2004年08月
自己言及と予言のパラドックス  (2004.08.31)

誰でもblogやら日記程度のサイトはテンプレを使えばあっさり作れるようになったせいか、個人サイトが増えるようになって久しい。で、その中で、自殺サイトでの合意による集団自殺や殺人などを犯した(このような否定的な価値を持つ動詞を使うのは気が引けるが)人間がそれ以前に書き残していたサイト上のログというものがマスコミや世間の関心の対象となるようになってこれまた久しい。
そこでは概して犯人、あるいは自殺した人間の「心の闇」の手がかりともなるべきものが吐露されているといったトーンで捉えられることが多い。曰く、インターネットの形式的な匿名性は、世間との関わりにおいて良心や行動を拘束する一切の契機を放擲させるものである以上、そこでは人間の心理が極めて露骨な形で語られうる、というものだ。
だが、この語り手が、そういった反応を全て見越した上でそのような言説を敢えて意図的に垂れ流しているのではないのか。「心の闇」という手軽なキーワードで事態の核心を捉えたつもりになっている「我々」の極めて表層的で安易な反応がやはり無意味に反復される光景を全て予想に組み入れた上で、彼らは自分の行為の「価値」といったものを勘定し、非常な打算的なやり方で自らを演出しているだけではないのだろうか。その場合、我々の月並みな知性を用いたところで、彼らが「遺した」ものからは彼らの精神風景を窺い知ることはまず不可能であろう。彼らは我々のそういった解釈すら行為の結果として知悉しているのだから。
無論、そのようなプロセスを全て度外視して成立する、ある種の断末魔の絶叫とも言うべき言葉が表現されうる場合もあるにはあるだろう。それらの解釈は別段我々としても同情するに労は要しまい。だが、彼らが我々にとって近しいと同時に無限の彼方へと遠ざかろうとする存在であることを考えた時、私は彼らの言葉の裡にそれらの解釈を嘲ろうとするペルソナを見ずにはいられない。そのさらに下で彼らが何を見つめているのかすら、私には分からない。そして彼らは私がこのようにして無価値な詮索を断念をすることすら見越しているに違いないのだ。そして好奇心に由来するものでしかないこういったお喋りの消滅する静寂だけが彼らと私との間には深淵として無限に横たわっている。この時私はこのような状態すら全て織り込み済みではないのかという疑義に駆られる。彼らは語っているように見せかけて何も語ってはおらず、徹底的な沈黙を貫いて、存在者の喧噪に冷笑を投げつけているだけだ。


ご迷惑をお掛けしておりまする  (2004.08.30)

数日前から、tunnel-company.comを置かせてもらっているレンタルサーバー会社がDoS攻撃を受けており、その煽りで時々アクセスがtest.comに強制リダイレクトされる現象が起きています。日記を読まれている方やこのドメインでのメールアカウントを使っている方にはご迷惑をお掛けしています。サーバー管理者がいま作業を行っているそうなので、復旧は今しばらくお待ち下さい。

で、携帯には広告メールが届く。どこから送っとるのかいなと調べたら、ウルグアイかららしい。でもIP自体を偽装している可能性もあり。7350円でパチスロ攻略法を売っているとのことだから、しつこく宣伝メールを送りつけてくる連中宛に10個くらいまとめて発注してやるというのも面白くはあるのだが。

以前バイトしていた予備校の前を車で通り掛かったら、完全に潰れていた。かなり無茶苦茶な乱脈経営だったからもう先は長くないとは思っていたが、潰れてしまうとそれはそれで色々胸をよぎるものはある。


インホヱブの方  (2004.08.25)

ウイルスメールが相変わらず毎日きちんと2通ずつ届く。
メールヘッダをとりあえず見てみると、eatkyoxxxxx.adsl.ppp.infoweb.ne.jpなるリモートホストが見える。
東東京地区でインフォウェブに加入していて私の携帯アドレスを知っている人は思いつかないのだが、一体誰だ?


