先日友人が私の家に遊びに来た。持参した袋の中にはプレステが。(貧乏自慢になるが、菅原は稼いだ金を片っ端から本やら酒につぎ込んでしまうので、いわゆる「次世代ゲーム機」は保有していない)
定番ということで「パラッパラッパー」(これは掛け値なしに面白い。しかしついつい16分音符でカウントする癖がついている私にはラップでグルーヴィンなリズムにはついていけないのであった)を一通り遊び倒し、続いて友人が袋から取り出したのは、そう、オタクゲーマーへの一里塚であり、ダメ人間への片道切符といわれて久しい、名作(一応全体で百万本以上売っているのだから名作、といっても差し支えあるまい。ゲームの世界は売れてナンボなのだから)ゲーム「ときめきメモリアル」(コナミ)であった。
このゲームの最初のバージョンが発売されたのは今からおよそ4年ほど前だったと記憶している。当時既に黄昏化していつ絶滅するかという状況だったNECのゲームマシン「PC Engine」でこのゲームは発売された。CD-ROMで発売はされたものの登場キャラクターにはハードウェアの制約などで声優の起用はされなかった。コナミもそんなに売れるとは思っていなかったのだろう。同社の看板ゲーム「パロディウス」シリーズに比べれば市場規模は目に見えて小さいと思っても仕方ない。
しかしこのゲームは売れた。PC Engine版でも20万本近く売れたらしい。死滅しかかっていたPC Engineがにわかに売れ出したというのだからその効果たるや相当なものだ。なお、その後継機種として発売されたPC-FX(もはやNECのショールームでも見かけない)がいわゆる「ギャルゲーム」(「卒業」など。「プリンセスメーカー」も発売したと思う。一応女性ユーザー向けに「アンジェリーク2」も出していたはず)を主な戦略商品として発売しつづけたのはこのゲームが予想以上に売れたから、というのもその大きな理由の一つである。また、後にNECインターチャネルがプレイステーションなどで同内容のゲームを数多く発売していったことも同様の理由によるものと考えられる。
思い出話はこれくらいにして、ゲームの話に戻ろう。ゲームの内容をざっとまとめておくと、高校生活の3年間で様々な能力を磨きながら巡り合う数々の女性とデートなどを重ねつつ、大本命であるヒロイン藤崎詩織(プレイステーション版の声優は金月真美。『夢で逢えたら』のヒロイン渚先生の声もあてている人である。やっぱりなあ)から愛の告白を受けるべく邁進する、というものである。「告白」のイベントは卒業式の日に設定されている。つまり相手女性からの「告白」のあとはエンディングしか残っていない。当然予想されるべき山ほどの修羅場は全く出てこない。
早い話が美少女ぞろいのヒロインたちとオイシイ思いを山ほどしながら純愛気取りで本命のヒロインを落とすべく能力のパラメータをいじるという実に現実ばなれした無茶苦茶なゲームなのだが(友人と私がやった時には後半は「信長の野望」よろしく単なる数値いじりゲームになってしまい、ゲームを楽しむことなどできなかった。前半は大笑いしてゲームにならなかった)、まあ呆れるほどのステレオタイプのオンパレードである。ちょこっと温かい言葉をかけてやると頬を赤らめる、デートに行くと好感度がアップする(事もある)、誕生日にプレゼントを贈ると「一生の宝物にします」としおらしいことを言う、会話の言葉は語尾に不安を交えたほのめかしを含んだもの(例えば、「〜君が喜んでくれると私も嬉しいから...」「ううん、なんでもないの」など)にする事や、ですます調がほとんど、学校の帰りに一緒に帰ってやると喜ぶ、ただをこねると瞳を潤ませて本音をちょろりとこぼす、女性側からの呼称は「〜君」なのに、こちら側からの呼称は一定以上親しくなると名前の呼び捨て、などなど。
