どーにも体調が悪かったので、今日(もう昨日か)はOFF日にするコトに決め、休みながら下に書いた例の作品リストをまとめていた時、携帯に教授から呼び出しが。取り敢えず言ってみると、そこで下の件の返答をもらう。
「否定する以上、その根拠を具体的に示すのが当然なのに、それを意図的に放棄し、自分勝手なへ理屈で偽証し、保身を図るようなヤツに教えるコトなどひとつもない。だからお前もわざわざ手間掛けて教えずにほっとけ。大体、判らなきゃ自分で調べるのが学生の本分だろうが」
本当はもっとキツイ言い方をしていたのだが、そんなコトをゆってました。
言われて、確かに一理あり。疑問に思ったら、自分の知識の範囲だけで結論を導かず、まず自分が知らないと思う範囲を調べるのが道理だと思う。調べて、否定し得る正しい根拠を全て提示して初めて否定できるものである。ましてや都合の悪い事実が在ったからと言ってそれを隠して偽証するなどと、甘えている証拠である。だからあたしも作った作品リストは敢えて公開しない。後日、雑記のほうでパロディの歴史を語ろうかと思っているので、その時まで封印しておくコトにする。
否定する以上、その根拠を具体的に示すのが当然なのに、それを意図的に放棄し、自分勝手なへ理屈で偽証し、保身を図るようなヤツに教えるコトなどひとつもない。私は数カ所のケアレスミスはありましたが、根拠は示していますよね。「それを意図的に放棄」しているのは当該スレッドにおけるARM氏の書き込みでしょう。私は音楽プロパーではないのでそんなに隠し仰せるほどの材料は手持ちにはございません。むしろ、否定するにせよなんにせよ、根拠を提示するのは当たり前のことで、そんなのは議論的言説のイロハのイである。それとも、スコアと一緒に練習番号・小節番号とかまで指示せにゃならんのかい?
調べて、否定し得る正しい根拠を全て提示して初めて否定できるものである。ましてや都合の悪い事実が在ったからと言ってそれを隠して偽証するなどと、甘えている証拠である。ご立派ご立派。だが、この論法で行けば、何かハッタリをかますときにはバレなきゃ何言ってもいい、ということになる。これは恐らくARM殿の豊富な御交友関係とそこからの伝聞の豊富さとも関連があるのだろうけれども、むしろ何かを論じるときには否定だろうが肯定だろうがなんだろうが、自分としては納得できるだけの証拠や論拠を動員するのは当たり前なのであり、むしろそれらを否定するときには、そのうちの一節にでも矛盾があることを指摘すれば全体としての体系にひびが入るということはカントも『純粋理性批判』の後半で指摘していたことだ。だから、問題があるのはやはりARM氏の件のスレッドでのレスのつけ方であって、作品名を例示しつつこのようなパロディといわれる作品もあったのですよ、と論を進めるべきなのが当たり前のやり方なのだ。にもかかわらず、彼は「お勧めの作品を教えろ」との第三者の書き込みに対しては無視を決め込んでいる。これこそが件の教授殿が「甘え」ではないのか?
