2005年03月
脳を鍛えるとかマジうざいんですけど  (2005.03.26)

遠い知人が50代にしてアルツハイマー病を患っていることを知り、ショックを受ける。

最近流行りの「脳を鍛えて幸せ生活」つーのは外的現実から逃避するための方便でしかないように思うんですがそのあたりどうなんでしょうか?


だるいー  (2005.03.23)

仕事が忙しい。
そりゃ毎日12時間も働いてるんだもんなあ……
一ヶ月くらい冬眠したい。最近ストレス溜まりすぎで破綻寸前。
まあ、パー相手の会議がない分だけマシだが、先日は田吾作(差別用語なのでATOKでは変換されない)業者への聞き取り調査でかなりゲンナリ来るし。あんま大きな声では言えないが、飛び込み営業が余りにもアグレッシブすぎて警察を呼ばれたような会社なので、みんなヤクザ極まりないよ、その会社。営業部隊は使い捨て同然の扱いらしいし、そんな惨状を目にする度に、全泰壹の壮絶な人間宣言が頭をよぎるのですよ。

何でこんな国になっちまったかなあ……


存在するものは個物だけである  (2005.03.16)

「日本は謝罪しる!」と言われてもなあ……


輸入食品総合商社トンネルカンパニー  (2005.03.13)

カルフールがイオンに売られるということで、幕張の店に行って来た。
目的は(日本では)カルフールでしか手に入らないコキエットというショートパスタをカートン買いするため。ちなみにどんなパスタかというと、『アメリ』でアメリがチーズをかけただけで食べようとしていたヤツだ(イメージ画像参照)。フランスで食べるパスタの類は大概アルデンテからはほど遠いドロドロ麺なのだが、コキエットなど一部のパスタはイタリアでは生産されていないため、ブイトーニとかのイタリア有名パスタメーカーも生産していない。そんなわけでコキエットだけは成城石井でも紀ノ国屋でもカルディコーヒーファームでも売られておらず、少なくとも私が調べた限りではカルフールがコキエットについては唯一可能な入手先ではあったのだ。ちなみに現地ではコキエットはどこのスーパーでも一袋(500g)1ユーロ程度のバカみたいな安値で売られており、学食なんかでは付け合わせの定番でもある。


ところが。


去年一杯で取扱をやめていて現在は輸入もされていなくてストックもないとさー!


カルフールに行く理由がなくなったので、もう二度と行きません。

楽天にも取扱をしている店舗がないようだし、冗談抜きで趣味と実益を兼ねて販売代理店契約を結ぶべく、策を検討するか。
会社法の改正で、07年にはタダ同然で会社が設立できるようだし(銀行への供託金は当然発生するわけだが)。


楽天街に  (2005.03.03)

十日間ほど出張に行ってました。一つだけやり残したのがあるのでまた半月くらいしたら出張なのだけれど。

なんつーかですね、疲れたよ。
キャンキャン威張りたがるやかましい連中を適当にやり過ごして情報を仕入れてくるというのは。

新しい建物だらけの街区をウロウロしていると、自分がいつの時代に生きているのかよく分からなくなる。確かに最新設備てんこ盛りの立派な建物は中に住む人間にとってみれば快適この上ないのだろうとは思う。だがそうした建築物の猛烈なスクラッチ&ビルドという一連の過程が、街の風景から時代性を根こそぎ奪い取ってしまったのではなかったか。木造家屋を片っ端から破壊し、老朽化したビルを取り壊して新しい伽藍を建立するのは確かに経済性の原則及び防災という観点からは正しいのだろう。だが、その過程で、我々はかつてその場で息をしていた人々の人生の積み重なりを押しつけのようにしてでも意識する機会を失ってしまう。かつてヴィーンのムジークフェラインザールを訪れた時に感じた、あの大型プレス機のような歴史の重みは、快適で便利なインテリジェントビルからは綺麗さっぱりと失われているのであり、街並みにしてもそれは然りだ。かのホールの金色の装飾から滲み出てくる大音楽家達の歴史は、少なくともこの地においてはまず味わうことができない。バスティーユ広場に立つと今も尚感じる革命の息吹(それは今日でもデモがこの広場を経由して行われることが多いからなのだが)は、新宿西口地下広場で感じることはできるものではない。だから私は一部の人間が「伝統」を声高に叫ぶことに対して、反発ではなくむしろ最近では空しさと悲しさを感じずにはいられない。

そんな空間に――しかも空は電線で覆われていて薄汚く――生きていて、自分の過去をすら時には再開発の美名の下に完全に奪い去る日本の大都市は、人々から世代、あるいは時代の重層性を確実に剥ぎ取っていく。そして我々は眼前の直接性にのみ従属することで多くの価値判断を行うようになってしまうのだ。
だから廃墟は、その利便性とは全く逆の形で、その豊饒な時代性のリアリティを私に教えてくれる。陋巷に点在する解体予定の公営住宅にこっそり足を踏み入れ、その中庭に立つと、かつてそこで暮らしていた人々の風景が生活の音と共に私の前に現れてくる。それは現実としては確かに豊かで便利とは到底言い難かったものだろうが、その故に人間が生を刻印するための格闘の痕跡をある種のの立体感として私の感官に幻視させてくれる。逆に、その近隣に立つ高層マンションなどのエントランスを通っても、そこから立ち現れてくるのは外部の存在に対する頑なな拒絶と、ホルムアルデヒド臭のするシステム化された生活様式の骸骨のみだ。

私達の都市空間は、私達の生の通時的な意味と内容を、どこに据えようとしているのだろう。
この国に生きていて私を時折陰鬱な幻滅に浸すのは、公共的空間の、かくの如き救いがたいほどの貧しさなのではないかとも思う。


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