2004年11月
燃え尽き  (2004.11.30)

この前の日曜日は東京日仏会館にてDALFの試験を久しぶりに受けてきた。B1,B2は苦闘の末に大分前取得したので、今回の対象はB3(と来週の日曜はB4)。2時間半ほとんど休みなく書き続けだったので、精神肉体共に疲労が堪える。昔ならこの手の疲労は数時間寝れば回復できたのだが、最近はそうも行かない。老けたものだと痛感する。問題内容はパリの住宅難と地価の高騰に耐えかねて地方へと脱出する人が増えている事に関しての総論の作成。日本のDALFは比較的易しい(DALFは実施する国や地方によって難易度が結構変わる!)と言われているが、まあ乏しい作文力ながら全力は投じたので、なんとか合格していることを祈ろう。でも結果通知は二ヶ月も先なんだよな。
この試験では先日知り合った仏文専攻のM1の院生と会った。世間は狭い。しかしM1でDALFを受験するというのはさすが仏文の院生だなと思う。自分がパリのアリアンスで受けた時は準備不足もあって惨敗に近い敗北を喫して落ちたし。

来週の試験は所与のテキストについての口頭発表(exposé)と質疑応答。要項には20分とか書いてあるが、実際は30分くらいやるらしい。先だっての旅行でもフランス語の知識がかなり腐りかかっていたので、技術の再構築を急がねばならない。


皇国の四方を守るべし  (2004.11.27)

あー、靖国問題とかの記事をよく目にするですよ。
日中首脳会談での中国側の冊封体制を彷彿とさせるような言いっぷりには失笑を禁じ得ないとしても、安倍とかの無能タカ派が靖国に祀られている(とされる)人々を「国のために殉じた英霊」と括っていいのか。
少なくとも、『きけ わだつみの声』などを読む限り、自ら身命を皇国日本のために進んで投じたという人間は圧倒的少数である。兵役が義務であった戦前の日本では、戦死することは決して従軍の意志と等価に見なされるべきものではない。戦死はむしろ徴兵の一つの結果として逃れようのない状況の中で導かれたものであり、その意味では自分の死が国の興隆に不可欠のものであると考えたような人間はむしろ戦争精神を鼓吹する側でしかないと考えるのが自然だ。従って戦争で殺された兵士の大多数は「国のために殉じた」のではなく、「国の(富国強兵と対外拡張主義の政策の)せいで殺された」と形容するのが自然だと思われる。とすると、彼ら戦死者の大多数は「英霊」などという自爆テロを煽る連中の用語法では慰霊のしようもあるまい。むしろ彼らは「英霊」などではなく「被害者」であり、国家あるいは軍国主義を加速させていった時代によって殺戮の対象となったのである。
それをあたかも命を抛つことそれ自体が彼ら兵士の本望であったかのように礼賛イデオロギーを撒き散らすこうした連中のやり口は、自らが皇国の四方を守るが為に命を捨てようとしていないという点で、最も悪辣で卑劣で恥知らずで卑怯で醜悪な態度である。

国家が彼ら被害者に対して謝罪を表明するというのは理解できもしよう。いかなる美辞麗句を並べ立てようとも、彼らが殺戮の対象となって命を奪われたのは事実だからだ。だが、神仏として尊崇の対象に祭り上げるというのは、死者に対する冒涜もいい加減にしろと言うべきだろう。

安倍君よ、もし君が「ヤスクニの正しさを証明するために私は馬車馬のように働きます」といって一年も経たずに過労死してしまったとしたら、そしてその結果として拉致問題が大きく解決に向けて前進するとしたら、少なくない人が君を靖国という名のヴァルハラに祀ることだろう。私は生温かく見守っているから、是非ともそうして欲しいものだ。


ゲーマー予備校  (2004.11.25)

これっていわゆるシミュレーション型のギャルゲーのことではないのか? つかネタの源は明らかに秋葉原方面でないかい?

