2004年06月
気分はめろん  (2004.06.30)

今日の気分をHTML風の色で表すなら004040。
曲で表すならばショスタコーヴィチの交響曲4番。


「兄弟よ、兄弟よ、これは計りしれざる不公平だ、兄弟よ、そのようなことがこの世界で続けられていることを許してはならない。恐るべき不幸がお前を待っている。兄弟よ、私は耐えがたい苦痛に悩んでいる。私を助けてくれ。私を見捨てないでくれ。私は耐えがたい罪の重みのもとに折れかがんでいる。
 私は果てしもない犯罪のために告発されており、悩んでいる。私の境遇は解決できないものだ。私はあらゆる点で非難されている。私は罪がないが、それにもかかわらず罪があるのだ。私の悩みは終りがない。兄弟よ。お前は私を助けることができないのか。私は拷問にかけられており、恐れている。私は罪なき犯罪者だ。」


セシュエー『分裂病の少女の手記』

愛なるものがもし可能であったとしたら、それは存在の肯定を無条件で与えるものなのだろう。
私は光を恐れ、闇に潜る。
闇は暖かい。見るべきものを照らさず、呪われた私の瞳から全ての光を奪うからだ。
世界はクライン・ブルーの闇に包まれて時間を停止する。


ぬるい  (2004.06.29)

ぬるい。安いアイスを囓りやりすごす。
会議。最近どうでもいいことが話し合われている時には音声入力を遮断して内省に耽ることができるようになった。人間の適応能力とは恐ろしいものである。今日は公開鍵暗号方式のことを考えながらメモを取るふりをしていた。概念的なモデルは分からないではないのだが、その具体像が今一把握できない。勿論それをきっちり理解しようとするのであれば人生をやり直すほどの数学の勉強が必要になるわけだが。そういえば、チェーホフは「人間関係に疲れた時は数学の問題を解くといいし、それに疲れたら今度は人間関係の世界に浸ればいい」と言っていたような記憶がある。とするとやっぱり今は数学の勉強のしどきか。図形問題とか、苦手だったもんなあ。本格的に挫折したのは高校での微分積分のあたりだったが、大学の一般教育で数学をうっかり履修してしまった時、半泣きになりながら高校の教科書を読み返してみると何だかおぼろげながら内容が理解できた。どうせ趣味の勉強なのだから、ゆっくりゆっくりやっていけば、私もアカデメイアに入学を許可されるかもしれない。


だが  (2004.06.28)

弁証法というのは正しくもあり間違っている。対立しあうものを前提とする点においてそれは正しく、それらが和解の神学に属しているという点は完全に間違っている。だが和解を志向することは対立という状況においてはそれ自体として間違っているわけではない。和解への意識のないところに対立は発生しないからだ。だがこの場合措定される「対立」とは、相互が和解を何らかの形で求める場合においてのみ成立するという制限があることを忘れてはならない。すなわち、対立する一方が和解それ自体を希求せず、従って対話自体を拒否しているのであれば、対立はもはや対立ではなくて単なる無意味なモノローグの投げつけあいになってしまうからだ。現在私が考察しなければならないケースとは多分にこのようなモノローグのすれ違いという事態を包含するものでなければならない。解決すべき問題があるのならば、既にそれは解決されているのであり、問題がないように見える状況、あるいは問題そのものを問題としない状況こそ真に問題とされるべきなのである。
このような場合、素直にモノローグをダイアローグに転換していくべきであると主張するのは簡単である。だがそれは余りに素朴であり、公共性の空間に依拠しすぎであろう。公共性とはその意味で一種の暴力であり、それとは異質な言語空間の可能性を希求することそれ自体は決して無意味かつ空疎な営みではない。だが、それがモノローグの深みにはまっていく場合、自己を他者として多重化する試みがなければそれは行き場を失ってしまうのもまた事実である。言語が私一人のものではない以上、モノローグは必然言語によって所有される。その所有されているという事態に私が気づくのであれば、そこには少なからず他者の声がこだましていることにも気づくことも有り得よう。その他者とは当然声の形でのみ、しかも現在ではなく遠い定位不可能な過去からこだまするものだが、他者性を廃棄しようとする意識がそこに強く働いた場合、言語を否定し去ること、あるいは徹底したネオロジスムを行うことで、その場から遠く遠く遠ざかることも実際に可能である。沈黙とはすなわち言語であることを拒否した饒舌な悲しみと孤独であり、そのような状態における「他者」に私が向き合う場合、言語におけるいかなる近接も無意味になるのではなかろうか。私に可能なのはむしろそのような表象、あるいは言語化不可能なざわめきに耳を澄ますことで、私自身も沈黙という漆黒の闇にざわめく「魂」の破片の海に沈潜してそれに身を切られるという経験を共有することであるのかもしれない。これは意識という形では言語を拒否する以上、否定神学的な形でのみ言語が現れることはあり得るかもしれない。だが、それよりもまず、その経験は、義務性という意識を喚起するきっかけになりうるとは、私は感じることもあるのだ。
陳腐な意味ではなく、言語化を拒否する世界。様々に破砕され断片化しつつ揺らぎあうその多層性と異質性が、対話を否定すると同時に倫理的義務の主観性の可能性を暗示してくれるようにも思う。