でけー  (2004.08.24)

新旧携帯電話の比較。
左にあるのが2000年頃に使われていたモデル。auはまだIDOと名乗っていた。
で、右側がこの前買った機種。倍ぐらい大きくなっている。
これはもはや「携帯」しているとは言えないのではないか。


それにしてもだ  (2004.08.22)

携帯電話のマニュアルを読んでいると、肝心なところのデータスペックが全然掲載されていないことに気づき、唖然とする。例えばパケット通信にしても、1パケットが(ヘッダ含めて)何バイトであるのかが全く書かれていない。ずいぶん前の記憶によれば確か1パケット=128バイトだったはず(従ってダブル定額の40000パケットとは月当たり使用データ量4.88MBまでを意味する:なお、短い普通のメールだと大体2KB)だが、そんなこともどこにも書いていない。液晶画面についても解像度と色数はかなりガリガリと調べないと分からない。ちなみに大体の携帯電話の液晶は65536色対応で、それ以上についてはデイザなどで表現するのだが、自分でこさえた壁紙を添付ファイルなどで送る場合、減色処理をしておけばデータサイズはかなり減らせるので課金も安くできる。にもかかわらずそんなことが載っていないのは明らかに「知らしむべからず依らしむべし」に資本主義的な原理がブレンドされたメーカー側の邪悪な態度に他ならない。
携帯電話一台あたりの製造原価は5万くらいするらしいから、そのようなビジネスモデルを導入しないと潰れてしまうのは大いに分かる。だが、私はマイナー系が大好きなので、そこらへんのダウンロードサイトには金を払いたくても欲しいデータが見つからないんだよ!


ええやんかええやんか  (2004.08.21)

携帯のバッテリーが激しくヘタるようになってきたので、機種変更。W21SAなるなんか色々ついているものにした。
で、早速着うたの製作に取りかかってみたわけだが、なぜか読み込んでくれない。読み込んでくれるファイル形式にしても、着うたに設定できない。色々調べてみるとどうも普通のユーザーが作ったデータは着うたには設定できないらしい。著作権の関係だろうか。切り取ったものをwebで公開とかされると確かに公衆送信権を侵害する可能性が高いので、そうしないといけないのだろうが、なんかダウンロード課金モデルを死守しようとしているようで見苦しくもある。
そんなわけなので、これからデータをどういじればそれを突破できるのかを研究。


ビデオ買った  (2004.08.18)

ビデオカメラ購入。
使い回して練習して色々研究する予定。
512MBのSDメモリカードも購入。これでSDカードの合計メモリ量は512+256+64+16=848MB、実質的には808MBなので、合計撮り溜め可能枚数は(最高画質モードで)700枚くらいか。これでも足りなければ出先で購入するとかネットカフェでCD-Rに焼くなりすればいいのだから、問題あるまい。


ふぅれんちぃ〜?  (2004.08.15)

仕事を辞めてしまったのはいいのだが、これからはある程度計画性をもってキャリアプランを立てていかないと結局この前みたいなひどい仕事場にしか自分の居場所がなくなってしまう。そんなわけなので、今年受ける予定の資格試験をリストアップする。

【目標】
楽して生きる。日本語を余り使わない世界に生きる。面倒くさい付き合いを極力避けられる水準に自分をもって行く。

1.仏検1級:準一級までは合格しているのだが、面倒くさくなってしまってその後受けていないので、1級合格目指して再始動すべし。1次試験は11月頃だったような。
2.DALF(フランス文部省認定フランス語上級試験)全単位取得:面接はガーッと喋れば何とかなってしまうので、問題は綜合をやらされる筆記試験。テキストはあるので、仏作文のスキルアップも含めて挑戦。確か来年の頭頃だったような。
3.通訳案内業試験(フランス語):英語以外はほとんど食えないと聞いたこともあるが、政府公認の非英語通訳資格としてはこれしかないので、来年9月の試験に備えて始動。とりあえず去年の過去問を見てみたが、こんな易しくていいのか? 合格基準が偏差値による相対評価というのが非常に気になることはなるが。問題自体は京大とか東大の学部入試に非常に近い。「靴べら」chausse-piedというフランス語圏では絶対に使わない単語が出題されるあたりがいかにも通訳。
4.初級シスアド:過去問を見る限りバカみたいに簡単なのだが、「パソコンには詳しいですよヘヘーン」みたいな自称詳しい君に陥らないためにも受けといた方がいいかもしれない。で、これに受かったら、上級とか色々あるので、perlの勉強も含めて色々やるかも。
5.TOEIC:以前受けた時は準備不足で凄まじく悲しいスコアだったので、今回は830越えを目指して修行。アングロサクソンかぶれではなく真のポリグロットを。

