「経験」を吹聴するのは
いい加減にしなさい
↑(笑)<10/26>

用語解説はこちら


まあ、私も哲学なんか専門でやってる手前、理屈っぽいとか屁理屈屋だとかソフィストだとか色々心ない中傷を受ける。「ソフィスト」はもともと「知恵ある人」という意味だから、原義に立ち返って解釈すれば実に有り難い誉め言葉なのだが、どうせ私をそんな風になじる人は古代ギリシャ語なんかについての知見は持ち合わせていないようなので、一般的な意味で「詭弁家」と解釈するのが妥当だろう。詭弁だと分かっていればプラトンの『ソフィスト』とか『ゴルギアス』のように私の主張を叩いてくれればいいのに、そういうことを言う人に限ってその詭弁的内容を明らかにしてくれないので、私としちゃあ困惑してニコニコするしかない。むしろそっちの方が詭弁なんじゃないの?とは偽らざる私の率直な感想だ。否定神学じゃあるまいし、論及すべき当の内容をごまかすのは言葉が足りないせいだろう。

勿論、私自身としては全く当てはまらない馬鹿げた罵倒には慣れっこなので、そんな腐った手合いにはもう一方の頬を差し出すことについては何の躊躇もないのだが、それじゃあ結局相手をほったらかして自分の優越を高らかに・暗黙のうちに押しつけるだけなので愚かしい。そんなんだったら最初っから相手にしなければいいだけのことであって、一旦相手にしてしまった以上、そこはとことんまでお付き合いさせていただくのが「責任」というものだろう。というわけで私にそうした詭弁を投げてくる人における「経験の神格化」という共通点がいかに馬鹿げたものであるのかを示しておこう。どうせそういった人たちはそれを理解できないのだろうが、その種の誹謗に日々辟易している読者諸氏の一助となれば幸いである。

(1)「経験」を口実にした「自分の言葉」という空論
まあ、よく巷間に流布している表現に「経験によって、その人の言葉には血が通っている」というものがある。曰く、その人の言葉は経験をバックにしているから何とも言えない迫力と真理性がある、という塩梅だ。勿論これは「経験のない言葉」に対する暗黙の非難を含んでいる。実際、私も形而上的な言葉を多用するとこの手の罵倒にしばしば遭遇する。無論、私はそれを想定した上でわざと、経験を超えたものがあるのだということをメタレベルで示すために、戦術的にそのような表現を使っていることが多いのだが、大体においてそのような批判をしてくる人はそれが分からないらしい。そりゃ完全に分かってもらおうとは思っていないが。

が、当然の如く、それは空論である。経験に裏打ちされた表現が説得力を持つ、それ自体は正しい。しかし、それは「理解(言っておくが、これは知識の詰め込みとしての記憶のため込みとは、認識に対する態度が根本的に異なるので、次元が違う)」というプロセスをもたらすか、それを解体し生み出す契機としての経験を意味するのであって、飯を食ったとかトイレへ行ったとか電車に乗ったとかとは全く次元が違う。言うまでもなく、そうした所作のあり方にも意識的経験への契機を見る禅のような思想もあるし、私は別段それが下らないと言っているわけではないのだが、経験をいかなる形であれ、その内容によってきちんと分類しないことには、経験をひたすら神格化することになり、結局はこの世界を妄信的に肯定するだけの、動物と同じ水準の認識態度に堕落してしまう。

無論、経験の分類自体はメルロ=ポンティがメーヌ・ド・ビランの習慣論に加えた批判からも分かるように、観念論的ドグマに陥る危険性がある。しかし闇夜のカラスじゃあるまいし、経験が全て量に還元されると思ったら大間違いである。もしそれが事実としたら日本型の年功序列型雇用体系こそ礼賛されてしかるべきだ。が、それはウソであることが近年の不況で露呈したし、経験は当然の如く知性への質的な契機を持つのである。だから、ベルクソンの純粋持続の発想自体は主観の擁護という点で若干の問題を孕んではいるが、経験のあり方を意識の水準に踏み込んで考察したという点では正しい。

だから、「経験」を口実にして「自分の言葉」を礼賛するのは経験の量的なものへの還元であり、経験とは何であるか、という問題をなおざりにする。エイロネイアー弁法を使って「経験ってなんですかぁ?」とからかうと往々にして「経験しなけりゃわからない」という。おいおい、そりゃあトートロジーだよ。それはハイデガーが「存在」についてお唱えになる有り難いお説と同じで、「そうでございますか」と有り難く拝受するか、「あんたの言ってることは内容が根本的に欠けてるよ」として完全に蔑視するかしかこちらとしてはコミュニケーションの手段がなくなる。経験とは、それ自身絶対的なものではなく、知性を脱構築する機能を持つほどの強度を持ちえてこそ、その意味を持つのである。経験を全く欠いた知性は知性ではないが、知性を蔑む経験の神格化は愚昧の極みである。