ocnを使っている奴からまた詐欺スパムが届く。とりあえずocnのサポセンに連絡。


早い話が  (2004.06.26)

精神的に色々疲れているのだろう。他者との距離の取り方、他者との関わり方、他者とは何かということについて必要以上に意識しすぎるがゆえにこのような問題が現れて来るであろう事は十分承知している。そして、このような倫理についての思弁を展開したところで、それは常に他者というリアリティの下では余り意味を持つものではなくなってくる。なぜなら、これは多くの思想家が指摘するように、個別的なものは全体に常に先行するからだ。しかしそのような事態においても他者の指示的な命法に対して唯々諾々と従うだけの態度ではなく、あくまで関係性としての関わりをそこで志向するのであれば、他者のそのような「顔」の倫理に対しても、仮構され措定されたものとしての「私」である自我はそのような状況においても義務を遂行するものとしての立場を引き受けるのみならず、同時に行為するものでなければならない。ところがその行為は現実の物となった瞬間に他者の眼差しの下で破砕の憂き目を見ることにもなりかねない。その地平からも常にどもりつつも我々は言い直しを反復していかねばならないと言うことになり、そのユニラテラルな時間性を破棄する関わりこそがレヴィナス独自の用語にも現れているわけだが、ここまで来ると、彼の思想はこちらが展開するいかなる自我的なものであろうと「他者」の裁きの前に押し潰されてしまうという運命を避けられない。すなわち、レヴィナスの倫理が我々に最後に突きつける態度とは、極めて大雑把に言ってしまえば、「他者」の地獄の中で我々は無限の責任という形で皮膚を焼き尽くされることになるのではないか、と「他者」の立場を表象可能性の立場に隠匿しておいてこちらはその栄光のために奉仕せよというのは余りに非対称てはである。非対称的であることは倫理的関係の基礎ではあるが、それは両者に適用されうるのがこのようなクレドであるからだろう。すなわち、レヴィナスのにおける「他者」は意識指向性を一切剥ぎ取った、いわば「神」のごとき存在であるのだが、それに向かって絶えず自己を否定して感受されえないにものに基づいてその痕跡を追うのみであるとしたならば、他者と私は永遠に交わることのない、全く別の世界にいるというと言っても別段過言ではないのだろう。にもかかわらず私はその呼びかけに従わなければならない。これに相互的な形でのコミュニケーションを、あるいは弁証法的な到達の可能性を模索する事はできないのか。

眠剤の効き過ぎで頭がヘンだ。
寝る。


ゴニョゴニョ系  (2004.06.24)

