2005年11月
シュッツを聴きながら  (2005.11.28)

Musikalische Exequienを聴く。葬送音楽なのだが、最後の審判に対する恐怖がなく、むしろ清らかな平穏さに満ちているのはフォーレのレクイエムにも似て、不思議な安堵を聴く者に与えてくれる。ただし、フォーレのそれが、これから楽園へと旅立とうとする者への永遠の光による無限の祝福であり、シュッツのそれは生の悲惨を贖うものとしての死を冀うものだ。無論、だからといってシュッツの曲が陰惨なものだというのではなく、彼のこの曲は、そのモテトゥスのいくつか―例えば"Selig sind die Toten"―で、生の終末が全ての苦悩を平安に導くための魂の歴程であると見なすことで、この世界に穏やかな色彩を吹き込んでくれているように私には感じられる。

ようやくここしばらく寒い季節になってきた。美しいものへの渇望。


せっかくだから  (2005.11.23)

ときメモカフェ「エコル」だとさ。

これか?    扉は赤いのか?    焼きビーフンとかダチョウステーキは出るのか?

違う!断じて違う!


こっちだ。
(;´Д`)


気配りをかなぐり捨てろ  (2005.11.21)

iのないHDDプレイヤー(+D Blog)

iは付くけれども文字の一部が繁体字になったりする某プレイヤーを使っている身としては、なかなかに頷ける話。
ソニーのNetworkWalkmanあるいはVaio MusicCilpの転送ソフトが異常なほど使いづらいということは、今は亡きMP3 Tidalwaveでこれでもかというくらいに叩きに叩かれていたのだが、これが5年経っても実質的に殆ど何の改善もなされていないというのは驚嘆に値すべき事柄だと思う。
理由はもちろん誰もがよく分かっている。開発者だってもちろんよく分かっている。企画担当者だって分かっている。ストリンガーの旦那だって分かってる(と思う)。

でも変えられない。

なんでかな。


とりあえず飲んでみた  (2005.11.17)

解禁日ということで、とりあえず飲んでみた。

昼休み近所のレストランで飲んだジョルジュ・デュブッフははっきり言って水っぽくて飲めた代物ではなかった。氏の手になるワインはとびきり上質というわけではないもののそれなりに飲めるレベルのを作っていたと思うが、今年のは酸味とタンニンの味を強調しすぎていてバランスが空中分解していた。そんなのに1杯800円も取る某レストランは反省するべきだと思ったので会計の時にかなりボロクソにけなしておいたけどどうなる事やら。おかげで明日以降の昼ご飯は立ち食い蕎麦確定。

で、某ネットアイドル(嘘)からもらったChâteau du Mencteau "Les Lapins Monopole" (Beaujolais-Villages Primeur A.O.C)は葡萄の酸っぱい甘みはやや弱いものの、全体として非常に調和のとれたいい味。値段相応ですな。色も深すぎず豊かな菫色でござった。今年のワインは猛暑で(またかよ)非常に出来がいいという前評判だったが、まだまだ分からないのでとりあえず普通の新酒が出回り始めたら何本か買い置きしておけばいいや。


次世代CD  (2005.11.15)

元麻布春男の週刊PCホットライン

私の手元にあるホームシアターシステムの光学ドライブはSACDも読める。実際SACDの音源を聴いてみると、5.1ch対応のものだと立体感・音質ともにビックリするほどのクオリティではあるのだが、いかんせんソフトが少なすぎる。SACDの音源はほとんどがクラシックなのだが、当のクラシックや現代音楽をもっぱら買い漁る私のような人間にとっても、その音源のプアさは目を覆わんばかりである。面白い音源が出ているな、と思って手にとっても単なる3ch出力だったり、2chステレオを擬似的に5.1chにしてあるだけだったり、これは規格として失敗だったと叩かれても仕方ない。ドライブを手に入れた当時は「ノーノとかシュトックハウゼンの音源が出れば楽しくてウヘラウヘラできるだろうなぁエヘヘヘヘ」と想像していたのにガッカリだ。

何が言いたいかというと、『力と光の波の様に』と『光る工場』と『コンタクテ』と『グルッペン』の5.1ch盤を出してくれということなのです(AVEXからCCCD/SACDハイブリッドで出ている音源は3chだ。ふざけんな)。


追記。
今日プレゼン先に電車で移動していた時のこと。
私と年格好のそう変わらない感じの男性が、ノートパソコンを広げ一心不乱に何やらメールを書いては送り書いては送りしていた。何をそんなに焦っているのかいなとちょいと画面を覗いたら(本当はいけないことです)、●ネサステ●ノロジに派遣したチームのうち何人かが残業の多さにぶっ壊れて挙句デスマーチ状態に陥っているような話だった。早い話がいわゆるIT土方と呼ばれる人々の現代哀史なわけだが、そこまでして得なければいけないものとはいったい何だろうと思って気が少し滅入った。
仕事に喜びが少しでも見いだせなければ、それは単なる苦役でしかない。そしてそう高くない給与での派遣&業務請負ともなれば、身分の不安定さもありモチベーションの低下も一入だろう。にもかかわらず仕事さえ与えれば「若者」の年金不払いやら社会保険料未納やらNEETが解決すると思ったら大間違いだ。問題の根幹は、労働に何の希望も抱かせないこのシステムそのものではないのか。