「『V-girl』のキャラクター、『ビビアン』に(生身の女性に対する)勝ち目はあるだろうか?」(本文より)

日本では局所的に圧勝でした。ええ。


そんなわけで  (2004.11.24)

翻訳事務所から連絡来ず。こりゃ悪質なのを承知で放置してるね。
ちなみにこの業者は●ローヴァと言う。グーグルで検索するとトップできちんと引っかかるのだが、翻訳事務所というのは大なり小なりこういうところなのかと思う。というのは、某美容室に作ってもらったフランス語版メイクカルテ(特許を出願中らしいが)は当然翻訳事務所に投げたものなのだが、ものすごい間違いだらけで、とてもじゃないが文章でイメージを伝えられる水準に達していなかったからである。中高で世語になったT先生なら鹿児島弁てんこ盛りでぶん殴られるところである。仏作文とかがヘタクソで知人からいつもいつもいつもバカにされる私ですらそう思うのだ。例えば、
・ボンネット(縁なし帽)を「bonne」。ぎゃー、ジュネですか
・「このようなものです」を「comme ga」。おそらくçと手書きされたものをgと勘違いして入力したのだろうとは思うけどね。
これに比べれば某K村氏がデリダに質問した時の「Je existe〜」(エリジオンをしていないだけ)など可愛いものである。

あまりにひどいので件の美容室には連絡してドイツ語版とイタリア語版も見せて貰ったのだが、これもまたものすごい間違いだらけ(例えばドイツ語は前置詞と定冠詞の縮約を間違えていたり、名詞が小文字で始まっているとか合成動詞の分離がアレレなどなど基本的なところがボロボロ)。デカい仕事ではないということで単に事務所側からナメられただけなのかもしれないが、A41ページ6000円〜という翻訳の相場を考えるとそんな雑な仕事でいいのかいな、とその時は感じた。なお、ここでその美容室の名前にピンと来た人は、そこで作ったカルテがあれば左大臣謹製バグフィックス版を差し上げますよ。

まあこの美容室もかなりアレゲなところはあってそれはそれで後日書こうとは思うのだが、なんかこの業界、ハッキリ言ってかなり胡散臭いですね。公明正大な正義がまかり通る世界の方が少ないのかもしれないけれども。


真っ赤に  (2004.11.23)

「萌え」は、死んだ。
この語を振り回す人間はもはや商業主義の奴隷だ。

考察近日公開かも。

ああそうだ。一つ書いておこう。
かれこれ一月ほど前に、とある翻訳事務所の請負登録のための一次試験にパスした。サイトに書いてある規定によるとその後トライアルが送られてきて、それにパスすると本登録になるそうなのだ。で、CVを送ってやったのだが、待てど暮らせど何も言ってこない。半月ほど前に早よトライアル送れとせっついたら速攻で返事が返ってきて「言語と分野を知らせろ」とかのたまっていた。ずっと前にフォームにその旨記入して送ってるよもしかしてあんた方のサーバーはsendmail入れてませんかさもなきゃ担当者間で連絡がバラバラですかとかいろいろ罵倒台詞が頭の中を駆けめぐったのだが、とりあえず返事してやったところ今日段階で未だに返事がない。さすがにカチンときたのでいい加減にしねえと求人広告代理店に連絡するぞと書いてメールしておいた。

さて、どうなることやら。先方のやる気がないなら会社名を公開する予定。


旧交を温めず  (2004.11.21)

ある資格試験を受けに行った。
結果はかなり微妙な惨敗を喫したのだが、この試験では昔はよく中高時代の友人に会ったものだった。会場が渋谷の近くに位置することから、そのまま渋谷界隈で酒盛りあるいは食事を、というという展開が多かった。同じ大学・学部に進学した人間が皆無だったこともあって、私自信は同期の連中とはかなり没交渉だったのだが、このような機会は久しぶりに旧交を温める機会を与えてくれていた。
だが今回、5年だか6年ぶりにこの試験を受けるに及んで、会場には私の知人は誰一人としていなくなっていた。この資格全体が持つ退潮傾向もあってか、会場自体も何か寂しげな、覇気のない雰囲気が漂っていた。