考察というか問題意識の煮詰め作業はまた明日。

某所で某大学の構内での飲酒の話を見かける。出店でビールを一杯引っかけていた学生相手に某教員がブチ切れて、そのサークルの部室利用停止にまでなっているらしい。その教員がA(英文)かK(日本史)であろう事は想像するに難くない。まあ、後者は一回の講義で出席を3回とるとか、余所の学部の出席カードを使うなど、かなりアナーキーなことを昔からやっていたが。
で、この学部は、一年生の時からコンパ費として500円の補助が出たような記憶がある。大学院になると一人1000円の補助に上がるあたりが微妙にセコいが、そんなに学生の飲酒が気に入らないのなら、学部当局が違法行為を推奨するようなこういう補助も打ち切っちまえよバカ。A大先生はちなみに私が学部一年の時の担任で、英語で危うく単位を落としそうになった時に助けてもらったりはしたが、クラスの飲み会には来てたよね? 大学院に受かった時は食堂で同期の連中とビールをガンガン昼間っから飲んでいたが、通り掛かった教員の誰からも咎められることもなかった。中庭で枯葉を集めて焼き芋をしていた時はさすがに用務の人から叱られたが、少なくとも教室の外で酒を飲むことについては別段お咎めナシの自由な雰囲気が少なくとも当時の大学にはあったし、教員も交えて教室でコンパをやったことも数度あった。
きれいきれいな校舎への建て替えを進める前に、建て直すべきものがいくつかあるようだ。少なくとも某国士舘大学の前理事長に淵源を発するあの連中は一掃されるべきだろう。


疲れた  (2004.06.23)

今日は疲れたので一旦休み。
寝る。RIP.


つづき  (2004.06.22)

しかし、レヴィナス流の倫理は極めて特殊かつ場合によっては理不尽なものに映りかねない。なぜなら、無前提に他者と「私」が非対称的な関係にあることを前提とするのであれば、いかなる命令であろうと「私」は従わなければならないからだ。確かに歴史の暴虐に堪え忍んできた東欧系ユダヤ人の置かれてきた境遇という文脈の中で考えるのならば、ある程度の説得力をも持ち得よう。だがそれが普遍化しうるのかというとそれは確実ではない。無論、レヴィナスは倫理的な問題の普遍化不可能性を支持するわけだが、これは少なくとも論理的には遂行性の矛盾を来す。普遍化し得ないものであるのならば一般化できず、それ故に特殊性も主張し得なくなるのである。特殊は普遍との弁証法的関係の中で普遍の暴力に抵抗するよすがとなると主張して限定的否定の中での主観の客観に対する解放の可能性を不可能性の中で追求したのはアドルノだったが、私にはレヴィナスのこういった主張が時として彼自身が批判したブーバーの倫理に似てきてしまうのではないかと危惧を抱く。当然の如くレヴィナスはそれに対抗する形で超越的なものとしての「正義」という概念を『存在の彼方へ』の後半で持ち出してくることは持ち出してくるが、どうもそれは間に合わせ的ではないのかとの疑問を払拭することはできない。だから、私が思うのは、確かに他者と「私」との関係は一般的な定言に還元することはできず、絶えずそれを訂正することに対しては廉直でなければならないという程度のものだ。だが、これはあまりに中道過ぎ、何も言っていないのと同じだという批判は十分に想定できる。訂正する時の原理はどこに求めるかが余りにもおざなりであり、訂正という考え方が他者の「激越さ」に対して余りにもナイーヴすぎるからだ。レヴィナスの言う他者は「訂正」というあり方の余地すら奪うものであって、容赦なく哀訴を突きつけてくるものだというものだからだ。このような見方はフロイトが宗教に対して断じたように神経症的ではあるが、だからといってそれを「病徴」をタテにして斥けるのもまた不毛な態度だろう。
で、どうすればいいのだろう。

つづく。


善とは  (2004.06.21)