ところで、3.の過去問のファイルネームがfurench.pdfっていうのはジョークですよね? 文章もなんか少しヘンなんですけど(定冠詞を使うべきところで不定冠詞のままになっている、等)。論文執筆時、容赦なくガシガシと添削して下さった恐怖の師範代であったD氏に叱られるよこれじゃ。


表象の限界  (2004.08.13)

『ヘンリ・ライクロフトの私記』と『ソラリスの陽のもとに』読了。前者についてはこんな記事を見つけた。北方謙三といえば某誌での「童貞でウジウジしている男など死んでしまえばいい」みたいな暴言路線一直線の連載程度しか私は寡聞にして知らなかったのだが、このインタビュー記事を読む限り、読んでいる本についてはかなりしっかりした一貫性を持っているように見える。その水準もバックナンバーに収録されている他の作家と比べても頭一つ抜き出ている。
で、後者は(偽)ハリーの懊悩が衝撃的であった。大体の展開は伏線がバンバン張られてゆく段階である程度予想できるのだが、これだけは想像していなかった。特に終盤でのハリーの絶望の告白とケルビンの主張の空回り振りは痛々しいの一言につきる。

季節柄、原爆の話によく接する。しかしかなり根本的なところで言い切ることが許されるのならば、恐らく、核兵器が悪であると結論づけるだけの決定的な理由なるものは存在しない。けれども、その不条理なあり方ゆえにこそ、核兵器はなぜ人類にとって廃棄すべき対象であるのかを常に考えなければならない。もし理性をもってして、それを論理的に簡単に断罪できるような図式があるのなら、問題は最初から存在していないことになる。即ち、そのような理由を理解できるか否かという理解力の問題に還元してしまうことができ、それゆえに原爆を人類にとっての恥部であると考える人々は、核抑止論の正当性や小型戦術核兵器の「有効性」を主張する人々と永遠に対話することがなくなるのだ。無論、対話して問題が解決するほど事態は平易なものではないが、相手を切り捨てるこのような論法が何ももたらさないことだけは事実だ。
だとするならば、それは理性によって達成されなければならないと同時に、理性の範囲内での作業ではないと私は思うのだ。まさしく人類の英知を結集して開発されたかの兵器は、合理性思考の結晶である絶滅収容所と同様、近代の必然的到達点である。アドルノとホルクハイマーはこのような問題意識がゆえに、人類はその理性が発展すればするほど野蛮に陥るのはなぜか、という問いかけを『啓蒙の弁証法』の中で繰り返し提起し、啓蒙による啓蒙の自己批判という方向性を示そうとするのだが、これは我々の理性によっては到達可能でもあるし、不可能であるとも言える。近代の所産である「理性」を否定し去ったところで、そこに広がりがちなものであるのはニューエイジのごとき虚言に他ならないし、それはロマン派から知性を捨て去ったただの白痴でしかないからだ。
我々の時代は、理性によって蒙昧を啓くのでもなく、感性の至高性を礼賛するだけでもいけない。思考することが困難であるのは、恐らくそのためだ。


くびー  (2004.08.12)

昨日付で一切の職務を解かれた。
で、9月に振り込まれる給与がいくらなのかが気になる。退職願では8/31で退職する旨知らせておいたので、これが受理されるのならば満額もらってバイバイになるが、金の使い道をどうも間違っているとしか考えられない(費用対効果ゼロの顧客招待食事会を豪勢にホテルでやったり、投射するスクリーンも揃っていない段階からXGA対応のバカ高いNECのプロジェクターを買ったり、等)あの会社だと、賃金を日割りにする可能性がないではない。そのようであるなら弁護士とか連合に相談した方がいいかもしれない。

フォーレのレクイエムを聴いていて目に浮かぶのは、ヴァンスにあるロザリオ礼拝堂だろうか。居丈高に怒りの日を説いて神への帰依を強く求めるルター派プロテスタントの文化に対して、聖フランチェスコや小さき兄弟派、あるいはトルバドゥールやアルビジョワ派(とその擁護運動)を産んだこの地域の文化は、魂(もはや精神ですらないのだ、精神ですら!)の浄福を確信するがゆえの清らかな大らかさをもたらしてくれるのだろう。


まず罪なき者から石を投げよ(ヨハネによる福音書・第8章)  (2004.08.09)

