Alcadia欲しいな……
(2005.06.30)
Alcadia X1欲しい……ケースだけで6万近くするというとんでもない代物だけど。 この前はWinXPを使っていて初めてブルースクリーンを見た。職場等でWin2000を使っていた時は出来の悪い特殊アプリのおかげで週に一度くらいはクラッシュダンプ付きのブルースクリーンを拝んでいたが、このマシンでは2年半くらい使っていて初めての出来事だったので少なからず驚いた。さらにはPromiseのSATAとIDE増設ボードの挙動までかなり怪しくなってきた。新マシンを調達したらこのマシンはCPUをGeodeNXにでも載せ替えてファンレスな余生を送らせてやろうと考えていたのだが、それも厳しくなってきたかな……
ギリギリの人間が余裕を装ってみせる引きつり笑いは傍から見ていて悲しくなる。
そうかそうか
(2005.06.27)
ネットの匿名性を排除して実名利用にしたいとさ
そうかそうか。そこまでして国民を監視したいか総務省のクズ役人共は。 余りにも魂胆が見え見えで話にならん。
こんな走狗的なタワゴトをひねり出したのはどこのバカかと調べてみたら、技術屋ばっかりではないか。木っ端役人どもの言いなりになるような技術屋など滅んでしまえ下衆! 報告書案の中味のスカスカさ加減も驚愕の水準だよ(ちなみに私は5分で読んでしまった)……
やばいよ……
(2005.06.26)
メモリモジュールが一つ壊れた。今はメモリ一本だけで使用中。 来週末には新しいマシンを調達しないとダメだな、こりゃ……
マニュアルなんか読まない
(2005.06.23)
デジカメを初めて使う人にJPEGについて説明。「画像ファイル」はおろか「ファイル」の概念を理解させることができず、自分のふがいなさにガックリ来る。どうも、バイナリデータの概念が実体的に把握できないらしい。
だが、そもそも、マニュアルを全く読まない人に一から概念を説明するのはほとんど無理なような気がする。専門用語の羅列で読解には多大な努力を要した昔のマニュアルならいざ知らず、手取り足取りのような最近のマニュアルすら読まない人間はそもそも言語での思考とはかなり縁遠い。そしてそういう人は私が考えているよりも遙かに多いらしい。一昔前は「マニュアル人間」が幅をきかせていたわけだが、今やそれ以下の大衆が多数派らしいというのには卒倒するほど愕然とする。 以前小学校教育の新聞記事で最近の子供はマンガの吹出しすら面倒臭がって読まなくなったとかいう話が出ていたが、その風潮はもしかすると全ての世代を覆っているのではないか。困った。
トップページ変えた
(2005.06.19)
トップページのデザインを変えました。 かなり前の旅行で撮った写真を加工してみました。少し明るいものになったかな。
あちこちのサイトでMusical Batonなるものが回っていますが、回す相手が居ないのに気づいて唖然。
ルーゴン・マッカール叢書
(2005.06.18)
かなり前から見つかる&財政的に入手可能(論創社とか藤原書店から出ているものは高くてなかなか買えない)な範囲でゾラのルーゴン・マッカール叢書を読み進めているのだが、今読んでいるのは『大地』。土地を巡ってのシャルトル近郊の農民のドロドロの人間模様を描いている。話のほとんどが田舎で進むこともあり、他の作品に出てくる人物が顔を出すことは今のところないが、120年前のフランスの社会風俗壊乱をここまで活写したゾラの文学的野心は相当なものだ。文学という単なるフィクションでしかないものを通じて、そこには19世紀末のフランスの社会が余すところなく描かれている。多くの映像資料が動員可能となって今日の有様を諸断片の形で残すことはたやすいかもしれない。だが、ペン一本で、ある時代のある社会をそっくりそのまま構築することは並大抵の所行ではない。例えば90年代の日本社会を小説にして描こうとするのであれば、そこには膨大な量の資料の蓄積が必要となるだろう。120年前と言えば確かに情報の流通速度も量も今に比べれば冗談ではないかと思うほど少ない(何せ都市部以外では新聞は週刊であるところがほとんどだったのだから!)が、それにしたところで社会の構造や傾向、性質を看破するのは並大抵の知性ではできないと思う。そもそもが今の時代ではそういう時代の記録を一つのスタイルに集成しようと企てる人間すら稀かもしれない。そしてそのようなスケールの企てを実際にやり遂げてしまったゾラという人間の無尽蔵とも思えるほどの力量に、ただただ恐れ入るばかりだ。
