ご無沙汰してます。  (2014.10.26)

ご無沙汰です。

本ブログ、色々性能面でもアップツーデートなものではなってきてますので、他のCMSに移行することも念頭に置きつつ、一旦更新凍結とします。


還ってきました  (2014.03.15)

非常に、非常にご無沙汰いたしております。

色々な有為転変を経て、再びブログという場に戻ってきました。
どうも、自分としては、文章を、しかも何の役にも立たない日々の思考の記録のようなものを綴っていないと、自分が壊れてしまうようです。
事実、どうもここ数ヶ月の暮らしは、心を蝕むもの以外の何物でもなかったように思います。

外へと向かう勿れ、内なる人に真理が宿るの言葉を胸に、再び言葉を綴っていこうと思います。


『シャッターチャンスの連続』  (2013.03.25)


パーティーなどの大事なイベントでは、せっかくだからデジタル一眼レフを持ち出すようにしている。スマートフォンとかでの撮影は他の人がやるから別にいいし、写真はFB等で共有できる便利な時代でもあるからだ。ナノクリレンズの驚異的な描写力とセンサーサイズの馬力を生かしたボケ味で、ポートレート写真などはそれなりに評判がいい。ええ、一応目にピンは入れて撮ってますから。


そういう経緯で、「カメラの人」みたいな評判が立つこともあり、心優しい方は私の写真をこのカメラで撮ってくれることもあったりするわけです。パンフォーカスが基本のスマホとは違って、絞りで被写界深度を調整する必要のある一眼だとピンが抜けたりすることが多々あるのはまあ仕方のないことなので、ここは特に言及しないことにします。


その時、デジタル一眼を構える時の姿勢に、世代による明確な違いがあることに最近気がついた。私より年上の人たちはDSLRはよほどの機械音痴でもない限り、ファインダーを覗いての構え方をすぐにとることができる。即ち、レンズの鏡胴に左手をあてがい、右のグリップとレリーズボタンに右手をあてがい、ファインダーを利き目で覗くというあの伝統的なスタイルである。ところが、私より年下、特に一定の世代より下の年齢層になると、それが全くできないということに気づく。「ファインダーを覗いて撮るんだよ」といっても、ファインダーがどれであるのか分からない様子だし、そもそもがカメラの持ち方が両手共にグリップするというスタイルなので危なっかしいことこの上ない(D300+ナノクリレンズ+GN50のスピードライトという仕様だと総重量はほぼ3キロになる)。恐らく、彼ら彼女らにとっては、「カメラで撮影する」という行為は、カシオのQV-10に始まる現在のコンパクトデジカメの基本的スタイル以外の何ものでもないのだろう。そしてこのスタイルはスマートフォンがコンパクトデジタルを浸食しつつある現在においても同様だろう。


このことは、撮影のスタイルが変化したという身体的構えの変化以上の意味があるように、私は思う。ファインダーを搭載したカメラで異性のポートレート撮影をしたことのある人は概ね経験があると思うが、ファインダー越しに被写体と目があうという経験は、日常で目があう以上にアンティームな関係性を期待させる非日常的な興奮を与えてくれるものだ。それは、ファインダーという機構が、単なる撮影のための補助的なシステムではなく、目という肉体的器官の延長として、なおかつ意識の指向性を伴うものとして、被写体の意識と関わり合うための手段になりうるからであろう。即ち、私たちの目は、ファインダーを通じて、あたかも手で触れるかのような感覚すら手に入れることになるのだ。そして、一般的な撮影においては、このような撮影を許可するということは、被写体と撮影者の双方にある種の暗黙の合意が形成されていることも場合によっては必要とする。緊張をほぐす際の予備的撮影手段としてケーブルレリーズを用いることがあるのもそのためだろう(リラックスしたポートレート撮影を行う場合には、ケーブルレリーズがよく使われる)。


