言葉の力を取り戻せ
−最近の篠原美也子の変化にあえて苦言を呈す−
(1998/10/15)
10月7日、篠原美也子の新曲のシングル『ガラスの靴』が発売になった。勿論私も当日にCD屋を何件か探してこれを早速手に入れて聴いてみた。端的に言えば『Vivien』以来のビート感の強い歌という路線を発展させており、アレンジの技法などはかなり洗練されてきていると言っていいだろう。楽器のあしらい方もそれなりに聴ける水準になってはいる。
だが、何か物足りない。一発で聞き手をブチのめすような迫力に欠けているのだ。よくある、どこにでもあるような、簡単に聞き流せる類の曲になってしまっているとの印象はどうしても拭いきれない。曲自体のテンポも全体としてはかなり上がっており、以前のようなスローバラードを聴くことはできなくなりつつある。本人はこの流れを「パワーポップ」と言っているらしいが。
しかし、その流れについては私はやはり苦言を呈したい。なぜなら、彼女の歌の本質的な魅力とはやはりその言葉だと私は考えるからである。言葉を置き去りにしてメロディーに走ったところで、そこには何もない。あるのはメロディーの分かりやすさによって生じる、音楽の商品化に他ならない。彼女は商品化され、流行の素材になってしまった歌に対して、アルバム『ありふれたグレイ』における数々の歌からも分かるように、批判的態度をとり、それに回収されない人間の想いというものを歌い上げようとしていたのではなかったか。
だが、そもそも、このようにしてかつての問題系が解消され、彼女の歌の流れが新たな袋小路に陥るのはある意味で必然的な流れであったと私は考えている。というのも、『ひとり』や『冬の夜』などで提起された自我の根拠や存在理由の探求というプロブレマティークは、それ自身として探求を続けていった場合、必ず世界性の破棄、そして自我の自己崩壊を導くからだ。そしてそれを回避するために求められるのは、他者との関係において自らを連続的に構築していく過程にのみ自らのあり方を肯定する根拠を見いだすという行為だからである。そしてそれに到達してしまえば、自分の問題というのは事実上他者との問題へと移行する。それは「私」への問いの旅路の完了でもある。そこには現実の肯定が残されているのみになる。ヘーゲル的ではないにせよ、現実をそのようなものとして肯定し、自己と他者との関係をも積極的に意義あるものとして認めることによって、自己及び自我という深い穴へと向けられていた言葉の群は社会性の水面へと放擲される。
それらを具体的に彼女のアルバムに付された性格を追うことによって確認してみよう。まず、最初のアルバム『海になりたい青』では代表曲『ひとり』や『青』において歌われているのは、常に不完全にまま現前してしまう自己とそれを責めるもう一人の自己との激しい闘争である。「このようにして私はある」と「いや、このようにではない」ということの激しい葛藤が、自己を嫌悪の中へと追いやっていく。「このようにしかあることのできない」自己を、もう一人の自己が厳しく糾弾するのである。だから「青」において歌われている「私」は永遠に青になることはできないし、なりうるという可能性すらも認めようとしない。そのような状況をやり過ごすために『Passing』ではそれをあえて合理的に把握しようとする自我の姿が描写されるものの、それが欺瞞でしかないということは「乗り越え」に関するセリフが一般的な法則を指し示す人称で書かれていることからも分かる。つまり、「いつでも口笛吹いて乗り越えられる」のは分かっていても、それを「乗り越えよう」と転換しない以上、それは自己に対する本質的な意志の向き換えにはならないのである。『ひとり』において最後の歌詞が現在の状況を暗示する「雨は続く」という言葉で終わっているのもその証拠である。そして、それらは、つまるところ、これ以上傷つくことに対する恐怖と、それらから「存在する自己」を守ろうとする意志が機能していることを示す。なぜなら、自己の中で責める自己と責められる自己を対立させておけば、それらを作り出す、当の核心的自己は守られるからである。そこには他者の姿はない。『夢を見ていた』でも、自分がいかなるものであるかを相手に問いかけようとする(そこには勿論望ましい答えを希望する自己が投影されている)という点で、この域を脱していない。