人様から向けられるあからさまな敵意が楽しくなってきた。この時の穏やかな高揚感は某氏に「左大臣攻撃専用掲示板」を作っていただいたときに通じるものがある。

こういう時にザラついた気持ちを宥めて静かにしてくれるのは、徹底的に反抗しながらもそれなりの影響を蒙ってきた、中学高校の時のキリスト教教育である。確かに私自身が最も宗教性を感じた神父であるM氏は派閥争いに巻き込まれて今は長崎県の小さな教会で司祭をやっている等、修道院内部での権力争いやら何やらという醜い話は多く耳にしてきたし、私自身は色々な理由で信仰(無信仰という信仰すらも)を持たないようにしているが、こと精神への視座という点では今から振り返ればその意義の大きさは認めないわけにはいかない。

だから、かの大審問官の場面が「神なき者の底なしの自由」を語る時、私の胸に去来したのはむしろ、信仰を持たぬ我々は「一切が禁じられている」という地点から始めるべきではないかという意識だった。その本質的な意味において、自由を与えるのはむしろ信仰であり、それを拒否するということは、少なくとも倫理的意味での自由を拒否することではないのかという意識が深く私の心を拘束する。

精神なき者の精神の悲惨。「縁なき衆生は度し難し」だが、それ故にこそ、「敵を愛し、迫害する者のために祈」らなければならない。


ダイナマイトが百五十屯  (2004.08.08)

※今日はあのお方に全く無意味な苦情を沢山受けたので、少し言葉がきついです。ちなみにその人は実際アル中らしいのです。そんな人がガキに物教えていいのか。かく言う私も最近は向精神薬のお世話になりっぱなしだし、退職が決定したので勤労意欲は全くもってゼロなのだけど。

勉強が嫌いな奴が「主体的に学ぶことを推進しよう」とかほざいても何にも説得力ないよ。
だってさー、historyの語源をHis storyとか真顔で言ってんだから笑っちまうよ。ヘロドトス読めよ。
しかもその人社会教えてるし。

無教養で粗暴な人間が威嚇と恐怖で若人の精神の育成を図ろうとしている現場は、かくも見苦しく、汚らわしい。

フランスの片田舎に留学していた時、話の流れで高校の哲学の授業とコンピュータの授業のアシスタントをボランティアでやっていたことがある。コンピュータの授業は最終的にほとんど私が仕切っていたので一旦話は措くが、その高校は決してトップレベルの水準にはなかったのに、授業の風景は極めて民主的であった。バカロレアを目の前にした生徒達に対し、成績をひたすら上げるに汲々とするのではなく、それらを通じて何を学ぶべきかを静かに語り続けていた哲学の先生の態度には深い感銘を受けた。社会の様々なトピックスに言及しつつ、それらが含む哲学的課題を各学説史にリンクさせてゆく手法は、既に教員免許を取得してはいた私にとっても導きの糸となったことは事実である。
だが、このような手法は、極めて高い教養と応用的知性を必要とするし、場合によっては端から見るとただの世間話をしているだけのようにも見える。そりゃ高等教育を受けたわけではないクサンティッペがキレまくったのも当たり前といえば当たり前である。
だから、私の授業法が野蛮な人々から批判を受けるのはそのためかもしれない。無論私の教養水準は飛び抜けて高いわけでもないし、知性的に恵まれているわけでもない。だが少なくともhistoryという語の語源がギリシア語のhistoreoとhistorであることくらいは知っている。「ドナドナ」にはポグロムの記憶がこだましているのだという説があるのも常識だと思っている。

だが、この、「知性を育てる」ことをウリにしているこの空間では、もはやそれは彼岸の情報らしい。

パスカル万歳。

追記。バカロレアの語源(元々は「月桂樹の漿果」という意味らしい)を調べていたら再びhis storyの誤謬の話が出てきた。試しにググって見たら出てくる出てくる出てくる出てくる。某田嶋陽子(専門は英文学)も同様の間違いを犯しているのはまあ仕方がないとして、某『神との対話』でもそんなことが書かれているらしい。確かこの本はフレコミによれば「著者ウォルシュが神からのメッセージを書き留めたもの」なはず。つーことはウォルシュにとっての神様は古代ギリシア語やラテン語はおろか、フランス語やイタリア語などのロマンス語族については全く寡聞でいらっしゃるということなのだろうか。頭痛え。