今日は休日(ちょっと仕事で出勤したが)だったので、行為の道徳的判断について考える。
仮に理由あるいは動機が善であれば結果についてはとりあえず肯定されるのか、あるいは結果が善であれば理由とか動機については判断しないのか、そしてそのどちらがより善であるのかを考えた場合、功利主義的な立場を取るのであれば、明らかに後者の立場を採用すべきだろう。そして前者の立場は単なる自己満足に写る。価値の相対性を前提とするのであれば、善についてのクレドは単なる自己満足あるいは独断という危機に陥る可能性がある。無論それが分かっていたからこそカントは実践理性の基本的な格率として「汝の意志の法則が〜」というのを掲げたわけだが、現在主流であるこのような結果論あるいは功利主義的な立場に敢えて抗する視点を考えてみるならば、動機に善への志向が含まれていない限り善なる結果は導き得ないというものがある。すなわち、結果のみを善か否かで判断することは無意味(なぜなら道徳的価値の判断は行為に対する律法的な意味での決疑論ではないから)であり、意志が善であることは結果が善であることの必要条件であると考えられ得るからだ。だが、同様にして逆に考えれば、結果が善であれば意志の善性は蓋然的であるにせよ措定可能だということにもなる。しかしそれはあくまで蓋然性でしかないので、行為の総体を道徳的に判断するのであれば、意志についての道徳的判断も必要になることは否定できない。
だが、ここまで考えてみると、善であることを判定するドグマ的な基準が仮にあったにせよ、その基準が善である自明性はどこにもない。善が悪であるならば、悪は善であり得るからだ。このような立場は実際ハシディズムに見られるものだが、結局は善とは何か、を考えつつ行為する場合にのみ善についての実践的判断が可能になる。仮に社会的に認められるものとしての善を単に行うだけであるのならば、それは主導的な価値に従ったに過ぎないわけで、それが普遍的に善であるという確実性は獲得できないし、恐らくその必要性もない。たしかに慈善などの行為においてはそれは有効ではあろうが、レヴィナスが言うような個人間の倫理的行為においては、仮にそのようなことに従ったとしてもそれは余り意味があるものではない。レヴィナス流の倫理的立場を取るのならば、全ての価値判断力を剥奪された上で他者の身代わりとなろうと意志し続け、意志を否定し続け、そしてその現前するにもかかわらず表象不可能な「顔」の哀訴に一切の主体であることを捨てることで倫理の可能性がようやく確立する、ということにもなろう。

だんだん混乱してきた。勉強やり直し。


日曜がNeeeeeeeeeeee!  (2004.06.20)

休日出勤。来週も休日出勤。日曜になぜ休めませんかこの会社は。仕方ないけど。
6/6は休みにして出かけたが、本当はこの日にも仕事があった。しかも非常に無意味な。だから休みにしたのだが。
CPUファンの回転数が購入時に比べて5%ほど低下している。UDを回している状態だと余裕でコア温度が75℃とかになるので、交換を検討。

参院選挙での演説をテレビで見る。どいつもこいつも演説下手なので呆れる。
どうせ聴衆は演説の細かい内容なぞ聴いていないから、ひたすらその場は盛り上げればいいのだ。集団と化した個人に理性とか知性などあるものか。そういうものは地下墳墓のような冥く静かなところで初めて意味を持つものだ。そういうのに耐えられない人間に対話的理性を期待したところでそもそも無駄だ。

さて、バイクを漕ぐか。


置きみやげとしての談判  (2004.06.19)

今日もエアロバイクを漕ぐ。大分楽になってきた。ただ、少しでも負荷がきつめになるととたんに足が悲鳴を上げるのは良くない傾向だ。これは鍛えていくことで解決したい。

全データ完全デジタル化進行中。図と文章が複雑に混じっている書類はいじるのに手間が掛かるが、そうではないプレーンな文章は片っ端からスキャンしてOCR、という作業を行っている。しかしそれにしても仕事場のマシンはメモリを256MB(しかもビデオメモリと共有)しか積んでいないF社のマシンなので、少々きつい処理を連続して行うと途端にスワップが発生しまくってそれだけで何分も待たされる。メモリ規格が合致すれば余っている部品で増強できるのだが、恐らくムリだろう。以前同じ型のマシンのHDDを交換した時、余りにもドライブ類の取り回しが煩雑だったのでキレそうになった。ボランティアでそこまでやるのはイヤだ。

先日修理したマシンは、何遍も何遍もセキュリティの話をしておいたのでとりあえずは懲りたらしい。

『論理哲学論考』(岩波文庫版)にとりかかる。早速訳わかんなくなってきた。メモ必須。


感動は罪悪だ  (2004.06.18)

仕事。もういい。疲れた。愚痴を言い合う同僚もいない。

感動することがなぜ罪悪なのか、ということを理解せぬ御仁とは死ぬまで議論がかみ合わないような気がする。
それを承知で生きていくためには沈黙を守るか、そういう人間が生息できないような世界に住もうと努力するしかない。そして後者の道はとてつもなく険しい。かくして日々に沈黙だけがうずたかく積まれてゆく。