ところが、それとは逆に、背面液晶による(ライブビュー方式の)撮影が基本となるコンパクトデジカメやスマートフォン、あるいはエントリーレベルのミラーレスレンズ交換式カメラでは、「眼差し」の延長としてのファインダーは存在せず、撮影者以外の介入を許す背面液晶によって構図を決定することになる。これが意味するのは、撮影が、自分の眼差しではなく、広義の公共的な意味での「視点」によって撮影が行われるということだ。「撮影」という、従来極めて私的であった瞬間が、誰もがアクセスしうるものとして開放されることによって、撮影者と被写体の関係性は、私的なものから第三者の介入を許容する、どちらかといえば公的なものへと変化するのではないか。そしてそこで撮影される写真なるものは、荒木経惟が得意とする個人の内面性・主観的心象風景と濃密に融合したものではなく、むしろ公共的な、即ち「私」を捨象したコミュニケーションのメディアへと変容するのではないだろうか。


無論、これは私の個人的な仮説であり、エビデンスなど何も無いものである。だが、もしそうであるとするならば、私たちは、これからより若い世代が撮影した数々のスナップショットについて、そこに地滑り的に生じている内面性の棄却と、かつてプンクトゥムという言葉でバルトが愛した関係性の表象としての写真という位置づけから、撮影者が置かれているその時点でのコミュニケーション構造の投影という枠組みへの変化という文脈で、それらを理解することも時には必要なのではないか。そして、そのよう行為の蓄積そのものがとりもなおさず我々の世代と彼らの世代に横たわるメンタリティの埋めがたい差異を示しているのではないか。


Facebookに流れる桜の写真の数々を見ながら、そんなことを思った。


忘れることもできず  (2012.12.04)

大学時代の知人(女性)が亡くなったという知らせを受けた。

ただですら生来人付き合いがあまり好きではない私は、大学時代の知人・友人との関係がとりわけ希薄で、ほんの数人を除いては全くといっていいほど付き合いがない。それでもその訃報に接したとき、かなり前に彼女からメールをもらい、何回かやりとりをしたことを思い出した。

メーラーのアーカイブを検索したところ、当時のやりとりが発掘できた。10年以上前のものだ。
メールを読み返しながら、思う。10年の時を経て、私が全く別の感情で、このやりとりを読み返すことを、当時の彼女や私は予見できただろうかと。

その意味では、デジタルとは、残酷な世界である。物理的な障害が生じない限り、メディアに刻まれた情報はそれを残した当人の時間を超えて蓄積し、残存していく。じじつ、ネット上では、今は既にこの世にいない人々が残した文章、写真、イラスト、動画等を、私たちは見ることができる。それはまぎれもなく、彼ら・彼女らがかつては情熱をそこに注いでいたのだという在りし日の息吹を、伝えてくれる。

だが、人間というものは、忘れることで生きていけるものではないのかと思う。いや、正確な言い方をすれば、全ての生々しさから少しずつ少しずつ形象をはぎ取って、過去というものを時間の回廊にしまい込んでいく作業をするからこそ、私たちはそれが語り得ぬものではなく、語られうるものにようやくなることに安堵を覚えるのではないだろうか。

しかし、このデジタルという世界は、そのありがちで表層的な理解とは全く逆に、全ての生々しさをそのままにとどめることによって、私たちが忘れることを許してくれない。それは、タンタロスのように永遠の乾きという罰を受けているかのような痛みすら与え続ける。

もちろん、その生々しさと共に忘れてはいけない過去というものは、確かに存在する。けれども、私は、時には少しずつ忘れることで、人として穏やかにありたいと思う。


彼女の上に、永遠の平穏がありますように。


「頭のおかしい女の子」  (2012.09.21)

先日Mixiにログインしたら、「Petite jeté」(http://petite-jete.com/)なる女性向けサブスクリプション型サービスを開始するとのお知らせがあった。カナ名称は、「プティジュテ」らしい。

仏語を解する人はここであれ?と思うだろう。そう、「jeté」は男性名詞なので、形容詞は「Petit」としなければならない。まずここが間違いの1つ。

仮にこれで押し切るのだとしても、「Petite」をカナ音化する場合は「プティット」が一般的である。従って、どうサービスは「プティット・ジュテ」にするか、「Petit jeté」にしなければならない。

当然おかしいよこれまずくない?ということでMixi側に質問してみた。以下返事。

プティジュテ サポートセンターです。
ご連絡をいただき、ありがとうございます。

今回のサービス名にはフランス語を使用しておりますが、サービス名称につき
まして、弊社内にて検討を重ね、文法や綴りの正確さよりも文字の並びやイメ
ージ、見た目や音の響きを優先してつけた造語となります。