時代は移り変わり、人もまた然りである、というのはたやすい。だが、そのような状況にいざ自分が身を置いてみると、なんともそれは言いしれぬメランコリックな気分に人をしてくれるものである。

多分今回は落ちたので、また来年に向けて勉強を開始しなければ。うう……。

※アクセス解析cgiを設置してみました。データが溜まってきたら、URLを公開する予定ではいます。


いつものことでよくある話で  (2004.11.20)

入社試験が毎日毎日。精神的にかなりキツい。2週間くらい冬眠したい。

それはさておき、惨頸の記事でこんなのを見つけた。スゲー作為的な記事で結構笑わせて貰った。確かに日本の外交姿勢はヘナチョコで弱腰だと随分前から叩かれ放題に叩かれているが、それはさておくとしても北朝鮮がこれまでに外交交渉の場で下手に出てきたことがあったか?

答えはノーだ。ニエットだ。タモリが真似していたように、地下鉄の構内アナウンスに軍歌を使うような連中が、いくら援助が絡むからと言って手をこすり合わせてヘイコラするとでも言うのかい? 特に憎っくきチョッパリイルボンが相手なんだから、そのあたりは旧宗主国の中共に対するのとはわけが違う。逆に空意地と虚勢のオンパレードをかますほうが自然というものだ。少なくとも私ならそうする。それで損も沢山しているわけだが、現世利益を引き出すためにプライドの大安売りをするわけにはいかないというのはどこも一緒だろう。それとも惨頸の皆さんは敗戦直後GIに飴をねだったような人ばっかなのか?

でだ。この手の(惨頸の)批判はかなり予定調和的でもある。というのは、

1.ヤブえもんが北ウリナラの態度にブチ切れて椅子を蹴って帰国
       →仕事やる気あんのかと拉致家族会と安部ちん大騒ぎ。犬伏秀一は「万景峰号を日本海の藻屑にしてしまえ!」とか言い出しそうだ。

2.ヤブえもんがそれでも土産は持って帰ろうと粘る
       →弱腰外交だと拉致家族会と安部ちん大騒ぎ。犬伏秀一は「万景峰号を日本海の藻屑にしてしまえ!」とか言い出しそうだ。

結果同じ。
従って、これは結果が同じであることが明々白々なのだから、特定の結果を誘導しようとしてるとしか言いようがない。それはもちろん経済制裁に向けての国内世論の盛り上げである。やるなあ、惨頸。ここまで露骨なアジテーションは革マル派のアジビラ以来だよ。


結局、何をどうしようとヤブえもんは叩かれる運命にあるわけで、つまるところ生身の拉致被害者を連れて帰ってこない限りボコボコにいじめられるわけだ。そんなのは事務方の人間ができるわけがない。田中均前局長もキチガイシンちゃんに煽られまくってたし、まあ損な役回りだなあ、と今回ばかりは同情したくなる。


この人を見よ  (2004.11.18)

ニュースサイトとかの記事をダラダラ読んでたらナムコが赤字にまた転落したという話を見かけたのだが、このなかで「ゼノサーガ2」の売り上げが悪かったからとか書いてあった。
でこいつの副題は「善悪の彼岸」なんだが、記憶では確か1は「力への意志」のはず。調べたところその通りだった。

ちょっとあまりにあまりではございませんか?

