2005年05月
久しぶりの内容追加  (2005.05.30)

Worksのページに、スワミ・ヴィヴェーカナンダ『ヴェーダーンタ哲学入門』のOCR作業が終わった分までを掲載しました。とっくの昔に絶版で、コピーしてくれと結構な頻度で頼まれるので、大分前からデジタル化の作業を行っていたのですが、暇を見つけてダラダラやっていたらかなり遅れてしまいました。残りの部分も目下作業中ではありますので、出来次第公開できたらとは思います。


偉そうだとか言われるけどさ  (2005.05.28)

実は、サイトなるものを開いてかれこれ8年近い。確か97年の暮れに当時契約していたプロバイダ(まだまだパソコン通信なるものが生きていた時代でもあった)で開設し、各地を転々としつつ今に到っている。途中空白の時期はいくつかあったものの、思えば長い間飽きもせずダラダラとやってきたものだなと思う。

一日当たりのアクセス数が最高でも30前後、今ではせいぜい5〜10程度(検索ポットを除くと実際は2〜3程度だろう)の貧相なサイトを細々とやっているのはなぜなのだろうと考えてみることが間々ある。

それは恐らく、内面に抱えた各種のコンプレックスと無力感そして絶望、あるいは怨恨を言表化してやり過ごすためだ。お調子者で軽佻浮薄を絵に描いたような性格の割に思想などを中途半端に囓ってしまっている私に内面性などあるのかという問題は実際あるが、いずれにせよ表現という手段を持たなければこの種の負の意識は救いようのない水準で心身を苛んでいた。だからこそ性懲りもなく閉鎖しては再開、ということを繰り返しているのだと思う。その割に某巨大掲示板の哲学板のあるスレで「偉そう」とか「痛い」とか言われているのは知ってはいる。確かに内省的な性格は薄い日記ではあるし、リアル友人達が結構読んでいるらしい手前色々と書けないこともあるのだが。


……とするとこのサイトの基本的性格は私自身の自己満足、あるいはマスターベーションに過ぎないという指摘は全く正しいし、内容面でもそれを否定する要素は全くないと言っていい。このサイトで人様の役に立つような、あるいは知的関心を満足させられるような内容は無いし、日記も恨みがましくいじけた水準を低回しているだけだ。全くの他人が読んだら、こんな陰々滅々としたサイトの管理人はとっとと線路に身を投げろと言うとは思う。夜空の星が欲しいと駄々をこねたり、救助を拒みつつメーデーを叫んでいるような自己中心主義の世間知らずはとっとと沈黙するか、そもそも人間として生きているべきではないのだ。


だから、時折サイトを全て閉鎖してしまおうかという衝動に強く駆られることがある。自分が書いた手紙書類も全て捨てて、どこか誰も知らない僻地で全くの別人として再出発できないものかとも頻繁に思う。白痴になって全人格を破壊して打ち捨てられればとも思う。その時空は恐らく青く、硬膜を吹き抜ける風は涼しく澄んでいるに違いないと夢想するのだ。


色々な意味で疲れ果てている。だが書くことで廃墟が廃墟として手に掴める対象になるような気もする。言語を失えば、私は今すぐにでも狂人になれる。そうなりたいのも一方では事実だ。しかし私は今なぜここでまたキーボードを叩いているのか。もう一人の私などいはしないのだから、それは他者に対するある種の甘えが根底にあるのだろうとは思う。だとすればなお一層こんな文章は書いているべきではないのだ。

どうすべきなのか、正直分からない。混乱している。疲弊している。


Er ist der Welt abhanden gekommen.  (2005.05.27)

さて、先週来の続きだ。


よく訪れていたサイトがあった。
日記などの文章がメインのサイトだった。

そのサイトの管理人はもうこの世には居ない。それを確認したのは、つい先日のことだった。なぜ、という邪推は無意味なので止めておく。この人が不在であるという事実があれば十分だ。

ショパンやモーツァルトを愛した彼の文章は、例えばK.467の中間楽章がそうであるように、我々が立ち入ることを禁じられているかのような繊細な優美さに満ちている。読み手に対して一切言を荒げることのない奇妙な明るさと柔和さは、深き淵に眠る沈黙の園の絶望を暗示するに十分だったように思う。
全ての人に開かれているということは、全ての人を拒絶することの上に辛うじて成り立つ。優しげで明るい暖かさは、時の終わりを目指して進む魂の、冷徹なまでの一切の価値に対する虚無と絶望を伴っている。