無論、確かにこのゲーム、男子校で中高6年間不毛な青春を過ごしてきた私のような人間や男子学生比率95%という理数系学部の学生諸君で「彼女イナイ歴19-24年」といった経歴を持つ野郎どもには、行き場のないリビドーを「プラトニックラブ」という噴飯ものの口実をかぶせて「処理」するカタルシス用の道具としては実に有用である。
当然、このようなゲームに対しては猛然と抗議が起きるであろう事は火を見るより明らかである。曰く、「女性に対するステレオタイプ化を助長し、ひいては差別の温床となる」とか、「現実と虚構の境界をない交ぜにしてしまう」などなど。また、
- 「都合のいい作り事で、現実の復讐をしていたのね」
- 「いけないのか?」
- 「虚構に逃げて、現実をごまかしていたのね」
- 「僕ひとりの夢を見ちゃいけないのか?」
- 「それは夢じゃない、ただの現実の埋め合わせよ」
- (新世紀エヴァンゲリオン劇場版第26話「まごころを、君に」より)
という罵倒を食らっても真に仕方がない。が、それでは事の根幹に潜むより重大な問題について全く眼差しを向けていない、という事になる。早い話が片手落ちなのである。それらの抗議は確かに正論ではあるが、かといって事の根本的解決につながるアプローチを何一つ提供していない。「現実を見ろ」では陳腐化してもはや腐臭しかしなくなった切通理作のオタク批判と同次元のタワゴトでしかない。なぜなら、現実とは人の主観によって構成されるものであり、主観同士が相互に意味を投影しあうことにより、「現実意識」は有機的に形成され続けるからである。だからただ単に「現実を直視せよ」というのは退嬰化して同じ事を繰り返すダダッ子と構図的には変らない。
では何が問題なのかについて考察してみよう。確かに、これらのゲームをプレイする層の少なくとも過半数はそこに登場する美少女との「胸ときめく」コミュニケーション、そしてそれを通じてえられる性欲の文化的処分、を期待している。単純に性欲を処分してしまいたいならゲーム代金に相当する札を抱えてソープランドにでも行ってしまえば十分事足りるからである。それが面倒臭ければアダルトビデオでも何本か見てマスターベーションをすれば十分だろう。パソコンなら18禁のゲームが山ほど発売されている。インターネットを覗けば無修正のポルノなどいくらでも欲しいだけ手に入る。
だから、彼らが求めているのは文化的、即ち社会的水準での性欲の合理化なのである。実時間ではせいぜい5分程度で終わってしまうゲーム内での「デート」や「告白(およびそれに付随するエンディング)」がゲーム内でなぜそれほど重要な位置付けを持たされているのか、という事も考え合わせればそれは一層明瞭なものになろう(これは日常生活においても同じだが、丸一日、場合によっては数日潰さなければいけない辺りがゲームとは違う。そして、最大の違いについては後述する)。
さて、この「文化的・社会的水準」という語が示すのは一体何であろうか。「性欲」が、その処理方法は別としても多分にア・プリオリな生物的条件に支配されるのに対して、「社会・文化」といったものは人為的に構築されたものであり、それゆえ生物的基準との必然的連関を持たない。
もうお分かり頂けただろうか。それらの語が示すのは
「ジェンダー」に他ならないのである。イリイチが提唱したこの概念はもう少し複雑な内容と問題提起をはらんでいるが、ここではあくまで一般的な意味で使わせてもらうことにする。社会的、文化的文脈の上で再解釈され意味付けが行われる「男性」「女性」。これがもたらした神話に応じて個人の表出行動の方針と内容は決定される。その神話に忠実に自らを規定し行動する人物があらまほしき「男性」「女性」として称揚されて、それらのジェンダーのアーキタイプを作っていく。そしてこれら文化的に規定された、ジェンダーとしての「男性」の表象体験が、彼ら「ときメモラー」たちのゲームプレイの目的であり結果なのだ。