多少なりとも哲学をかじっていれば分かるように、両者の副題はニーチェの著作からまんま引っ張ってきたものなのだが、こういうのって却って印象をチープにするだけではないのかい? そんなことを書いていたらこんな記事も発見。後半は哲学探究の知覚論をこねくりまわしているだけだし……。独我論と唯識論は別物であると考えた方がいいのに……。


というわけで次(出るとすればの話だが)の副題予想。
・この人を見よ
・道徳の系譜学
・喜ばしき知恵
・偶像の黄昏
・曙光
・人間的、あまりに人間的な
・教育者としてのショーペンハウアー(ありえません)

当たったらソフツ下さい。


不可能なものの可能性  (2004.11.16)

御茶屋氏の11/14付の日記に対する部分的意見。

『知の欺瞞』や『ポストモダンの幻想』以来、本朝では所謂ポストモダン思想に対するある種の誤解が流布しているようにも思われる。ニューエイジ思想を礼賛するバカどもがおそらくは自らの主張を正当化するために空念仏のごとくポストモダンの立場を引用しているのがその第一の原因であり、彼らの相手などまともにしてやる連中がほとんどいないというのが第二の理由ではあると思われるが、一応ポストモダンの倫理を少々研究していた人間としては、そのあたりは私なりの考えを示しておいても無益ではあるまい。

所謂ポストモダン思想が主張するのは、「解放の神学」を支えてきた基盤であるところの人間至上主義が科学技術等の発展によって揺らぎ、そのような理念の先導者としての知識人の役割の前衛性の自明性が危うくなってきたということである。だから別に理性そのものが無効になったとか虚偽であると主張しているわけではない。人間理性の歴史性と暴力性を暴露したフーコーにしたところで、理性そのものがインチキであるとは言っていないのであり、理性に包含される思考法そのものが歴史的に編成されたものであるという点を主張しているに過ぎない。リオタールにしても、理性と人間中心主義はキリスト教神学の色彩を帯びた近代が生み出した神話だと言っているだけで、それがウソであるとは言っていない。ニューエイジの連中はこの辺りをすり替えて、理性そのものがもはや終焉を迎えているがためにそれに代わる思考としてある種のオカルティズムをごり押ししようとしているわけだが、何はともあれ理性そのものは一定の有効性を持つことはポストモダニストでも認めている(はず)である。ローティ辺りになってくるとどうもそういった妥当性をご都合主義的にホイホイと切り替えているような印象がなくはないのだが。

つまりである。ポストモダニストは近代人権思想そのものを否定しているのではなく、その基盤そのものを時代の相の元に相対化しているだけなのである。だから、もう時代はポストモダンだから人権などゴミ箱に捨ててしまって非人道バンザイ!というのは全くの我田引水な誤りであり、取るべき思考としては全く逆なのである。存在の高みから現存在を徹底的にこき下ろしたハイデガーですら、現代の機械のヘゲモニーがもたらす人間性の喪失についてはそれなりに批判的な立場を取っていたのは周知の通りである。
だからポストモダニストの課題というのは、人間中心主義を破壊しつつ、倫理の新たな基盤の根拠を無根拠という様態に抗しつつ探究する事であろう。晩年のリオタールがレヴィナスの思想を強く援用する立場に傾いていったのは倫理における指示的なもの(prescriptif)や定言命法の持つ脱−人間中心主義的な倫理の可能性ゆえである。これは遂行的に捉えるのであれば自己矛盾との誹りを確かに逃れ得ないものだが、そういった当座の不可能性を全て承諾した上で例えばデリダは「脱構築とは正義である」と言っていたわけで、単にその思考法が有効であるか否かというコンビニ哲学の立場はここでは取られるべきではない。それゆえ、「正義」はそれ自体として自明的に捉えられるのではなく、その無根拠性がゆえに探究され獲得される、それと同時に解体されるべき物なのである。解体され不可能なものと成り果てるがゆえに、正義という理念は理念たり得るのであり、そこに利用可能な実体的内容が存在しているからではない。そして解放の神学がもしも未だに完全に有効であるのならば、我々は正義とは何かを問う必要はないだろう。そこでは正義とは所与の価値、あるいは理念の実現に与する行動の一切を支える錦の御旗であるからだ。そしてそのことは進化論を裏書きしている顔つきの件の大統領が何よりも証明している。
だが、彼が誤りであると我々がほとんど直観的な水準で断じる事ができるのは、我々こそが正義であると我々自身が以て任じているからではない。もしもそのような論法で彼を断じるとしたらそれには何の価値もない。なぜならばそれは彼のそれを転倒した存在論でしかないからであり、そんなことがやりたければ髭面の原理主義者にでもなるがよかろう。問題の本質は、ここでは正義の所在がどこにあり得るべきであるのかということを探究する事にはないのである。むしろ、正義という理念が失権するという事実の場こそが、非−場としての倫理の可能性を示唆しているとポストモダニストは捉えているのだ。
そのような点で、ポストモダニズムは本来はラディカルデモクラシーの立場を擁護する。『人権について』の中で、ロールズとリオタールが、基本的立場の相違にもかかわらず、人権について比較的近しい立場に逢着しているのは決して偶然ではない。それは人間ではないとされた人々の声を聞き取る事であり、その存在で「人間」の欺瞞性を暴露しつつ、そして彼らをロマンティックに礼賛することなく倫理を、正義を考察する事なのである。
無論、このような探究の方向性そのものが近代的人権思想に裏書きされているとして批判する事は可能である。だが、「人間であること」の歴史性あるいは階級性、そしてその暴力性を意識せざるを得ない境涯に我々があるとしたら、人権を支えるそうした神話に安易に飛びつくことができない、というのは私にはある種の必然であるように思われる。