そしてまた言葉が翼を得て  (2004.08.07)

激しく希求する何かのために、他のすべてを犠牲にするというのも、一つの考え方であり、生き方である。でももしそんな姿に疑問を持ったなら、迷わず、なりふり構わずの心意気で、存分になりふり構ってほしいと思う。なんだかんだ人は遠くから、いつも言いたいことを言うけれど(あれ?)、そんなのはほっとけばいい。要は、もし結果が出なかった時、自分自身の中で、それを言い訳にしない覚悟があるかないかだけである。
 かく言う私も、曲作りに煮詰まって、文字通りなりふり構わず、髪をふり乱していた時期があった。何日も家にこもって、ろくに着替えもせず、ピアノとベッドを往復していたある日の深夜、トイレに行った時、洗面所の鏡に映った自分の姿がふと目に入った。ほったらかしで伸び放題の髪、不自然にむくんだ顔、ただのジーンズとセーターを着ていたけれど、そこに映っていた女のあまりのみすぼらしさに、私はガク然とした。ネガティブは、外からやってくるものではない。自分の内から生まれてくるものだと、その時知った。そしてその時の私は、なりふり構わずがんばる、というのではなく、単に自分を見失ってしまっていただけなんだなと思う。
 結果が努力の対価として支払われるならば、こんなに楽なことはない。問題は、延々と赤字続きの努力に対して、それでも誇り高くあるにはどうすればいいのかということだ。
 自分を尊重していない人間は、美しくない。女なら、部屋のすみでほこりをかぶってる1本のエナメルから、答えを見つけられるのかもしれない。
                                                   (篠原美也子のノーコンエッセイ/1999.12.15)


アルバム購入特典「持ってけドロボーCD」到着。早速聴く。

全てを捨てて、あるいは捨てる覚悟で必死の努力を続けたところで、それが形で報われることはまずない。圧倒的多数の死に物狂いの努力は挫折の蹉跌となる。だが、それでもなお、自分への誇りを失わないためには。
彼女の強さは、そこに生命が持つ消し去ることのできない力そのものの美しさを掲げたことになる。それは力としての意志が審美性を破壊することでこの大地を両手に掴もうとすることで世界を我が物にする高みである。

生そのものを絶望させるまでに耐え切れぬ程の自らの現実的な弱さを自らの力への意志の根源、そして生の全体を無限に肯定する思想としての永劫回帰という「徳」の極限を望み続けたニーチェ。私が彼の晩年の著作を読む時に胸が張り裂けるまでに感じるのは、大地の力に充ち満ちた生への彼の文字通り狂おしいまでの渇望である。彼自身は幼少時から病弱で運動神経も限りなくゼロに近かったようだし(その甲斐あって読書三昧で大変な古典文学知識を獲得したのも一方では事実だが)、途中からは梅毒を患って文字通りボロボロの肉体を引きずって南欧の保養地などを転々としなければならなかったわけだが、脳漿を叩き割りたくなるような苦痛と絶望に直面してもなお、蒼穹へ向けて「そうか、これが人生であったのか、ならばもう一度!」と宣言するその生き様は、「呪われた者」である彼のアポロン的生命への必死の希求としての絶叫である。弱き者、生とこの世界にに打ちひしがれた彼らが、宥和の希望をかなぐり捨てた上で力と豊饒さに満ちた生こそ自分のこの苦しみに呪われた生の根源であると、声も嗄れよと絶叫するその姿は、生きんとすることへの意志と捨てがたいほどのその重い強靱さを再び私の魂に刻印してくれるのだ。


時を越えて  (2004.08.05)