トラブルは多いのだけれど
(2005.06.16)
マシンのトラブルは相変わらず。Athlon64X2が出たらCPUとかの価格改定が行われそうな気もするので、情報の収集を続ける。DVDのイメージデータ(一々取り出すのが面倒なので購入したものは片っ端から吸い出している)も130GBを越えたので、新マシン調達を機に容量の問題を解決したい。
以前、知人とかと駄弁った時、「楽園なるものが可能であるとしたらそれはどんなところか」という話題が出たことがありました。その場の話では各々がどう答えたのか、またそれに基づいてどう話題が展開したのかは今となってはよく覚えていませんが、私は「自分の存在とは全く無縁であり、それだけで完結して成立する世界」というようなことを答えたと記憶しています。 勿論、今現在の社会と私との関係を考えると、私の存在はこの社会にとって全く必要ではありません。むしろ邪魔で無用かつ無意味な排除対象であると考えるのが妥当ですらありましょう。だからその時楽園の定義としてそのようなことを言ったのは、この世界が楽園であるという意味ではありません。 極めて否定的な形であっても、私がこの世界に存在しているという事実は動かしようがありません。それはすなわち、潜勢的な文脈では、私が存在を、文字通りの形式的な意味での存在は許容されているということでもあります。とりあえず生まれて、死んでいくことくらいは十分可能だということです。 けれども、私が想像する「楽園」なるものは、このような可能性すら全面的に既に斥けているのです。数億光年離れた地点、いや完全に次元の違う世界にそれは存在していて、その世界では、あの人達がにこやかに永遠の時間を過ごしているのです。 そのような世界は私にとっては余りにも眩しく、そして美しく、軽やかな浄福に満ちています。それは私の眼差しすら向けてはいけないような気さえするのです。ただ、そうした世界が存在するのだ、という確信を仮に抱くことができる日が来たとしたら、私はその世界に満ちている多幸感を想像するだけで幾ばくかの希望を味わうことが許されるかもしれないと思うのです。
一切の信仰を拒否している、あるいは虚無の水底に溺没している自我の現状を鑑みるに、そのような物言いは偉そうでナルシスティックな衒示に過ぎないのかもしれません。空は青いとしても、そこに身を委ねられないのは自分可愛さ以外の何物でもないからです。
生き残り
(2005.06.14)
転職することになりそうだ。
就職してから僅か半年で会社を移ることになるのだが、同水準の待遇を確保してくれた転職先にはとりあえず感謝しておくべきだろう。面接では相当な激務であると繰り返し強調されたが、健康管理に気をつけて生き残らないと、とは思う。 前の勤務先の社長机には左翼便覧(サイトがなぜか見つからない日本政治経済研究所編)がこれ見よがしに置いてあり、失笑を禁じ得なかったようなこともあったのだが、今度のところではそういうことがないように期待したい、色々な意味で。
鍛えればここまででき……ない
(2005.06.12)
ハイフェッツ、ルービンシュタイン & ピアティゴルスキー〈百万ドル・トリオ〉を見る。 すごい。特にハイフェッツの「ホラ・スタッカート」の演奏は見事と言うほかない。こんなの生で見せられたら卒倒しそうだ。何であんな速度で一弓での連続した飛ばしができるのかとか、先弓での音が何であんなに太いのかとか。ワックスマンの「カルメン幻想曲」の後半の超絶技巧も人間業とは思えないが、実際の映像で見るとこれはもはや地球上の生物による演奏ではない。そのくらい凄まじい。人間努力すれば何とかなるとはよく言われるが、ハイフェッツのこんな演奏を見せられたら、そんなのは程度の低い到達点までの話でしかない。すごいなあ。一生の間で30分くらいでいいからこれくらいの技巧と才能で楽器を弾けたら人生変わるだろうな、と思う。