チャタレイ  (2004.11.14)

積ん読のままだった『チャタレイ夫人の恋人』を読む。大昔に裁判沙汰になった件の本の全訳版である。

別に大して面白い話ではない。むしろ後半の展開は説教臭さすら感じるほどである。基本にあるのは心身二元論の克服であり、プラトニックな関係を礼賛するならバリバリ肉体的な関係から始まる恋愛だってあっていいよねー、ということだったりするだけだ。あとはイギリスの階級社会に対するむき出しの敵意と社会主義思想に対する懐疑。このあたりは近代イギリス文学ではおなじみの話なのでお腹一杯。

そんなわけでプルーストをまた読み進めるわけだったりする。


散財  (2004.11.13)

続きを書くと言っていたのに、飲みに行ってしまったせいでできず。

さて、かような診断テストの横溢には悪化する社会情勢と自己実現を徹底的に阻む社会構造があると書いたわけだが、ではそのような状態と少なくとも縁遠い学生はそれらのテストと無縁であり得るかというと、事実はそうではない。少なくとも占いやお手軽精神分析のようなものはいくらでもティーン向け書籍に見つけることはできる。とするならば社会構造が直接的にそれらの原因となっているのではないという批判は十分成立しうる。

人間は自分のことなら悪口だって語りたがると言ったのはラ・ロシュフーコーだが、自分を規定する像を手に入れたがるものは誰だって同じであろう。自分にとって好都合な像を、しかも手軽に与えてくれるのならば、特に認識的な試練を経ていない人間であれば尚更のことであろう。事実、占いまがいの各種性格診断に出てくる御託宣は全体としては何も言っていないに等しいし、大衆一般がこれらのロゴスのコスプレをしたオカルト趣味テストに期待するのは恐らくそうしたことだ。私を含めた、ほとんどの人間が努力を嫌うのは今に始まったことではない。