「Petite jete」は一つのサービス名としてお考え頂けますと幸いです。

本来のスペルや発音とは異なる点につきまして、何とぞ、ご理解いただけます
よう、お願い申し上げます。

また、今後、当サービスを温かく見守っていただけますと幸いでございます。

この度はご指摘頂き、ありがとうございます。
今後とも、Petite jete をよろしくお願いいたします。
(返事ここまで)

凄いムチャクチャな言い訳で開いた口がふさがらない。Tシャツのプリント柄で使われている英語の言葉が文法的にも内容的にもやばすぎるとかそういう話はよく聞くが、それをMixiがやってしまってしかもそれを「造語」と押し切ろうとしている訳である。あー、そうですか。

で、この話には実は続きがある。
極めて良心的に彼らの「造語」という口実を額面的に受け取ってあげるとしても、この「Petite jeté」にはもう1つの解釈方法があることに、仏語に造詣の深い方ならお気づきだろう。即ち、「Petite」を形容詞ではなく名詞として解釈した場合の問題である。

辞書を引くと分かるが、「jeté」は形容詞としての用法として、口語限定ではあるが「頭のおかしい」という意味がある。従って、性の一致を補って、かつ「Petite」を名詞として解釈した場合、「Petite jeté(e)」は「頭のおかしい女の子」という意味になるのである。

ブランドとかをサービスインする時にはマーケティング担当者は英語のスラング辞典とかを調べてやばい意味になっていないかどうかを調べるのが普通だが、仏語にももちろんそういう辞典はあるし(http://livre.fnac.com/a2773275/Jean-Paul-Colin-Grand-dictionnaire-d-argot-et-francais-populaire とかは私も持ってます)、このレベルの表現については調べてかかるのが当たり前だと思ったのだが、どうもそうではないらしい。

女性の皆さん、「頭のいかれた女の子」とも読めるサイトで、あなたは服を買いたいと思いますか?


会社を辞めることにしました  (2012.09.10)


上記の通り、会社を辞めることにしました。
私をよく知る人は、4月に転職したばっかなのに一体どうしたわけよとか思うかもしれません。
まあそのあたりには深い事情と浅い理由があるのですが、ここでは色々と書けないこともありますのでお察し下さいとしか言う他ありません。時が流れ、全て笑い話にできる時が来たらそのあたりの話は戯画化して書けるかもしれませんが、現在はまだその段階にありません。

で、辞めた後どうすんのよというご質問も当然あるかとは思いますが、まあ人生というか世間というものには至る所青山があるよ、とだけは言えるかもしれません。


公開しました。  (2012.07.23)

「独り言」に、1つネタを追加しました。
こちらからどうぞ。


アイマスライブに行きました(詳報)  (2012.06.29)


6/23にアイマスのライブ「THE IDOLM@STER 7th ANNIVERSARY 765PRO ALLSTARS みんなといっしょに!」に行ってきた。座席はセンター席・前から10列目、脇花道すぐそばというハラショー以外の何ものでもない素晴らしい座席。実際、脇花道を通るアイマスガールズの方々のうち何人か(特にミンゴスこと今井麻美さん)とは目が合ったし、アッキーこと長谷川明子さんには手を振ってもらいました。♪目と目が合う瞬間、好きだと気づいた……というのはさておき、実際素晴らしいライブだったように思う。TwitterのTLを見ていると、明日がライブだから(これを書いているのは6/29)気合いを入れていこうという、まさに「ビューティフルドリーマー」状態のプロデューサー・プロデュンヌ諸氏が沢山いる。それほど、一体感と感動に満ちたライブであった。そういう私も、稀代の名曲と全力で言える「約束」が今井麻美さんによって歌われた時には滂沱の涙を禁じ得なかった。これを読んでいる人でもしもこの曲を知らない人がいたら、是非検索して聴いてみて欲しい。