感動することは罪悪だ。なぜなら、そこから先への思考を「感動」は力ずくで叩き潰してしまうからだ。仮に感動すればそれでいいのであれば、そのような物語装置はいくらでも作ることができる。とりあえず元気そうな人物を出しておいて、その人とそれを取り巻く人々に感情移入させておいて、その人物ができるだけ悲劇的な死に方をするように筋を回せばそれで事足りる。あるいはサヴァン症候群の出現を連想させる障碍者が周りの人々を圧倒していく筋立ては、自己の無力さを自分の努力ではなく生まれつきの問題にすり替えたがる人々にはウケがいいだろう。

許光俊が以前〈邪悪〉というタームでポストモダン的な審美的立場のあり方を説いたことがあった。曰く、邪悪であることは価値をその価値基準と共に眺める態度である、と。これは必然ニヒリズムと表裏一体だが、何も考えないで涙を垂れ流すよりはその方がマシだ。『セカチュー』で感動してオイオイ泣いた人達よりは、「しない善よりする偽善!」とか言いつつUDを動かす2ちゃんねる住人の方がその点遙かに現実的かつ理想主義的なのはそのためだ。彼らの内の少なくない人々は、アンディ・フグを、ジャン−フランソワ・リオタールを、エドワード・サイードを、あるいは「名無しさん」を死に追いやったものが何であるのか、知っている。そして、そこで流された涙が感情移入による自己満足の涙ではなく、悲しみであり、怒りであることを知っている。

感動は罪悪だ。冷徹に怒る力こそ、世界を真の意味で変えてゆく。

悲しい。


ピュロニスト  (2004.06.17)

会議が長いらしい。私が出ている会議ではないので別にいいんだが。
もういいよ。


筋肉II  (2004.06.16)

足が痛い。昨日鍛えすぎたようだ。
喉が今ひとつ本調子にならず。痰は相変わらず。

『五輪書』を読み進める。すげえ独断ぶりがすごい。なんでここまで自信あんのかと思うくらい強気だ。人を斬ってきたという自負がそうさせるのか。まあなんにせよとりあえずものすごい強気だ。こんな性格だから仕官の口がなかなか見つかんなかったのかなとか思ったりもするが、強いんだからそれでいいのか。

頂戴した「詞」集を読む。最近読んだ茨木のり子の詩集と併せて左右からボカスカ殴られている感じがする。

アマゾンから本到着。


部屋の掃除  (2004.06.15)

休みだったので部屋の掃除。文庫本を整理する棚がもう限界に近づきつつある。仕方がないので別の本棚のカタログ類を全て処分して空きスペースを作る。
そのついでに不要な紙類の処分を行う。出てくる出てくる。1994年のぴあmapとか運転免許試験のために買った問題集とか。『広島の犠牲者のための哀歌』のスコアが発掘できたのはめっけものだったが、他にも行方不明の本が数冊あるので、それらを探すためにも本棚の整理は続けた方がいいな。問題なのは画集類と辞書類とスコア類で、無闇にサイズがでかいために現在は数箇所に分散しているのだが、至極使い勝手が悪い。きちんとまとめるためには相当の大移動が必要になる。画集とスコアはまとめられるとしても、辞書は現状でもかなり厳しい。どうすべきか。


わーくす  (2004.06.14)

"works"コーナー新設。と言っても大昔に書いたものを、セキュリティ関連を調整してPDFにして並べているだけ。追い追い手直しが終わった翻訳などもちょこちょこと載っけていく予定だが、どこまで進捗することやら。一冊デカいヤツを予定してはいるのだが、体力と気力が続きません、多分。

次はリンク集の改訂が待っている。御茶屋氏からも直すように言われてしまっているので、これは急がねばなるまい。すんません。


眠い  (2004.06.13)

