャットを担当していたニュー・スウィングル・シンガーズのお姉さんはハラショーでありました)と共に、いささか躁状態で、伝えてくれます。
しかしかの時代は等しく過ぎ去り、ベリオも2003年にこの世を去りました。ウィンナー・ワルツは、ラヴェルが味わった喪失を基層として、思想が力を持つことができた時代の喪失を私に突きつけずにはおきません。そして、再びまた、いくつかの喪失にまたもや直面しなければならないことをどう耐えるのか、私はそれを反芻していたのだと思います。PIE2006ではタムロンがブロニカをやめてしまい、またコニカミノルタが写真事業から撤退したこともあり、人間の経験が蓄積されるという精神の営みを無視するべく圧倒的な情報量を処理するべく突き進むテクノロジーの進化に対して、つまりテクノロジーが何ら夢を語ることがなくなってしまったというこの状況において、事実ある種の空虚感を私は感じていたようにも思います。そうした余りにも早すぎる時代の変化に対する無力感、或いは徒労感といったものが、余りにも多く失われてしまったものに対する郷愁と共に、かの痛めつけられたワルツを契機として、絶望感をより一層強める形で、私の濁った頭の中に湧出してきたように感じられるのです。
喪われてしまったものにこだわるのは、あまり好ましいことではないのかもしれません。未来を切り開くには、過去の残骸の山に目を向ける必要はないのかもしれません。ですが、私は、ラヴェルの『ラ・ヴァルス』から、喪われたものをそれでも愛することで、魂がかつて豊饒であった瞬間への記憶を分かち合うことができるのではないか、と夢想してしまったりもするのです。
少々、疲れているのかもしれません。
ねんまつ
(2006.03.25)
昨日はPIE2006に行った。
つまらん。
カメラ事業から撤退しちまったコニミノが出ていないのはまあ仕方ないとして、ソニーもリコーも出展見送り。
Fマウントのレンズを出したカール・ツァイスも全然やる気ないし、物販コーナーもつまらないことこの上なし。おまけに展示会のくせに入場料をふんだくるという為体。 セミナーに出るのでなければ行く価値はないかもしれんです。もう実売されてるものの展示が殆どだし。仕方ないのでカタログ収集と関係者への挨拶回りしかしませんでした。
あと一言。
コンパニオン邪魔だあっちいけ!
(無題)
(2006.03.21)
月曜日に有休を取って合計4連休だったわけだが、何をしたかといえばスポーツクラブに行って疲れ果ててゴロゴロして思い出したように掃除をしてデリダをちょこっと読んだだけだった。
あ、あとATOK2006を入れたですよ。あとNorton Systemworks2006とか。
いつものことなのだが、気が滅入る。 とりあえず最低限の活動はできているので鬱ではないのだが、神経症の気がまた出てきたのかもしれない。 パキシルでも飲むべきかね。
こんな時に計算高すぎるナイマンの曲に聴き入ってしまうとはまずいな。
(無題)
(2006.03.20)
ショスタコーヴィチの作品群、特に後期の弦楽四重奏を聴いていると、相互理解とかコミュニケーションといったものに対する深い幻滅を共有せずにはいられない。ぞっとするほどの表層的な理解に囲繞された日常が支配する状況では、表現自体が陳腐化を続ける余り苦痛になってしまう。
多分、最近特に強く思うのは、思考する、就中美的或いは倫理的な領域の事柄について思考する時、我々の歩みはひどく覚束無いものになってしまうのではないかという事だ。理解を求めて、或いは理解しているフリをして我々、少なくとも私がまき散らす言葉は余りにも軽佻で内容が空疎で、その割には直進的な形態を帯びている。
だから、思考するのであれば、私達はそのような言語を捨てる必要があるようにも思う。コミュニケーションや理解される事を基本的な与件として前提しない言語は、暗闇の一隅に蹲ってぼそぼそと呟く行為に似ている。自分の主張が理解される、もっと突き詰めて言えば自分の存在を誰かに認めて貰うことが言説の内容以前に強く強く感じられるものはその点において読む者や聴く者にある種の悲しみを与えずにはおかないのはまた事実なのかもしれないが、私に、少なくとも今の私に必要なのはこのような「理解」の覇権に決然と背を向け、交換性の明るみでは見る事の出来ない悲しみや苦しみの絶叫、或いは押し潰された言語の響きを模倣して口ごもる事なのかもしれない。