彼のweb日記は、表層の交換を以て意思疎通と看做し、金銭の多寡を以て幸福の成就を判ずるような凡百の意識とは決して相容れないものであり、その覇権の下で生き延びるにはその魂はあまりに純粋で素直すぎた。経緯はどうであれ、早晩生命を根こそぎ奪われるのは彼にとって極めて自明の運命であったように思われる。また、それを避けることも望まず、全ての終わりに従容として身を委ねることこそ、唯一可能な選択ではなかったろうか。生そのものが現実として苦痛にしかならない意識が求めざるを得ない宥和と希望の世界は余りにも遠く、その否定的潜勢力を我がものとして飛翔するには、この世界の重力は余りにも重すぎる。




かつて貧しかったラザロとともに、あなたも永遠の安息を得ることができますように。


相変わらず  (2005.05.25)

パソコンの調子が悪い。
もう一台新しく組むかもしれない。金がないのにこれかよ……
新規調達する必要があるもの(最低限の場合)
・マザーボード
・CPU
・CPUファン
・ビデオカード
・HDD(SATAの)
・OS
ううむ、Athlon64ベースで一台組んだら10万近いな……。
メモリが死んでる可能性を考えると更に高く付くな。困った。

東浩紀『動物化するポストモダン』今ごろ読了。概要とかはさんざん聞かされてきたからなぜか今まで読んでなかった。
ううむ、物足りないなあ(;´Д`)2時間で読んじゃったよ……。
新書だから内容の薄さは仕方ないとしても、読後に少々気になるのはこの本がどのような層をターゲットとして書かれているのか、ということだ。新書程度の内容といえば通常は高校生〜大学生程度と時間のない社会人で手っ取り早くネタだけ仕入れたい人というのがメインのターゲットになるのだが、ヘーゲルとかコジェーヴとかジジェクとかボードリヤールをガシガシ持ち出す割にはそれをどのように読者に提示しようかという点が曖昧に思える。限られた枚数で苦労した、といえばそれまでなのだろうけど。あと、論考の最後にYU-NOを持ち出すのは時系列的にどうなのよとか思ったよ。そりゃ菅野ひろゆきはある時点までは極めて優れたシナリオ書きだとは思う。この種のゲームの分岐型シナリオの構造そのものをメタ的にシステムに組み込むという発想自体に当時はひどく驚いたのも事実だったからだ。

易しくかみ砕かなくたっていいからハードな文化批評で押し通すべきだ、と感じたのは私が院生崩れとして立派に腐っていることの証しなのかもね。そう振り返ると辛いあ……
Amazon.co.jpのカスタマーレビュー読んでると結構「難解」という感想が目立つ。この程度で難解なんだから私の晦渋グチャグチャ句読点飢餓状態同語反復皆無括弧書き及び指示語多用神学哲学精神分析用語頻出の文章は確かに人によっては嫌味なくらい難解なんだろうな。これが今回最大の収穫でした。


マテリエル  (2005.05.22)

パソコンの調子が悪く、ここ二日ほどドライバー片手に格闘して疲れました。そろそろ新しいのを一台ゼロから組んだ方がいいのかも。

明日続きは書きます。おやすみなさい。


年を取ってしまったよ  (2005.05.20)

本棚に未読のまま積んであった田中英光『オリンポスの果実』を読む。大昔に模試だったか問題集の課題文だったかで読み、かなり鮮烈な印象は残っていたものの作者のことを寡聞にして知らなかったため忘れていたのだが、去年の秋口偶然に古書肆で見つけて購入、そのままにしてあった。