これで「経験」を口実にした「自分の言葉」という空論の前半がウソであることが明らかになったことと思う。では次の「自分の言葉」について考察を加えよう。
その前に引用。
「だから、見失った自分は、自分の力で取り戻すのよ」
「たとえ、自分の言葉を失っても、他人の言葉に取り込まれても」
(新世紀エヴァンゲリオン劇場版第26話「まごころを、君に」から)
庵野君もよほど困ったのかラカンの説をそのまま敷衍してんなあ、という悪口はさておき、自分の言葉、というのは実にこれまた欺瞞的な表現である。現実問題として、言葉を通じて我々はコミュニケーションをしている。そこでもたらされる文は相互に、厳密に同一ではあり得ないにせよ了解されるものでなければならない(美学理論としての崇高論などについてはここでは一旦除く)。ということは言葉とは我々の間にあるものであり、入会地のように誰もが利用できるが誰にも属さないものでなければならない。だから、諸々の批判があるにせよ、ソシュールが言語活動としてのランガージュをラングとパロールに分けたのにはそれなりの意味があるのだ。パロールだけでは当然言葉は成り立たないし、ラングだけでは何がなんだか分からない。

ところが、「自分の言葉」というスローガンはパロールの自己所有を絶対化する。即ち、ラングを無視してひたすらパロールの充実化をはかろうとするのである。それではランガージュのラングとしての性格が消滅し、コミュニケーションが成り立たなくなる。勿論、自分の言葉、というのを称揚する人はそれによって他者を排除しようとする意図がミエミエなのだが、だからといってそんな主張が正しいわけでは勿論ない。

でもって、これを倫理の側からラカンを経由して再解釈してみても「自分の言葉」は脳味噌が腐った人間の戯言であることが分かる。ラカンによれば、主体とは常に他者を媒介にして構成されるものである。そしてその最も重要な契機となるのは言語なのだが、その際、意味を生み出すのは話し手としての主体ではない。なぜなら、主体自体が他者によって構成されているからなのだが、さらに言えば言葉の意味自体も他者によって初めて与えられるものということになる。従って、「自分の言葉」とは常に他者によって与えられて意味の同一性を仮構された「他者の言葉」にすぎないし、クリステヴァも言うように全てのテクストはそのような地点に立てば、引用されたものでしかない。にもかかわらず「自分の言葉」を金科玉条にして人の表現をあげつらう人間は、自らの主体性が自明のものであるという誠に妄想的・暴力的な独善の羊水に浸っているのである。そして、言葉を発する段階で我々は他者に対しての非対称的な負い目を担わされる。だが、それと相手の言うことに唯々諾々と従うのとは全く別の話である。だからこそ、レヴィナスはそのアポリア的性格にも関わらず、『存在するとは別の仕方で あるいは存在することの彼方へ』の後半で、正義というタームを持ち出してきたのだ。正義を口にすることはカントの礼賛にも関わらず、極めて悲しいことと言わねばならない。だが、それを了解している人間にとっては、正義を口にすることは一つの倫理になるのである。


(2)「経験」の神格化はそれ自体一つのテーゼである。
社会全体の知的水準が堕落するに従って首をもたげてくるのは、経験の神格化である。曰く、経験している人は何かが違う、経験が人間を作る、理論だけで経験のない奴は阿呆だ、というたわけた宣伝文句がブラウン管からはひっきりなしに漂ってくるが、多くの場合、こういった発想自体が一つのテーゼであることに人々は気づいていない。そして、こうした発想自体がテーゼでしかない以上、より根本的な意味での経験から、そうしたドグマは撲殺されることになる。つまり、偽でしかないそのようなお題目は、自ら生み出したものに復讐され、むごたらしい最期を遂げるのだ。

なぜか。それは、先にも述べたように、経験についての内容規定が完全にほったらかしにされているからである。私は経験自体が下らないものであるとか言うつもりは毛頭ないし、もしそのように受け取られているのであればそれは全くの誤解である。何かを経験し、何かを理解できれば、これほど認識にとって強化材料・自己批判素材になることはない。いわゆる真の意味での「神秘体験」というものはこれまでは経験可能性の外部にあった、語りえないような経験を契機にすることによって、今まで日常性という口実によって自明であった自らの世界観をぶち壊す体験のことなのだが(従って「尊師様」が空に浮くとか髭もじゃのオヤジが手から灰を出現させるとかの行為は我々の即物的認識原理を裏切らない以上、ペテンであって神秘体験ではない。勿論タネがあることからもそれは分かるのだが)、そんな領域が経験にあることにすら気づこうとしない、経験の神格化を奉じてやまない人々は経験をひたすらあがめ奉ることによってその内容の検討を行わないで知的退嬰を暗黙のうちに礼賛する。ハイデガーも批判したとおり(この点においては彼は正しい)、日常性の文脈に汚染されている「経験」においては、それらの唯一の審級となっているのはその新奇さであって、我々にとってなじみがなく、また真新しそうに見えれば見えるほど、その経験とやらの価値も増すことになる。