※今日の雑記は今読んでいる本の一つ『ヘンリ・ライクロフトの私記』(ギッシング)の影響をモロに受けた文体となっております。

明日の仕事の準備をしながら、テレビを見る。明日は原爆忌であった。
途中のインタビューで、「私達の生きているうちには実現しないかもしれないが、私達はそれでも(平和の)実現に向かって努力をたえず積み重ねていかなければならない」という言葉を聞いて、ハッとさせられた。このような視点を忘れかけている自分に慄然としたのだ。
思えば、私達の時代がかの発言のような歴史的視点を持たなくなって久しい。全てのことは直ちに実行され、そして結論あるいは結果は全ての人が確認できる時間内に明確なものとして示されなければならない。それは理念においても然りであり、私達は理念が現実の確かさを持っているのだと実感するために絶えずそのご託宣に与ろうとしているのだ。そのために私達は結論を必要としない、あるいは結論などない事柄についてもその力を知ろうとして、徒らに焦り、要らぬ気苦労と不安を繰り返している。
もちろん、このような自分の生の有限性を超越した理想の成就という考え方は、タガステ生まれのあの回心者に始まる西洋に顕著に見られるものであり、ユーラシアの東端に生きる私達にとっては無縁なものと言えないでもない。それを独善と排撃して現状でのその平和思想の具体的内容と行動指針についての議論を吹っ掛けようとする青年も数多いのは私もよく知っている。しかし、私がここであの老人の視点を讃揚するのは、彼が人生の終わりを間近にしてもなお人類への希望を抱き、そして自らの直接的かつ現実的な利益にならずとも、すなわち自らが報いられる可能性が限りなく低かろうとも、平和がきっと実現するのだという強固な確信を抱いて前進を続けようとする魂の気高さからである。
私達は、自分の行為が存命中に現実のものとならないということを前提として、どれだけ意志し行動することができるだろうか。現実が絶望的な状況になってもなお、その理想の到来を信じて、希望を捨てることなく、また自己陶酔に陥ることなく、時間の彼方へと自らを投げ入れることにためらいを抱かない人が、どれだけいるだろうか。
苦しい。


こりはすごい  (2004.08.04)

ケーゲルのベートーヴェン交響曲全集、ついに第9番に到達。
7番はそれなりにオーソドックスを踏まえたなかなかの好演。感情的に全く思い入れがないのはアリアリと分かるが、盛り上げているところはしっかり盛り上げているし、締めるところは締めているので、ジンマン&チューリヒ管のドライな演奏に慣れているのなら別に違和感は感じない程度。むしろスコアの勉強にはこのくらいの演奏の方がいいや、とか思ってしまう。

だが第9番は凄い。第三楽章までは無難な(と言っても盛り上がりを意図的に排除している)演奏で、廉価盤にはよくある演奏だとも思えるのだが、第4楽章に入るやいなや極端にテンポが遅くなり、フレージングも妙な緊張感溢れるものとなる。
歌が入るあたりになるとこの妙ちきりんさはさらにエスカレートし、ロマン派的な理想像としての人間賛歌がむしろ世界の終末を予言するような陰鬱さを湛えた神秘的演奏になっていき、歓喜のかけらも感じられない冷酷な展開を追うようになる。そしてコーダは某フルヴェンのようにアンサンブルが崩壊してジャーン!ではなく、罪人が顔を伏せたまま煉獄へと一斉に死の行軍をさせられているかのような一糸乱れぬアンサンブルを保っている。
こんな恐ろしい演奏はこの曲を初めて聴く小学生などにはとてもではないが薦められない。しかしそれでも強烈な個性と絶望感を刻印してくれる名演である。コバケンにもこのくらいの厭世感があれば言うことないのに。


海鳴り  (2004.08.03)

カリヨンが聞こえる。
極めて柔らかいキータッチのピアノの音で、D-DurとE-Durのアルペジオが変奏を繰り返しつつ聞こえる。速度はアンダンテ。

薄紫色と水色の空の色に街並が静かに霞む。清冽な空気が眼球の重みを少しずつ取り除いてゆく。足許の砂利が柔らかく心地よい音を微かに立てる。


床屋のアダージョ  (2004.08.02)

バーバーのアダージョを聴く。昔NHK名曲アルバムで流れていた映像もセットで思い出す。昧爽、人影まばらなニューヨークのビル群に曙光がうっすらと当たるというもので、この曲が持つ都会的な悲愴感を的確に捉えていたように思う。しかし、最近よく聴く曲がマーラーの交響曲9番(特に第四楽章)だったりヴィターリのシャコンヌだったりショスタコーヴィチの交響曲第4番の第三楽章だったり、かなり偏っているような気がする。率直に言ってしまえば、病んでいる。お手軽な癒し系に逃げているムード全開だ。プロザックを500錠服用か。

ウイルスメールの着弾が続く。携帯のメールアドレスを変える必要があるやもしれぬ。


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