眠い……
いくら寝ても寝足りないのはなぜ。眠剤は弱いものしか飲んでいないのに。

人の顔と名前を覚えられないのは「コミュニケーション能力」とやらが欠落しているからか。誰が誰だか分からなくなってしまう瞬間が最近多いのはなぜだろう。BSEかね。

CLANNADは買ってあるし、一応インストールもしてあるのだが、やる気力が起きない。ずっと昔に購入して積みタスクになったままの加奈も家族計画もやる気が起きない。テキストを読むのは面倒ではないのだが、そのためにわざわざキーボードやらマウスをカチカチやるのがこの上なく面倒臭い。いわゆる涙腺緩みっぱなし系の作品に対しての敵愾心あるいは警戒心がオレンジあるいはレッドまで高まっているからかもしれない。

おや、『権威主義的パーソナリティ』が再版されている。青木書店なのでどうせ1200部くらいしか刷らないだろうから買ってしまおう。アマゾンさんは1万以上の買い物について1000円割り戻してくれるようなので、ついでに細かいものもチマチマと買っておこう。


応責性  (2004.06.12)

気が滅入ることばかり続く。元々それほど晴れやかな性格ではないが、尚更気が滅入る。田圃の脇の道を走行しているとそのままダイブしてしまってはどうだという悪魔の囁きが聞こえる。車一台水田に突入したところでさしたる実害があるわけではないのだが、疲弊し弛緩しきった日常に穴を開けたいという気持ちの幾分かはそれで満たすことができるだろう。

罪障性。自分が世界の一切の、少なくとも自分を取り巻く全ての事柄についての罪責を背負い込む意識。あの人が悲しんでいるのも、日本経済が一向に立ち直らないのも、何もかもがうまくいかないのも、全て私が悪いのだ。このような泥のごとき罪障が鬱の基本的症状として横たわる。自分が触れた物は全て穢れたものであり、程なくそれらは変色して朽ちてしまうだろう。直線ではなく、奇妙な色で歪んだ空間に蟄居することで世界の全ての不幸を背負い込み、ゼロの特異点にむけて一切を飲み込むように引きずり込んでゆく。そうして自分が崩壊するシステムのなかでノスタルジックな微笑みを浮かべてただ座り込む。自分の罪責性が現実の形として構造物を腐食させるのであれば、それは淀みに澱む自意識の破滅の轟音こそ、限りない歓喜になるであろう。しかし感情があること自体が既にこの上ない自我という獰悪なものの証なのだから彼はそこで白痴のような表情で口を半開きにして空を見上げつつ自らの死を渇望していることだろう。空は夕暮れて青く高く、雲が流れるのが天窓から見える。汚れた母音で構成された微かな原初の叫びを間歇的に上げながら、彼はいつの間にか崩れ落ちる鉄筋の犠牲となった。

なぜ、なぜ、なぜ、なぜ、なぜ、自らの罪を我々は分かち合うことをしないのか。なぜ、なぜ、なぜ、なぜ、なぜ、人々は「悪いのはお前だ」と恐ろしげな表情で言うのだ。もうやめてくれ。悪いのは私だということは分かり切っている。だからこれ以上陽に当てるのは止めて欲しい。救ってやると善行を行うあの尊大な顔つきで、私の裏庭を踏み荒らさないで欲しい。もういやだ。もういやだ。もういやだ。

日が暮れる。夜が明ける。そして時が過ぎていく。


碩学よ  (2004.06.10)

健康な精神はどうすれば手に入れることが出来るのか。
このような問いを発している段階で既に十分すぎるほど不健康な気がするが、そろそろニヒリズムの泥沼から抜け出せてもいいのではないかとか思ったりもする。しかしそれ以前に「健康な精神」というものがどのような状態であるのかを考えなければいけないのは事実だろう。だが、「健康である状態とはxである」とした場合、xである、あるいはそうではないと自分を認識した場合、クレタ人のパラドックスと同じで、その根拠が正しいという保証はどこにもない。とするのであれば「健康な精神を意識しなくなった時が一番健康である」あるいは「精神そのものを意識しなくなった時に健康である」という仮説を導くことができる。そうなると健康な精神を志向しているうちはいつまで経っても健康にはなれないということになる。精神を失った状態が精神を意識しないのと状態として同義であるのならば、完全に発狂した人間はすこぶる健康ということにもなろう。ジイドが「ニーチェは意志して狂人となったのだと思いたい」と言ったのはそういうことか。