小さいものは高い
(2006.03.15)
ヴィクトル・ウルマン『アトランティスの皇帝』を聴く。 ワイルのようなシニカルさを感じる。書く機会があれば後日詳しく書きたい。
閑話休題。 「山田オルタナティブ」ウイルスによる情報流出の話が続いているようだ。 ロクにウイルス対策ソフトも使わないで何やってんだ、と「被害者」の無防備さというか無邪気さを叩くのは実にたやすい話だが、そんな批判はサルでも出来る事であって、それでは何にもならないように思う。
多くの場合、山田オルタナティブウイルスによる被害は私物マシンに仕事のデータを入れていた人間によって引き起こされている。つまりは仕事を持ち帰っているわけで、早い話が持ち帰りのサービス残業が横行しているからこんな事が起こるのだ。あるいは私物のマシンを持ち込まないと必要な台数が確保できない程プアな環境(そんな連中に国防など任せられるのか)での労働を強いる側に問題がある。
現在の日本の景気回復は多分にして労働者を犠牲にする事によって成り立っている。今日の日経MJの記事のレベルの低さ(IT土方からガンガン搾取しているだけの無教養な新興富裕層を「ポピュリッチ」と命名してはしゃぐ無神経さは理解しがたい)は目を覆わんばかりだが、Winnyを使うなと連呼するだけではなんの意味もない。個人のマシンならどんな真っ黒ソフトであろうがインストールするのは基本的に個人の自由だからだ。本当にウイルスによる被害を逃れたければ、労働環境も含めたシステムを健康なものにそもそもすべきだ。
だるい……
(2006.03.13)
5時起き。ひたすら身体のだるい一日。ダメだ、力が入らない……
通りがかったうさぎやにてどら焼き購入。聴けば結構有名な店らしく、実際結構おいしい。特に皮の部分がホクホクしていてかつムッチリしているのが何とも言えずグー。
ショスタコーヴィチの弦楽四重奏第15番を聴く。 安堵と惜別、彼が辿った苦悩が垂れ込めた重い雲から滲み出てくるかのようなエレジア。 理解される事を拒絶する深淵が途方もない深さで横たわる。 恐らくは彼にもあったであろう幼い日の記憶すらも懊悩の海の鈍色の水面の奥底に塗り込めていて我々には最早届く事がない。
のせた
(2006.03.11)
知人からムハンマドの風刺画問題に関して、Charlie-Hebdoに掲載された宣言の写しが届いたので、翻訳してPDFにして載せました。
知人は語句について説明書きも脚注で付けてくれたのでそれはそのまま残してあります。
宣言への署名者としてはベルナール−アンリ・レヴィやサルマン・ラシュディなんかもいるようです。
一応断り書きしておきますが、私の立場はこの宣言と完全に一致するものではありません。私はこの問題はそもそも倫理的問題の政治的すり替えに起因すると考えています。率直に言って、件の風刺画は出来が相当に悪い。
眠い
(2006.03.07)
疲れた。
「悪の原因をわれわれ自身の外に求めることはよそう。原因はわれわれの中にあるのだ。われわれの内臓に張っているのだ。そして自分が病気だと気づかないでいるその事がわれわれの治療をいっそう困難にしているのだ」(セネカ)
色々壊れる
(2006.03.04)
バルザック『絶対の探求』読了。 本とかに結構出費が激しい私としては耳の痛いところも結構ある話だったが、主人公バルタザールの崩壊する内面世界への言及が欲しかった。それはバルザックではなくドストエフスキーのようなダメ人間の心情を描かせたら超一流の作家に託すべき話題なのかもしれないが。
先月から今月にかけて、細々と色々と壊れる。 壊れた物一覧 ・マウス2台 ・マウスパッド2枚 ・ヘッドフォン1台 ・デジタルオーディオプレーヤー用リモコン1台
マウスのうち1台はPC-Successで買った430円の代物だからまあ仕方がないとして、他は結構凹むなあ……
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