あと少し
(2005.06.10)
スワミ・ヴィヴェーカーナンダ『ヴェーダーンタ哲学入門』後半部分の作業が終わったのでworksに掲載しました。残すは詩の部分です。数日以内に公開できればと考えています。まだまだ間違いがあると思うので、明らかなミスを見つけた方はメールにてお知らせ下さると助かります。
追記。詩の部分も修正作業が終わりましたので、まとめてアップしておきました。
マイケル・ナイマンの 「MGV(Musique àGrande Vitesse)」を聴く。5th Regionで浮かび上がってくる主題が何とも言えず美しい。本作品はTGV北部線開通を記念して委嘱されたものだが、TGVあるいはタリスがターミナルの数キロ手前でモーター駆動を停止して悠然とプラットホームへと入る時のあの不思議な高揚感が、最後の単純な旋律から浮かび上がる。そして駅に降り立った時のあの心浮き立つ様といったら! ひたすら旅人と列車を迎え入れる空間として聳え立つターミナルの気高いまでの美しさ! そんな想い出をナイマンのこの曲は浮かび上がらせてきてしまう。ああ、せめて東京駅の東海道新幹線ホームにもこの曲のような気品が少しでもあったら!
食品
(2005.06.07)
先日、新規マシン用パーツ物色のついでに生まれて初めてメイドカフェなるものに行ってみた。店は秋葉ブログでも有名なCuremaid Café。入店時に「お帰りなさいませ」とかそういう類の末法的な応対を予想して行ったものの、とりあえずウェイトレスの服装以外はごく普通のそこら辺にある喫茶。ただし掃除は手抜き気味。 店での滞在時間は90分に制限され、写真撮影は禁止だという貼り紙が各所になされているという辺りがこの店の特殊性を物語っている。あとはエロゲ歌手のいとうかなこのアルバムのポスターが貼ってあったり。店内に背を向ける恰好で座っていたので帰り際にちらりと見ただけなのだが、客にはアキバ系の男子諸君(多分含私)はもちろんのこと、ゴスロリのお姉ちゃんなんかも混じっていたりして、確かにここは秋葉原なのだと認識すること多数。
この店があるのは銀座線末広町駅のそば。小さな雑居ビルの一番上のフロアに入っている。多くのマニアな人々が指摘するとおり、秋葉原の街区としての特異性は整理不能な迷宮性にある程度求めることができる。公共的空間に還元されることのない無数の小空間が我々それぞれの欲望と結託する形で都市の混沌の背景の中に溶け込んでいる。従ってこれらの店は公共の利益とは無縁であり、むしろそれを混乱させる。公共性というジャルゴンが政治的権力による暴力の口実でしかないこの国では、秋葉原のこの混沌は逆立ちした形で極めて人間的な生活性に立脚している。 にもかかわらず駅前ではつくばエクスプレスの開業をにらんで、あるいはどっかの誰かさんが近所に建設されるタワーマンションにお住まいになられる(らしい)という理由からか、極めて整然とした再開発と警察による路上看板の取り締まりが行われている。某地方都市に仕事に行った時の話で書いたことがあるが、このような再開発事業には私はいつも生理的嫌悪を覚えずにはいられない。
ロラン・バルトか誰かが四角形かつ網状に整理された都市は嫌悪感を生むと言っていたが、第三帝政期に行われたパリの大改造(これまた為政者の徹底した都合により企図されたものだが)を羨ましく思うと同時に、私は東京で特に最近加速している「再開発」に絶望感を新たにしている。確かに合理的であり、限られた土地を有効活用しており、外見も清潔だ。全く反論の余地はない。だがそれら数多くの新築ビルを見ていると、私は自分が途方もなく駄目な人間であること、そしてそこからの出口がないことをなぜか痛感する。理性的な囲い込みはベンサムのあの言葉を振りかざしながら薄汚い多くの街区を粉砕していく。だが、まさにそれこそが、私のような堕落した人間の生存の可能性を一つ一つこの地上から剥ぎ取っていくのだ。そしてどこにも出口はない。地上に出口がないとしたら、それは電線で塞がれた空か黄泉の国に求めるしかないのだ。