どうすりゃいいんだろうね。

そういう人はプロザックを飲んで寝てろ、と一昔前のクーロン黒沢とか鶴見済なら言うかもしれない。初期の森田療法みたいに一週間くらい何もできない状態でベッドに横たわって寝ているという治療はこんな精神には時として有効ではあるのだと思う。



オートマトンじゃなく 人に進化して
君に向かうことができれば
恋の希望がある 目を閉じた先に
断絶の祈りの果てに

もう引き返せない 遠い旅をして
歴史の境目まで来てる
絵に描いたみたいな 僕らと未来に
最高のキス降ってくる

もう滅びつつある 人と世界には
語りかける必要はない
僕ら生まれ変わる 新しい人に
最後のジェネシスを越えて


                  Shiho / Kiss the Future


大阪に生まれた  (2004.06.08)

色々あってカード会社に利用限度額を一時的に引き上げて貰うべく電話。
30分後にOKの電話が来たが、大阪からの着信で担当者が関西弁というベタな展開には少しく笑った。

話し合いの途中でヴィトゲンシュタインの言語ゲーム理論についての説明を求められる。永井均はかなり独我論的にこれを捉えているわけだが、それを踏まえた上で「赤いリンゴ」の話をするとなるとこれがなかなかどうして難しい。言語ゲームとはそもそも何なのか、普通の言語観とどう違うのかを説明しているうちにソシュールのそれとかなりごっちゃになっている自分に気づく。恣意性についちゃ似ているといえば似ているのだが、言語の意味の生成が内在的であることのゲーム性なんかは確かに自分でもうまく理解しきれていないような気がする。むしろメタ言語の方から考えた方が便利なのか。以前読んだリオタール関連の専門書では「言語ゲームは言語の外部を認めないという点でよりラディカルである」みたいなことが書いてあったが、これはどういうことなのか。外部性すら言語ゲームの規則あるいは「手」として取り入れられてしまうということなのか。少なくとも後期ヴィトゲンシュタインが超越的なものを認めていないのは明らかなのだが、認めていないことと言語ゲームの話がうまくリンクできない。もうちょい考えつつ『哲学探究』を再読する必要があるか。

明日エアロバイクが届く。買ったのはこれのAF5900なるモデル。電源が電池というあたりがマグネット負荷式の特徴っぽい。期待して待つことにしよう。元を取るくらい痩せねば。


買っちゃった  (2004.06.07)

エアロバイク購入。39000円也。今月は年金(そう、あろう事か筆者の勤務先は、厚生年金を納めていない!)の引き落としもあるので、貯金がマズいことになるな…… 倹約倹約。
と言ってる先に寝床の電気スタンドが死んだので買い換え。8400円。
取り敢えず本を買うのは控えて、積みタスク消化に力を注ごう。

ウイルスメール着弾。誰だ、私の携帯アドレスを知っていてNetskyに汚染されとるのは!


蒸し暑い  (2004.06.06)

所用で江戸へ。場外馬券売り場の周辺だけ異様な雰囲気。なんなんだあれは。
ギラギラとした殺気のようなものが周囲を支配していて、ただですら喉の状態が悪く気分が晴れないのにさらにドス黒い気分になる。この陰々滅々たる空気はパチンコ屋の新規開店日の朝に店の前を通りかかると強制的に肺胞に流し込まれるそれに近いが、かなり以前自分もああしたバクチをやっていたのだからあまり人のことは言えた義理ではない。あまりの利益率の低さに早々に足を洗ったことは洗ったのだが。

蒸し暑さに限界を感じる。これはもう痩せるしかない。安い方のエアロバイクを取り敢えず買おう。

頼まれていたパソコン修理完了。トロイの木馬に汚染されていたらしく、ボロボロの状態だったのでデータだけ救出してクリーンインストールする。で、ウイルス(とか)にやられたという話はかなり聞くし、実際修復したことも何度かあるのだが、WindowsXPの場合、メーカー製マシンはデフォルトのユーザーにAdmin権限なんか持たせない方がいいんじゃなかろうか。サポセンがそれで多少忙しくなったとしても、汚染されたマシンがボコボコ増えていくよりかはなんぼかマシだ。悪質なウイルスになるとユーザー権限に関係なくシステムを完全に壊してくれるらしいからそれでもダメな時にはダメなのだが。そんな訳で今度直したマシンの持ち主にはセキュリティポリシーをガチガチに仕込むしかあるまい。理解してくれなくても理解させなければならない。