セットリストや演出については各種ニュースが報道しているとおりであるので、ここではそれについての紹介は省く。ただ、私が思ったことを、つらつらとここでは書きたい。

詳細な考察は後日に譲る予定だが、アニメで取り上げられた「The Idolm@ster」で中心となる765プロのヒロイン達(とプロデューサーや社長も含む)が形成する共同体は、その関係性において恐らく私たちが理想とするものであろうと思う。目標を共有し、時には切磋琢磨しつつも、お互いに助け合う。そして歓喜も、悲しみも、苦しみも共に分かち合う関係。それは時として無論ある種の危うさを孕むものであることは認めなければならないが、紐帯、あるいは連帯が破綻した我々の社会からは、そのような境涯は眩しすぎるほどに眩しく見えるのもまた事実であると言っていい。

そしてアイマスがそのような関係性の物語を虚構として完結させていないのは、その周縁において数多く作られてきたCGMや、声優陣が携わってきたラジオ番組等の豊富な蓄積、そしてIdolm@sterというコンテンツそのものが成し遂げてきた約10年間の成長という物語が、アニメによる集約を経て、プロデューサーやプロデュンヌと呼ばれるファンの間で、1つの架空でありつつも極めてリアリティのある共同幻想を構築し得たという事実が、かの虚構をファンの経験に根ざした1つの共同の理想へと転換せしめたからに他ならない。そして、それを象徴するのが、「みんなといっしょに」という今回のライブのキャッチコピーではなかったのかと思う。

無論、この共同体は虚構を出発点としている以上、ファンの内面にのみその根拠を持つ、非常に脆いものでしかない。また、この共同体が包摂している理想や関係性というものも、何ら現実的なものではない。ライブが終われば我々は「副業」に戻らざるを得ないし、そこに広がる実社会の関係性は、言うまでもなくそのような、我々がライブで垣間見た希望や、味わった興奮を打ちひしぐに十分なものであるということも事実だろう。

けれども、あの日に見た光景から、私は今一度歌おうと思う。


夢見ることは生きること、と。


行ってきました。  (2012.06.25)


6/23の横浜アリーナのアイマスライブ、行ってきました。

触発されて色々思うところがありますが、これはアニメの感想と合わせて近日中に公開したいと思います。


正しい世界は絶対的に間違っていることの見本  (2012.06.19)

ダウンロード違法化が以前可決されてからほぼ決まっていたことだが、先日ついに刑罰化も衆院を通過した。そもそもがこの刑罰化を提案したのは野党転落後ただの極右と化しつつある自民党なので、このまま刑罰化の流れは決まりなのだろう。

本来有価物であるはずの著作物をタダでダウンロードしてきて視聴する、確かにこれ自体は著作権の観点からは明らかに違法である。いわばデジタル泥棒といわれても仕方ない行為ではあると、私も思う。そういう観点からは刑罰化という発想が出てくるのは法律ノーメンクラトゥーラの思考回路からすれば別段不思議ではない。

だが、それは反駁の余地なく正しいが故に、絶対的に間違っている。彼ら著作権の寄生生活者がお墨付きを与えたルートでしか音楽が、映像が、文章が流通しないのだとしたら、我々のこの社会の文化の流通とコミュニケーションは、上意下達のひどく貧しいものに成り果ててしまうだろう。マスメディアの時代錯誤の古色蒼然とした文化産業的アプローチによるマスマーケティング、ステマと揶揄すら出来ないような記事広告、視聴率が10%未満のドラマでのタイアップ主題歌。喫茶店やバーでのBGM狩りをJASRACが積極的に行うようになり、そして今度の、タッチポイントを自ら焼き払ってしまうネットのデータ流通に対するこのような宣戦布告は、結果として社会のコンテクストから例えば音楽を奪い去る。結果として訪れるのは沈黙の春ならぬ沈黙の都市であり、握手券ほしさに数百枚と狂信的な買い方をするファンや、CDラックを眺めて悦に入るようなクラオタ以外は来る人のいなくなったCDショップである。即ち、著作物に寄生して活きる連中は、目の前の小銭に固執するあまり自らの正しさという貧相な正義を社会に押しつけることによって、実は自らの斜陽と破滅を招いているのである。

若年層の可処分所得がどんどん減り、その残りですらスマートフォンの月額使用料に消えていく昨今、最早CDなどを買うだけの有効需要などないだろう。そして沈黙の都市の中で、音楽産業はシャイロックやアルパゴンとともに滅んでいくのだ。ざまあみやがれ!


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