次のアルバム『満たされた月』においても事情は似ていると言える。というのも、このアルバムにおいて出てくる人称は「あなた」をのぞけば殆どが「私」である。例外的にそれが当てはまらない「前夜」は現在の楽曲の流れに通底するかのようにロック風味の味付けがなされていることは興味深いが、これをお読みの方は歌詞カードを取り出して、主語が省略されている歌詞の主語に「私は」等一人称単数の主語を置いてみるといいだろう。彼女の歌が共感を呼ぶのは、実はこれらの歌詞が我々自身の内的独白によく似ており、「私」を「これを聴いている我々は」という形で共同化しうるポテンシャルを持っていたからであった。独りぼっちの自己探求という行き場のない袋小路を彼女はあえて歌詞世界の中に展開し聴衆に向けて放つことで、それを共同化したのだ。だからこそ彼女のそうした歌は我々に、すこぶる優しいという本質を持ちつつも、強い、限りなく強いものとして写ったのである。
だが、篠原美也子もデビュー当時で既に27歳の大人である。いつまでもそんな風などこぞの14歳の中学生(笑)のモノローグのようなことは言ってられないし、言う気にもならない。そして「自分のリアルタイムを投影した」という初のアルバム『いとおしいグレイ』ではそれが「あなた」と「私」というマルティン・ブーバー風の世界観へと変化してゆく。歌詞カードを仔細に読めばこれまでのアルバムに比べて「あなた」が軸となって展開される歌が増えていることに気がつくだろう。『ひとり』の『いとおしいグレイ』版とも言える『ありふれたグレイ』は色彩に感情を仮託したせいで表現そのものが乏しくなるというジレンマに陥っているが、このアルバム全般を通じて読みとることができるのはやはり「あなた」が「私」だけの世界に登場することの重要性である。自分にのみ問いかけを投げかけ続け、また自分をそれによって責めていくだけの世界は必然的に他者性の廃棄を招く。それを中断するのは、実際の所「他者」を巡っての一連の経験のみである。他者が現れ、「私」に、内世界的な根拠を提供するような経験をと意味をもたらすのは一つの奇蹟といってもいい。それは『灰色の世代』が証言するように滅多にないことではあるけれども、それを期待することに、そしてそれを期待しうる状況を作り出していくことに、我々の生きる意味もあるのである。そうした視点への岐路に、このアルバムは立っている。だから、私が彼女の一連のアルバムのなかで、最も内容的に高い水準に達していると考えるのは、この『いとおしいグレイ』である。
では、そのあとどうすればいいのか。その迷いが出ているのが次のアルバム『河よりも長くゆるやかに』である。知っての通りこのアルバムは吉田秋生の同名マンガから採られたものだが、作詩技法が以前のものと比べてもさほどの進歩を遂げていないのにも関わらずさらなる視点の拡大を行おうとする点で内容が些か破綻している作品が少なくない。その象徴とも言えるものが『MIND FACTORY』であろう。事態に関する印象についての言及が殆ど(一応あるにはあるが、その掘り下げはなされていない)ないまま、ひたすら現代社会のシステム化に対する恨み言が述べられていく。が、そんなことは塾通いの小学生も含めて、誰だって分かっているのである。問題はそこで我々が何を感じ、どのような境涯にそれぞれが立たされているのかを「私」という視点を通じてえぐり出すことであるのに、それではただの新聞記事と同じになってしまう。そして、それについては彼女も了解しているのだろう、アルバムの後半に収められている『Fool in the Rain』『Dear』の2曲では従来通り「私」という主語がこっそり隠されており、実に完成度の高い作品となっており、人気の高い曲になっている。これらをシングルで発売すれば、キャンペーン次第では大きな反響を呼ぶことは容易に予想できる。で、前者の優れた点は主観的な印象の歌詞を並べ、その葛藤を明示したあと、「行き交う車」から始まる箇所で大胆に視点の転換を行う点にある。ここで我々は彼女と共に視点そのもののコペルニクス的転換を味わうことになる。