でも、自作のパロディも手法として存在しており
つーか品性の低いオコサマが、自分に都合のいい知識だけをひけらかして他人を蔑み悦に浸って箱庭の世界でアジっている、なんとも程度の低い脱力モノの図式なんだな(火暴)。だから相手にするのもバカバカしいの。メタ図式というものがお分かりになっていないようですね。無論、私はあなたがご信頼をお寄せになっている教授様とは違い音楽プロパーではありませんから、隅をつつけばいくらでもボロは出ます。が、私がここで問題としているのは、なぜパロディ云々の議論のスレッドでこのような話を持ち出してくるのか、という問題です。これはどうしてでしょうか。こういった構図そのものを招いている思考法そのものが「自分に都合のいい知識だけをひけらかして他人を蔑み悦に浸って箱庭の世界でアジっている、なんとも程度の低い脱力モノの図式」であることをなぜご理解いただけないのか、理解に苦しみます。
あと、細かいコトだけど、上で指摘している、マントヴァのドゥカーレ宮殿で上演された「オルフェオ」は、正しくは「1607年」が初演である。まぁケアレスミスだろうけど、彼が指摘している話なんざ、言われるまでもなくあたしの知識の範疇です。あれを最初のオペラと言ったら笑われるだけ(つーか既にその筋の方達から……)。これはこの部分を書くに当たっては以前聴きに行ったときのパンフを参考にしたためです。ご指摘に基づき、辞典等で調べてみたところ、1607年初演が正しいようです。失礼しました。また、彼が最初のオペラ例として挙げている「エウリディーチェ」はいわゆるオペラ作品かという点についてはこれはカメラータ作品ではないのかという異論も多く存在しています(実際、ランス大学で音楽を教えているJ-C.Rという知人はこれはオペラではないと見ている)。私が採用したのは共通項です。
あたりまえじゃん(笑)ていうかいきなり何を言い出すか。「この頃のオペラや楽曲を聴いていると結構どこかで聞いたテンポやリズムが入り乱れていて、元ネタが判る人はそれを推理する楽しみがあったそうです」は当時の愛好家達の楽しみ方を挙げているのであって、どこをどう読めば、著作権が無視されていたので論拠にもならないなどという反論が出来るのかなぁ。日本語初心者ですかチミも(笑)。時間軸がずれているなあという印象は書いた当初からあって、これは追い追い訂正する予定ではあったのですが、まあもののついでですからここでこの箇所についてはそれを認めておきます。
余録ですがパロディとは本来、文学ではなく作曲の手法のひとつです。15、6世紀の頃流行った、既製の楽曲から固定旋律や構成法などを写し取って作曲する方法のコトを言います。この頃のオペラや楽曲を聴いていると結構どこかで聞いたテンポやリズムが入り乱れていて、元ネタが判る人はそれを推理する楽しみがあったそうです。今は流石に著作権があるから大胆なパロディは出来ないけど、作曲家が自ら作った既製の曲をパロディするコトはよくあったりするのですが。16世紀にはオペラは存在していない。最初のオペラ作品といわれる(異論あり)モンテヴェルディの『オルフェオ』は1608年初演であり、17世紀。また、この時代著作権なるものは全然存在していない以上、何の論拠にもならない。
今は流石に著作権があるから大胆なパロディは出来ないけど、作曲家が自ら作った既製の曲をパロディするコトはよくあったりするのだが。これも間違い(一応付言しておくと、自作曲をパロディ化することは実際よくある)。例えばヤナーチェクの『シンフォニエッタ』にはショスタコーヴィッチの交響曲第七番「レニングラード」の一部が引用され、それをブラス群がバカにする部分がある。さらに有名なのはルチアーノ・ベリオの『シンフォニア』で、これにはバッハからベリオにいたるまでの20以上の有名な曲やレヴィ=ストロースの著作からの引用などが派手に行われている。ショスタコーヴィチの交響曲第15番ではロッシーニやヴァーグナーの引用が見られる。彼の晩年の作風、およびこの作品の内容から考えれば、これらが戯画化されているのは明らかだ。(ヴァーグナーの作品は彼の反ユダヤ主義もあり現代音楽ではあっちこっちで引用されて晒し者になっているのだが、留学中につき手許に具体名を挙げられるだけの資料が無いので省略。ゴメン)
●●●●研究所の●●と申します。う〜、ひどいよ。こっちからは何もお願いしていないのに「これに懲りずに」はないよ。通訳を頼んできたのはそっちなのに。浩平君、こんな慇懃無礼な人になったらいやだよ。
先ほど、弊社●●からメールをお送りいたしましたが、その後、急遽、パリの●●●●から連絡が入り、●●の現地社員が通訳にあたってくれることになりました。
大変申し訳ございませんが、今回の私の件(7日)はキャンセルということで、お願いいたします。●●の方は、確かに●●●にお願いすることになりますので、こちらは引き続きよろしくお願いいたします。
これに懲りずに、今後ともなにとぞよろしくお願い申し上げます。