この地上で生きていくことはもはや絶望と苦痛と等価でしかないのだ。夢見ながら歩き続けるだけの土地も、もはや私の生きる世界には残されていないような気がする。
作ってみた
(2005.06.04)
蒼穹のファフナーとか終戦のローレライとか、あまりにも「四音の二字熟語」+「四音or五音のカタカナ」が多いので、こんなの作ってみました。音数での整理がまだいい加減ですが、遊んでやって下さい。 なお、このネタを作るに当たっては、我楽多部屋様の新商品企画スクリプトを流用させて頂きました。自分でスクリプトを書き起こしたんだけど、なぜか500エラーでうまくいかんのよ……
メルアド変更
(2005.06.01)
転送用アドレスを登録している会社が、6月一杯で無料サービスを止める旨のメールを送ってきた。そんなわけで実際の私を知る方には今月中にアドレス変更のお知らせを送ります。「左大臣」名義で出しているメールはtunnel-company.comのメールサーバーを利用しているので問題ないです。
ギャルゲーにおける「理解されること」の悦楽(月森さんぽ氏) 逆にギャルゲーなるものをやっていて私が大変気味悪く思ったのは、理解というプロセスが全く蔑ろにされているにもかかわらず、いきなりあるいは物語のかなり序盤から完全な相互理解という状況が前提とされていることです。自分の意志が立言されるより先に相手がそれを汲み取って言表化、あるいは好ましい策を示してくれる、こういう場面が続いていくと私は必然シナリオの世界から認識的な乖離を起こさざるを得ないのです。それはギャルゲーなど脳味噌の融解したヲタクが薄暗い部屋の中でニヘラニヘラ笑みを浮かべながらやるような自慰ソフトだという馬鹿げた偏見と大上段からの高圧的な弾劾に由来するものではありません。
私的な打ち明け話をすることが許されるのであれば、私の本名は漢字で書くと頻繁に間違われるもので、読みに到っては初対面の人からは正しく読まれたことがないような代物です。そのような事情もあるためか、私は幼少のかなり初期の時分から、他者から自分が理解されることを諦める、正確に言えば相互理解そのものを完全に否定するような他者観が出来上がっていたように記憶しています。
ではなぜこんな言い訳がましいことを書くのか。それは恐らく、相互理解を否定するくせに自己に対する理解だけはわがままな幼児のように渇望する性根を私自身が完全に捨て切れていないからなのでしょう。もしかするとそれは多くの人に共通して存在する欲求なのかもしれませんが、そのような渇愛と形容すべき衝動が内面で蠢動するのを感じる時、あるいはそれを認める時、私は言いようのない自己嫌悪に陥ります。自分というものを、エゴというものを揚棄することでより兼愛非攻な精神そのものになることはできないのか、と絶望せずにはいられないのです。 大分話がそれましたが、以前私がONEをやった時に驚いたのは、まさにこのような他者と自己との徹底的な共約不可能性がスクリプトの各所に散見されたことでした。他者を無限に遠ざけてしまうことの根拠は同作品では主人公であれば「みさお」を(恐らく)小児ガンで喪うという体験に求められるわけですが、孤独や疎外感や絶望に苦しめられることもなく他者との甘ったるいコミュニケーションを満喫してしまうような凡百のギャルゲーの関係性にうんざりし、実際この手のゲームは無益であると判断しかけていた私にとっては、それはある種の驚きでありました。
相互理解、少なくとも自己が理解されることについての懐疑と否定は今でも私自身の他者観の核をなしています。恐らく、そういう現実的宥和への淡い期待を徹底的に切り捨てるためにも、長くも短い人生の中で色々と挫折を繰り返していくことになるのでしょう。論理的に考えればそんな人間には恋愛なんか無縁であるはずなので、ギャルゲーをやっている段階でダメダメだと言えばその通りなのですが。
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