短い作品なので数時間で読了したが、鮮烈な昔の印象通りの作品だった。失われつつある自らの青春への感傷とアポロン的な正直(せいちょく)な美しさへの讃歌。それが熊本秋子なる女性への思慕を媒介にすることで一点の曇りもない作品の内実を形作っている。通常ならこの種の作品は主観的な満足に終始し、私小説であればそれがなおさら鼻につくのだが、この作品ではそれが作品全体を貫く主人公の廉直さによって救われている。そしてこの姿勢は作者の性格そのものでもある。本作品公開時既に28歳だった筆者は8年後、太宰治の墓前で自ら命を絶つが、その帰結は本作品の中に既に予告されてもいるように感じる。この作品の主人公である坂本のようなメンタリティの人間にとっては、一個の生命として生き続けていくことは実質不可能に近い。そして、自らの内面の持つ悲劇的な帰結の不可避性は本人が最も了解しているにも関わらず、普通の人として生きることがどうしてもできない。この劣等的意識とその反映である自らへの徹底的な自負との狭間で、田中英光のような人間は破滅という形でこの社会から排除されざるを得ない。

多分、明日に続く。


ニカデモスの怒り(それ違う)  (2005.05.19)

〈ここから敬体〉

カードの与信情報の話

少なくとも、私が使っている関西系金融機関が日本総代理店のカードは与信情報がかなり差別的で脱力的です。カードを作ったのは学部学生の頃だったのですが、利用限度額が10万円だったとはいえそもそも給与所得のない学生がカードを持てるって何か間違ってませんか? 院生になったら勝手にカードが切り替わって与信額が30万円になってるし、1万円ちょっと口座に入れ忘れた友人はあっさり強制退会を喰らったらしいし毎月一応きちんと耳揃えて払ってる(20円不足してたとかそういうそういう微細な延納は数度あるけど)私は旅行とかで一時的に与信額を50万くらいに上げる作業もあっさり認めてくれるしなんかデタラメ。勿論会員登録情報は面倒臭いので全然いじってないです。

まあこの手の与信情報は仕方ないかもしれないですけど、この会社が発行しているもう一種類の別のカードが「アミティエ」って名前で、女性が学部卒業時に就職先を登録しないと基本的にはこのカードに自動的に切り替えられてしまうという話があります。で、このカードは実は与信額が10万円のままで、月ごとの支払いのタイミングを考えると実質使えるのは6~7万程度ということになります。

で、周知の通り「アミティエ」っていうのはフランス語で「友情」という意味であって、なんかこのネーミングからは「社会的な信用のねえお前らに友情でカードを作らせてやってんだよ」というカード会社のカール・ゴッチばりのふんぞり返りっぷりが窺えて殺意を覚えますね。さらにはヤローだと勤務実態が分かってそれなりの収入があると20代では「ヤングエグゼクティブカード」というバブル感溢れるゴールドカードに出世(としておこう)するという事実。系列自動車会社が大変なことになっている某大手商社に就職した先輩が飲み会でこのカードをひけらかしていて鼻の長さ300メートルくらいの天狗っぷりでした。

さらに。このカードの代理店の関連銀行に給与振り込み用の口座を開いたところ、速攻で「お前ここ最近はちゃんと払ってるし、もう30代だからゴールドカードを作らねえ?」というご案内が来たりもしました。ああ怖い。単なる偶然の一致なのかもしれないが、邪推が当たっているとすればこれは個人情報の横流しではないの? 邪推だけど。

ああ、金貸し屋の業界って本当に怖いですねえ。

※悪口探査bot避けにこの文章だけネームエンティティに変換してあります。タグの整合性のためにちょっと普段の日記とは体裁が異なっているところもあったりしますが、読めればいいやというアバウトさでご容赦下さい。

〈ここまで敬体〉


推薦状(卑怯者と嗤いたければ嗤え)をもらうついでに某教授と世間話。某学部の惨状を聞き、愕然とする。
その教授は実は「日本人」でも英語圏の出身でもないのだが、某学部では授業とかを英語でやらされているらしい。そりゃ英語くらいはその教授にとってはラテン語よりも遙かに楽ちんポンな言語だし実際家族とは英語で意思疎通をまかなっているのだが、ふざけた話だね。一応「授業は全て英語」というのがこの学部のウリらしいのだが、「非日本語=英語or中国語」という発狂するようなレベルの低い発想で某教授に英語での授業を押しつけているのであれば、それは人材と頭脳の浪費のように思う。事実、某教授はかつて英語以外の某言語で全ての授業を行っており、その最上級クラスには今や教授になっている皆様も少なからず参加していた。私が初めてそのクラスに出席した時、柄にもなく恐怖を感じたのを今でもはっきりと覚えている。
※簡単に人物名の特定が可能な業界の話なので、匿名扱いの話が多くてごめんなさい。