「私」は実は自分の周りにいる全ての人が持っていることであり、それらのうちに自らあることによって自らの形はイメージされるのだ、ということが、まさしく音速を超えて把握される。そして後者では、それらを元にして、我々は何らかの欠損を抱えて、それに苦しみつつも日々を過ごしていく存在である、ということがあたかもハイデガーの「本来性」のテーゼに対するアイロニーの如く展開される。この歌においてはそれらの欠損状態がいかなる痛みを持つのか、そしてそれらと共に生きていくと言うことはどういうことであるのか、についてを「あなた」に仮託した自己の印象を肯定的に表現することによって示している。痛みとはなんに拠ることなのか、そしてこの世界で他者たちと生きていくということはどういうことなのか、そして自己への問いかけを続けることの意味とは、を吉田秋生の作品世界から浮上させて歌へと昇華させる、そういう強さをこの歌は持っている。即ち、現実的なあり方における我々の生が、ここでは、そのネガも含めて、一旦全肯定されるのである。それは勿論自己の生そのものに対する肯定でもある。だから、『海になりたい青』から始まった自己への問いかけは、一旦ここで終わりを迎えることになる。『Dear』を『ひとり』への今の自分からの応答と定義した篠原美也子は、このことを明確に意識している。ちなみに私は当時このアルバムを聴いたとき、「このあとアネゴは歌なんかつくれんのかなぁ」と心配したものである。
この心配は的中したと言ってもいいだろう。コンサートツアー『Vivien』でのMCで彼女は「『河よりも長くゆるやかに』のあと、一旦曲が全く作れなくなった」と言っている。全部を肯定してしまったから、そのあとにはスタートス・クオに安住してしまうという落とし穴が認識には待ち伏せされている。「現実的なものは理性的である」と言ったヘーゲルもこの罠にはまったと言ってもいいかもしれない。そして篠原美也子もその地点から抜け出せなくなってしまったのである。
が、スタートス・クオにはまるということは認識そのものの死を意味する。認識が死んでしまったところには命ある言葉は芽吹かない。なぜなら、命ある言葉とは、多くのものどもがひしめき、矛盾しあうことに直面することによってのみ、その力を得ることができるからである。全てを認めることによって全てを認識の全体性の中に包み込んでしまっては矛盾もへったくれもあったものではない。弁証法は死滅し、弁証法を瓦解させる言語もない。認識の、そして自己を苦悩に屹立させる、存在理由としての言葉は必然的に彼女のうちでその命脈を失っていく。『Vivien』以降の彼女の曲がメロディ要素を重視したものへとシフトしていくのはそのためなのだ。『満たされた月』『いとおしいグレイ』などと比べても一曲あたりの時間が明らかに1分以上短くなっているのも、彼女が言葉への意識を失いかけていることの証左である。語ることがなければ、歌詞などなくてもいいからである。だから、シングル『ガラスの靴』のカップリング『死にたいほどの夜』でも「負けたくない」の一点張りという単調な内容へと歌詞が退化してしまっているのである。何に負けたくないのか、なぜ負けたくないのか、負けたくないというのはどういうことなのか、また負けるというのはどういうことを指すのか、が全く分からない。『冬の夜』ではそれらに対しての疑義が、言葉に対する戦慄と共に露骨に示されていたのではなかったか。私はこれを篠原美也子における意識水準の低下であると断じることにしたいと思う。
だから、私は、彼女の歌が好きだから、敢えて言いたい。言葉の力を取り戻せ、と。言葉の力を取り戻すとは、言葉への信頼を、認識への信頼を取り戻すことである。そしてそれは自己がたとえ他者によって仮構され、言葉の意味自体も他者によって予め奪われていることを知りつつも、敢えて主観の持つ潜勢力を、想像力をバネにして解放することである。「私」を隠した歌詞を連ねていくことは、決して悪いことではないのだ。なぜなら、全ての人は、そのあり方において「私」だからだ。だから、「私」の力をもう一度信じて、その地点から、言葉を紡ぐ作業をもう一度始めてほしい。言葉は、他者と私とをつなぐ、唯一の細い細い架け橋なのだから。