とすると、彼らは「男性」をそういったゲームの中で機能させ、ロールプレイを行うことによって、自らが男性であることの確認を遂行しているということになる。なぜなら、周囲が男性ばかりの特異な状況ではそういったロールプレイはほぼ不可能であり(若干の例外はある)、外見等様々な条件によって異性との交際を断念せざるを得ないような個人においてはそういった神話を更新する機会を放棄するしか道が残されていない
(勿論外見などを向上するという道もあるが、それには積極的端緒は何によってもたらされるべきか、という難題がある)ことになるからである。日常生活において異性との交流がある場合はそういった神話が19世紀のブルジョワ主義の残骸でしかないことはすぐに分かるのだが、不幸にしてそれを持たない、そしてそれについて自覚的になれない場合は、かつて自分が担わされた神話をひたすら黙々と達成し表象するしかない。その場とは即ちCD-ROMから読み込まれたメモリ空間であり、藤崎詩織であり、人によっては綾波レイだったりするのである。
勿論そういったゲームにスポイルされて、日常生活でも全く同じ立ち振る舞いをするような奴がいたらその人物は非難されて然るべきである。が、同時に、彼は未だ残る「男性性」の神話に拘束され、フーコーの言うところの「主体という牢獄」にとらわれている虜囚であるという事も我々は看過すべきではないのだ。
ではこの「牢獄」を生み出しているのは誰なのか、という事になる。それは言うまでもなくそれを価値規範として受容してしまう彼らであることは言うまでもない。しかし、それらを価値規範として認識するべしとの要請を不断に創出しているのは何なのか、という疑問が当然のごとく持ち上がる。そしてそれは勿論我々の社会であり、そこには社会を構成する者としての「女性」も含まれているのである。
つまりはこういう事である。そういった「要請」としての神話を生産しつづける現場には「男性」のみならず、「女性」も立ち会っているということなのだ。今世紀に入り女性の権利が著しく発展し、また教育における男女同権もほぼ確立されたといっていい。当然、事実としてジェンダーの位相は変容するし、それによって旧来の規範の実践の場は崩壊して行く。従来「抑圧される側」であった性であるところの女性にとってはこれほど晴れやかなことはないだろう。疎外されていた「主体」を獲得することになるのだから。
だが、翻って「男性」の側はどうなるのだろう。固定化し制度化した「主体性」というイデオロギーに対してのラディカルな批判が加えられることはまずない。フーコーの批判についてそれを咀嚼できる人間などごく僅かである。そしてその「主体性」に憑依する「責任」「自主性」という概念もまたプラクシスなき義務として「男性」を拘束しつづけることになるのである。「ときメモラー」である彼らが真面目であればあるほど、それは深刻なものとして現実的義務になり、プラクシスを欠くことで彼らは無力感に打ちのめされ、より一層「牢獄」の住人と化していくのである。
それに対し、「仮想現実」という形であれ「義務」の実践の場を提供するのがそれら一連の「恋愛シミュレーション」である。実際、それらに出てくるヒロインたちはテレビに出て耳の腐るような歌を撒き散らすアイドル
すなわち、彼らがそうしたゲームに耽るのは未だに再生産を続けられている「男性性」に対する頗るジェンダー的な神話がまじめで社会的経験を欠く人々にとっては有効な物語として拘束的機能を有していて、そこから彼らが抜け切れていないことの証左である。だから、我々は彼らを嘲笑う以前に、それらの神話を生産しつづける人々---そこには「女性」も含む---に対して痛罵を浴びせるべきである。そしてその神話に少なからずスポイルされつづけている自らに対しても厳しい警告を常に発するべきなのである。
かつて、メアリ・ウルストンクラフトは「女性的」なデリカシーのことを「女性が受けた差別的教育の産物」として非難した。我々がそれに依存しない言葉を編み上げるのはいつのことなのだろうか。女性を不幸にする社会とは男性を絶望させる社会でもあるのだから。