どうでもいいこと  (2005.11.13)

別段書く必要もないということについては、できるだけエントリをしないように考えている。
そのせいか、ここのところ日記に書く量は相当に減少している。

眼鏡を新調する必要があるようだ。
現在使っているのは縁なしタイプゆえ、損傷が激しい。購入してからやく2年ちょいでの新調と相成った。


泥沼  (2005.11.10)

フランスの暴動の話をここ数日目にする。

今回の暴動が始まった中心地にほど近いボビニーという街に以前ヴィレット運河経由で行ったことがある。
パリ市を離れて船が郊外に進むに従って、風景の荒廃ぶりは呆れるほどのものになってくる。めぼしい壁は全てタグで埋め尽くされ、街の至る所で虚ろな表情で屯するアラブ系・アフリカ系の子供達を見かけた。服装は揃いも揃って安物のスポーツウェア。そして件の地区の近くを通るRERのB線に乗ってくる彼らのほとんどが無賃乗車。ロワシー空港に向かう路線の列車の多くがこれらの地区の駅を(恐らくは安全上の理由、という口実で)通過していた。

恐らく、今回の暴動は起こるべくして起きた。低廉な単純労働の担い手としてのみ実質的に「輸入」された彼らの親には、社会的尊厳はまるきり無いに等しい。そして彼らの住む街は、失礼を承知で言えば高島平団地が地平線の向こうまで続いているような区画であり、風景の貧しさはパリ市18〜20区(例えばスターリングラード駅周辺やベルヴィル地区など)をはるかに凌ぐ。そして失業率が3割近くあり、ANPE(職安)の付近ではアルコール中毒の男性が朝から暴れている。すぐ近所には高速道路が走り、澱んだ空気が空を覆う。

そんなところに生まれては希望を持てというのが無理というものだろう。フランスは隣国イギリスに比べればまだ学歴獲得による階級移動の可能性が残されている国だが、ブルデューを引くまでもなくそれは彼らにとって単なる可能性の夢物語でしかない。自らの自己実現が唯一可能な場面はもはや暴力しか残されていないのだ。

いくつかの新聞の社説やらではこれを単なる移民差別の問題として捉えている。恐らくそれは政治的な言説空間の中では正しい。だが、暴力あるいは暴力に類する行為だけが自己実現を実感させてくれるような状況というのは、差別と経済的困窮に見舞われた移民だけの問題であろうか。恐らくはそうではないと、私は思う。


これはこれは  (2005.11.08)

『失われた時を求めて』続き。話者はアルベルティーヌと結局寝ちゃう。
表現が淫靡極まりない。原文と対照させてみたが、原文はそれに輪を掛けて淫靡である。卒倒。



ソトコトという雑誌があるらしいのだが、なんか今月の特集はクラシック音楽らしいですよ。「のだめ」の3文字が脳裏を時速75kmでかすめたが、まあよしとしよう。

明日も仕事だ。


電線ぷっちん  (2005.11.07)

山手線が事故で止まっていたのでやむを得ず迂回。

生まれて初めてゆりかもめに乗った。
そんなときに限ってデジカメを持ってこなかったという迂闊さ。
大変疲れたので寝ます。おやすみなさい。


おおおおおおおおお  (2005.11.04)

コニカミノルタ、コンパクトデジカメ事実上の撤退ですか……(;´Д`)
Xシリーズの後継はもう出ないのね……

『失われた時を求めて』5巻(ゲルマントの方)突入。
祖母の死。臨終の場面はあっさりと過ぎるのだが、それに至る祖母の衰えの描写が何とも痛々しい。人間が年老いていくことの苦しさ、時間の冷酷さ、肉体が取り返しの付かない形で衰えていくことの不可避性、それらが記憶の中で積み重ねられた風景の中で紡ぎ出されていく。
現在というもの、それが可能であるならば、それはこうした無限に近い喪失と空虚感が記憶に沈殿することでかろうじてその延長線上にエフェメラとして成り立ち、それは瞬く間に喪失の彼方に溶解してしまう。だが流れとしての時間はそうした喪失と等価なのだ。
いや違う。時間は流れるのではない。積み重なるのでもない。それを眺めるまなざしの中で生成と消滅を描いている。


……これは凄い作品であるということが少しずつではあるが分かりかけてきたように思う。うまい表現が見あたらないのが情けないが、主題がそれ自体として重みを持つのではなく、作品の持つ構造が全体として作者の時間認識の深さを示しているように思う。


スモーク  (2005.11.03)

都内某所で昼間からワインボトル一本空けて食事。その分夜はシンプル。

大して広くもない喫茶店の屋内で煙草を吸われるのは苦痛でしかない。せめてテラスで吸うべきだ。

さて、明日も出張。最近外に出て話をする機会が多く、そろそろ机で仕事がしたい。

BGM:バッハ『マタイ受難曲』


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