この話を聞いていて思い出したのは、明治初期、東大創設直後の話である。学問の圧倒的多数を欧米からの輸入に頼っていた日本は、当時東大の教員のほとんど全てを欧米の外国人でまかなっていたため、当然授業は英語とかドイツ語とかフランス語だった。それに異を唱えたのが当時できたてホヤホヤの早大の総長の高田早苗であった。で、「そんなんじゃろくすっぽ学生が理解できないだろ学部程度の授業は日本語でやれ」と主張して大半の授業を日本語による講義に切り替えさせたという。今英語での授業をウリにしている学部は結構多いが、明治時代の状況がひっくり返るほど日本の高校生とか大学生の語学力は進歩したのか? アナウンサーとかを沢山沢山輩出している某大学某学部に帰国子女枠で入ったはいいが選択外国語のドイツ語が全く理解できずに救済レポートの添削を依頼してきた知人を見る限りそれは疑問かもねとか私は思う。ちなみにその大学は私のいた白痴大学の低能学部とは比較にならないほど偏差値が高い。


無題  (2005.05.15)

「知ってるかな。夢っていうのは呪いと同じなんだ。
 途中で挫折した者はずっと呪われたまま、らしい。
 あなたの、罪は重い。」
                              (仮面ライダー555)


現実が虚構に見捨てられる時  (2005.05.13)

「現実と虚構の区別が付かなくなって……」というお決まりの説明を最近また多く耳にするようになった。続発する重大性犯罪とエロゲーなどのメディアとの相関を指摘し、それらを糾弾するためのクリシェとして持ち出されることが多いこの言葉を聞く度に、どうもある種の訝しさを抱かずにはいられない。普通の日常生活を営んでいる人間の判断力が「現実」と「虚構」をあっさり混同してしまうほど脆弱なものではないと私は思うのだ。ダーニエール・シュレーバーの回想録とかセシュエの『分裂病の少女の手記』が証言するように、妄想と現実が混じり合って区別が付かなくなるというのは精神を狂気に犯された状態でしかない。そして、昨今の性犯罪者がシュレーバー症例そのままのような言動を繰り返しているかというとそんなことは全くなく、極めて淡々と自己の犯罪の経緯を述べている。つまり、彼らにとっても、現実と虚構であるエロゲーやエロマンガの世界は厳然として別々の次元に属しているのである。

ではなぜ「ゲームの世界と現実の世界を転倒したような」犯罪が起こるのか。いやむしろ、これは犯罪に対するこのような定義と認識枠の設定自体に問題があるのではないか。つまり、ゲームで是とされている行為の文法を、現実に屹立させる自己意識の起点にすることによって、ようやく彼らは自らの生に対して常に敵対的である「現実」に対抗すべき拠点を確立せざるを得ないのではないか、私はそう考えるのだ。

なぜ、「現実」が生にとって敵対的なものであり、敵対せざるを得ない全体として我々の主観に意識されるのか。多くの人々にとってこの点は疑問に付されることすらない。だが生まれつきの身体が、環境が、あるいは偶然が自らに黄色の端布を烙印する時、我々は社会がそれらの圧制の元に成り立つ希望なき全体であることを知る。その中では我々はいかなる現実的方途も、敵対的全体としての現実に従属することにより模倣したとしても何らの内的満足をもたらさないことを日々痛感せざるを得ない。職業が単なる生活維持の手段に堕している日本の今日ではそれは多くの人々が具体化されない不満として抱いていることではあるが、このような挫折と苦痛と無力感と絶望が蓄積され、ある閾値を超えてしまう時、我々の意識を維持するための方法は現実そのものを、そして恐らく自己をもラッダイト運動のごとく破壊する方向に向かう。そのための手段が呪詛的暴力としての凌辱であり、内的破壊として無力感の表明を徹底化する練炭自殺ではないのか。