まあ、実際、なじみがなく、違和感しか感じないような世界に触れることは、認識にとっていい自己批判契機になることはいうまでもない。リオタールの崇高論はこのような点とふれあっているのだが、それは当然の如く主体の自明性への批判と自らの認識態度を振り返るという反省が伴ってのことでしかない。従って、ただ単に自らの住んでいる生活世界とは異なる世界に住む人の経験を知っているからと言ってことさらにそれをありがたがるのは倒錯したオリエンタリズムの亜種でしかない。なぜなら、それは確かに視野の広さにはつながるかもしれないが、認識主観の絶対的擁護という点においてはむしろ認識論的暴力を正当化するものでしかないからだ。「俺はこんなものも知っている。だから俺の言っていることは正しい」というのは金満家の根腐れブルジョワジーが金時計を見せびらかして人々に自己崇拝を強要するのと構図は一緒である。むしろ、経験によって変革された知性は、その表現において、明確な形で示されうるのだ。そしてそれを感受し反省するのは我々の知性、そして感受性の仕事である。それはたとえ言葉ではなくとも、映像、音楽、などの言語的表現形態であろうと事態は同じである。むしろ、そういった知的営為を、経験に還元することこそ、その人にとって失礼というものだろう。だから、なんぼ経験を積んでも、自分を変えられなければ、それはただ単に産業廃棄物が5億トンありますというのと根本的には何も変わらない。そして、経験によって変革された認識態度は、必然的に経験の自明性に対して懐疑的になる。というのも、認識が変革されるうるものであることを自覚している人にとっては、経験は認識態度の変革に伴って、絶えず破棄され、改変されていくものになるからである。知性は経験との不断のやりとりによって自らを更新し、解体し、脱構築し、その恩恵は経験の変容にも至る。トラウマを抱えた人間がトラウマを契機にしてトラウマを克服していくのとそれは同じである。そしてその現場には意識の媒体としての言語が、メタなものであろうとも、伴う。そうしてこそ経験は非言語的なものへの契機を持つからだ。

ところが、経験をひたすらに神格化する連中は経験のこうした機能について語ろうとしないし、人格が経験のみによって維持されているというテーゼを唱えて昼寝に耽る。しかし、それは欺瞞である。まさにそれは理論と実践について今日流布している知的退嬰と原理は同じである。理論と実践の二項対立において実践の優位を支持しているのはアドルノも言うとおり、生産されたものこそ至上であるという資本主義的生産原理でしかない。ところがそれ自身も一つの理論である以上、実践が現れる現場においてはそのような言い訳すら成立しないことになる。即ち、本当に実践のみを至上とするのであればそんな対立は元から存在せず、理論ですらも実践になりうるのである。それと同様、経験を絶対化する輩は経験を神格化するという空疎な理論を提示してそれを護持することによって、真の経験への自らの投企を忌避する。つまるところそれは今の自分を守ることに躍起になっているヒステリー的退行現象であり、社会的に自らが全く無力であることの投影でしかない(言っておくが、これは勿論自己が社会システムのうちに取り込まれており、そこから一歩も出ることができないという実存的状態と認識的状態を指す。しばしば知的訓練を受けていない人が騒ぎ立てるような、賃金を得るとかそういう水準の話ではない。その理由は少々頭を使えば分かる)。往々にして、そうした連中が恋愛を至高のものとして賛美したがるのは、そうした「我と汝」の甘やかし関係においては、時には性愛的な交わりが自らについてのそのような脅迫的イマージュを直視することを回避させてくれるからである。私にもそんな経験がないわけではないので、恋愛それ自体が悪いとは思わないが、それが全てではないことは自明のことだろう。世の中と同様、甘やかしでことが済むほど自己自身も甘くはないのである。

「書を捨てよ、街へ出よう」と寺山修司は言った。が、それが書いてあるのは本である。つまり本なしには経験に「本を捨てる」という意味が生じることもあり得ないのだ。盲目的な経験の礼賛には、「本」という知的営為に対する、素朴さや単純さを礼賛し知的営為からの脱落をごまかそうとするルサンチマンがとぐろを巻いているのである。

インデックスへ 「独り言」インデックスへ