だから、これらの性向を向き変えるために、「教育」との美名によって様々の疑似餌が用意され、これからも用意されるわけだが、その有効性が何らかの形で失墜してしまった場合に大衆の野蛮さはその本性をむき出しにして一切の知的営為を否定しにかかる。その時のクリシェとなるものが「時間がない」「現実を知らない」「役に立たない」という3000年にわたって哲学に投げつけられてきた罵詈雑言であるわけだが、このような傾向がとみに加速する傾向がある場合には、それはすなわちそれらの口実を肯定する客観的な文脈が存在することを意識せざるを得ない。常態化した傾向はそれ自体として無前提的に妥当するのではなく、常に客観なるものの媒介を考察の領野に入れる必要がある。それは同時にこれらの悪しき習慣や態度がいかにして、単なる対症療法ではない認識的な展開によって打開可能であるのかという事柄への示唆をも与えてくれるように思う。


きゃー  (2004.11.11)

某サイトに写真入りで載ってしまったですよ。きゃー。
文章も予めメールで送ってあったのだけれど、その読点の少ないこと少ないこと。私の文章は極端に読点が少ないために凄まじく読みづらくて晦渋だという悪評は以前から沢山貰っていた訳なのだが、他の人のハフニャフニャホニャなおさかなペンギン(知らない奴はググれ)文体と比較すると、イージス艦のような私の文章は違和感全開であったりする。クーロン黒沢風に言えば、通信系OLとの合コンの最中に江青女史が乱入してきたような重戦車むき出しの違和感である。余計意味分かんねえよ。

句読点をどのような条件で挿入するかについて私は自分なりの基準を持っているのだが、それは無駄と冗長さを徹底的に排除することを主眼としているので、所謂ブレスのような感覚でそれらを投げ入れる人達にしてみれば確かに私の文章は読みづらいのだろうとは思う。でも銭貰う仕事でもない限り変えるつもりはないよん。

昨日の問題は明日続きを書く予定。


つづき  (2004.11.10)

さて、昨日の続き。

オツムの良さを数値化して測る尺度には色々あって、偏差値やら学歴(偏差値換算されるわけだが)やら職務経歴やら資格やらTOEICのスコアやら色々あるわけだが、原則としてこれらの尺度における数字は努力の対価として与えられる。中には例外もいるにはいるが、ほとんどの場合まっとうな成績をあげたければ、他の人が遊んでいる時に必死こいて勉強をしなければならない。分野によってはその努力が全然報いられないことがほとんどであったりするのは私の現在の境遇が証明しているが、少なくとも実力という神話は努力を前提としている。

だが、巷間に溢れるIQやらEQ(そんなのあったなあ)やら深層心理といったものは、個人の努力とはかなりの部分無関係に成立しうる。実際にはスタンフォード=ビネー式の知能指数テストは問題に習熟することによりかなり高いスコアをたたき出すことができるらしい(この種のテストを子供相手に使うのはこのためだ)が、いずれにせよ個人の意志よりも環境的素因を決定的に重要視するこのような判断方法はある意味で占星術とさして変わらない。どういう理由でどの部分にどういうスコアが配分されているのかということには多くの人は注意を払ってはいないし、もしそうであればこれらのテストがいかに生産主義的な虚構の上に成り立っているのかくらいは気づいてもいいだろう。星占いもそのファサードを装飾する計算は複雑ではあるが、背景にあるのはほとんどデタラメな四元素説でしかない。

いずれにせよ、多くの人々がこうした決定論の御託宣に縋ろうとするのは、その反対にある数値による評価制度が余りにも冷酷かつ不条理であり、我々の生を物象化するからである。悪評高いノルマ主義の営業職の現場で日々呻吟する人々や、不況によって手取り所得がガッチリと減ってしまっているという事実を給与明細で目の当たりにする我々にとっては、努力によって自己実現と豊かな生活が送れるという神話はもはや単なる欺瞞でしかない。しかし評価は常に減点式であり、努力することを否定するならばそこに待っているのは底なしの没落でしかない。とするならば報いられない努力を続けていくことの裡には、何らかの自己を支える別個の神話が存在していなければならない。IQやEQやエニアグラムやツキアイゲノム、あるいは占星術などの占いといったつまらない決定論的自己規定ツールがこれほどまでにもてはやされるのは、合理化の美名の下に努力による自己実現を完膚無きまでに否定し去ってしまったこの国の現実が邪な眼差しを投げかけつつ横たわっているからなのだ。