旧来のような自己満足型快楽追求ではなく、模倣(ともすればミメーシス)としてメディアの影響下に性犯罪に走る人間が増加するのだとすれば、彼らは自らを打ちひしいだ「現実」なる靄のような城に自己破壊的な徒手空拳の最後のバンザイ突撃を仕掛けるのである。無論、結果は賽をその手に握った時から分かり切っている。そして現実と虚構の埋めがたいほどの溝はよりいっそう深まり、かつて虚構がその潜勢力として有していた現実のある事象を批判すると共にヘテロトピアの夢を、あるいはそんなものが存在しないのだという世代の絶叫を叩き付ける(例えば世間では萌えゲーの典型とされている『Kanon』が実は血縁家族制度への憎悪に似た批判を秘めていることは私が既に書いたとおりである)力は、それら作品の虚構としての真の力を認めない大衆の蔑視によってより一層商品化のサイクルの中で消滅していく。そしてそのような認識態度がより現実の我々の日常風景を荒廃させ、生そのものを踏みにじり絶望を数多く生産するだけの装置として社会はシステム化を進めていくことになるのである。

性犯罪は被害者の心に与える傷の深さも含めて、決して安易な懲罰主義で放置されるべき問題ではないとは私も思う。だが真の問題は、現実と虚構を区別する能力の喪失ではない。両者を相互批判の相に切り結ぶ解釈的意識の欠落と、そうした営為を鼻でせせら笑う「大人」の支配するこの社会の知的水準の救いようのない低さなのである。より多くの人間が虚構に耽溺することで現実を切り裂く刃を持たなければ、現実は虚構に見捨てられることになろう。現に、我々の世代の一部は、「日本」を見捨て始めているのだから。


そうはいっても  (2005.05.10)

汝の敵を愛するのは難しいよね……
眠剤で頭が澱んでいて腐りそうだよ。


パガニーニの主題による狂詩曲  (2005.05.06)

中学、そして高校時代、極めて頭脳の明晰な友人がいた。ずば抜けた語学力と天才的な彼の論理的構成力は恐怖すら感じさせるものであったが、幸いにして選択語学も同じということもあって魯鈍な私ですら時としては彼と議論を交わすことも少なくなかったように記憶している。普段はフランクで親しみの持てる友人であった。

そして、高校2年の時、音楽の試験で偶然にも彼とアンサンブルを組むことになった。友人も少なく、アンサンブル相手に事欠いた私がピアノを嗜む彼に頼み込んだのが実情だったような記憶があるが、学校の防音室での練習では余りにも不足だということで、テスト前の日曜日、彼の家で丸一日かけて特訓を行うこととなった。

苦労の末それなりにテストで点を貰える代物に仕上げて日も傾いた頃、彼が本棚から一枚のCDを出してきて私に聴かせてくれた。「聴いたことあるなあ」と間抜けな感想を漏らす私に、彼はその曲がラフマニノフの『パガニーニの主題による狂詩曲』の中の第18変奏であること、そして当時の彼はその曲が大変お気に入りであることなどを教えてくれた。初めて聴くラフマニノフの旋律は、西日が差し込む彼の部屋の中で黄金色よりも更に眩しく燦然と煌めき、アンサンブルによる緊張で疲労した私の感覚を眩惑し、拭活した。



それから10年近い時間が流れ、全く別の道を低回していた私のところに、彼の悲報が飛び込んできた。留学から帰国後、あまりにも過密で徹夜続きが多い仕事の中で摩耗しきり、そして半年と経たずに斃れたという。ただの物体と成り果てた彼の髑髏(されこうべ)を斎場で目にするに及んで、彼にまつわる想い出の一切は物言わぬ鉛の塊として深海の最も深いところへ幽れていった。彼はまだ生きており、目も眩むほどの光輝ある才能を発揮し続けているはずなのだ。


そして更に3年以上の月日が過ぎ去り、昨日偶然FMラジオで『パガニーニの主題による変奏曲』第18変奏を聴いた。


声を上げて涙を流したのは何年振りのことであったろうか。遠く過ぎてしまった、あの園の目覚めと共に降り注いでいた希望は、なぜこんなに錆び付いて朽ち果ててしまったのだろう。そしてなぜラフマニノフの旋律は今も何も苦しみが存在していないかのごとくひかり続けているのだろう。流れ失われた時間に冀うことが許されるなら、呪われ歪められ断ち切られ踏みにじられたこの希望の残骸に、せめて一滴の慈愛を恵んで欲しい。


build by HL-imgdiary Ver.1.25