で、  (2004.06.05)

近所の大型量販店めぐり。
どうも負荷のかけ方がどう違うかで3万円ちょっとで買える安いやつと8万くらいの高級品に分かれるらしい。

悩む。すごく悩む。
デブではいけないことは十分分かっているのだが。


『ルバイヤート』をダラダラ読む。
イスラム教徒なのに二言目には酒飲む酒飲むと投げやりになっているあたりに人間味を感じる。
杜甫も「今夜の晩酌の相手は自分の影だ」みたいな詩を書いていた。みんな世の中が嫌いなんだな。


八萬圓  (2004.06.04)

ダイエットのためにエアロバイクを買おうか微妙に検討中。
楽天で調べると8万くらい。微妙に高いなあ。
5万くらいなら即断して買うのだが。明日大型量販店などで調べてみよう。


陽の当たる坂道で  (2004.06.03)

東京少年『陽の当たる坂道で』を聴く。ええ歌や。
一度だけ見たことのあるPVがまたいい出来だったような記憶がある。

数年後再登場してきた笹野みちるは中途半端な癒し系とレズビアニズムの狭間で苦しんでいたようだったが。

癒し系を中心とする感動は停滞を産む。本源的には何もしたくないのはこっちだって一緒だ。マーラーの交響曲第9番のフィナーレのような黄昏色あるいは琥珀色の破滅の中で甘い甘い崩壊と終末を夢見たがるのは別段私に限ったことではない。そしてその甘美な涙に浸るのはよくある光景である。

でも、それじゃあなあ、と思う。泣ければそれでいい、というのはマヨラーの屁理屈と同じだ。
というわけで今後私は感動至上主義者のことを「感動マヨラー」と呼ぶことにする。

昨日は自分が暴徒と化して図書館に火を放つ夢を見た。最初は立て看板を撤去するのしないので揉めていた一団に向かって遮二無二手許の得物を振りかざしてある人物を撲殺する。断末魔の叫びに味を占めた私は全ての終末を叫んで火による聖化を絶叫しつつガラスできれいに装飾されたテラスへ乱入してゆく。書架を蹴倒し、アルコールを撒いて火を付ける。取り返しの付かない行為に対する悲しみの喜びに打ち震えつつ、私は衛視に対して小津安二郎の映画の場面を胴間声でがなり立てつつ、どこからか見つけてきた刃物を、両手を血塗れにしながらも振りかざす。もはや獣同然になったような咆吼と雄叫びを上げて、気が付けば雲霞の如く増えた暴徒と共に力の続く限り全て斬りつけ、蹴り倒し、怖し、放火し、破壊してゆく。私は叫ぶのだ、「それがこれなのだ」と。灰燼と化した煙くすぶる雑踏の中で私は目を血走らせ、血とも汚穢とも付かぬものを全身に浴びたまま、「自由、自由、自由!!!」と半狂乱のように笑みを浮かべながら塵置き場と化した階段を転げるように降りてゆく。その日の空は青く澄みつつも、空のあちこちからけたたましい軍事力の轟音がこだましていた。我々は間もなく滅ぼされるのだ、左の掌に僅かばかり掴んだ自由の代償として。狙撃兵の銃声が彼方此方で聞こえる。


それが昨日の夢の内容であった。夢であった。それだけだ。


世界を革命する力を。


旅に出たい  (2004.06.02)

『失われた時を求めて』通読中。修飾節がやたらやたら長い文章にクラクラする。
鹿島茂の言うとおり、こりゃ原書で読んだ方がいいかもね。語彙力があるなら絶対その方が読みやすい。

アイツから電話。「やる気あんの?」みたいな事を遠回しに言われる。
ロジックの通じない人を相手に仕事しているとそりゃ勤労意欲も萎えますってば、と喉まで出かかる。

退職する時には思いの丈を存分にぶちまけてやろう。


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