多分続く。


へこむ  (2004.11.09)

不採用通知がポツポツ届く。
しかし履歴書を返さない会社の多いこと多いこと。なんでそのくらいケチケチするのか分からないが、仕方あるまい。

で、また履歴書を書いている。
私は出ている学校が多いので、その分学歴欄を書くのに手間が掛かる。大学以降だけで学部+修士+語学学校+留学先と4つもあるので、うっかり間違って書き損じた物の多さといったらアウアウアウアウ……

手書きだと字の癖から人格が分かるので重要だとかいう理屈は十分分かるのだが、そんなものは採用試験で判定すりゃあいいじゃないか! ……ああ面倒くさい。


IQ測定の番組やらをあちこちで見かける。IQが生涯にわたって付きまとうアメリカのようになった何だか嫌だなあ……とか思いつつテレ朝のサイトで測定してみたら120くらいだった。イメージの記憶力は白痴並みに悪いので仕方あるまい。
この手の診断番組は大昔には「それいけ×ココロジー」という似非フロイト派精神分析の番組があったりしてそれなりに流行ったものだが、今回のそれもその1バリエーションに過ぎないのではないのか。

これについてはまた明日書く。


い抜き  (2004.11.07)

「ら」抜き言葉というのが人口に膾炙して久しいが、最近は「い」抜き言葉も気になるようになってきた。
どういうものかというと、
・「食べている」→「食べてる」
・「感じている」→「感じてる」
・「知っている」→「知ってる」
みたいなやつだ。以前はさほど気にならなかったのだが、最近俄然不快感を覚えるようになってきた。

もう歳かね。


万年筆  (2004.11.04)

万年筆を使っている。

筆圧が高い私はシャープペンシルの類は買って一週間と経たないうちに壊してしまうのが常で、中学受験の勉強の本格化を契機に鉛筆党でずっと過ごしてきたわけだが、大学に入るとそれでは覚束ない機会も増えてきたこともあって、ついに学部三年の秋に万年筆を購入することにした。確かセーラーのプロフィットスタンダード21という製品で、1万円くらいしたような記憶がある。可処分所得のほとんどを本とCDの購入に充てていた当時の私としてはかなりつらい出費だったが、21金のペン先は取り出して使う度に美しく輝き、私の虚栄心を大いに満たしてくれたものであった。無論、書き味も一本200円程度のボールペンとは比較にならず、現在のホルダーサインはこの万年筆によって育てられたようなものだったりする(中高の語学の試験で名前をアルファベットで書く=サインすることを求められたため、私の署名は今でもアルファベットを元にしている)。だが、残念なことにこの万年筆はどこかで紛失してしまい、折角馴染んできたペン先とも離ればなれになってしまった。

その後、何本か別の万年筆を経て、現在はウォーターマンのエキスパートというモデル(色はオリエンタルレッド)を使用している。ペン先は23金なのだが、その割にかなりしっかりした手応えがある。定期的にきちんとメンテナンスしてやる必要があるものの、ほどよく丸まってきたペン先は欧文の手紙などを書く時などに大いに役立ってくれる。ボールペンではかすれてしまう部分も、万年筆ならば問題なく綴れる。何よりもこの万年筆は自分が勉強をするに長い間一緒にいてくれたから、「戦友」といった愛着があるのだ。自分が何かを書く時には、この万年筆でないと落ち着いて字を書くことができない。それほどまでに、この小さな筆記具は私の身体の一部になってしまっている。

今は使い捨ての時代だから、逆に物を大事に使うのがいいのではないか、という結論を導くつもりはない。でも、値段の高い文房具は使う人をそれなりに育ててくれるように思う。


虚無からの投壜通信  (2004.11.01)

だから、みんな、しんでしまえば、いいのに。


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