今日はVAIOの新モデルのコマーシャルの話から始めることにしよう。多くの人が目にしている通り、ソニーが発売しているVAIOの今年の夏モデルは、テレビをパソコンで「録画」して「見る」事を一つの使用法として提案している。でもってその時に番組表などは当然の如く「インターネット」からダウンロードしてくるという。ああ、なんてクールな使い方なんだろう。家電としてのPC。対家庭普及率がとっくの昔に100パーセントを超えたテレビの代わりを、インターネット家電としてのパソコンが務めようというのだ。素晴らしいじゃないか……
だが、ここには大きな陥穽があることは言うまでもない。インターネット、特にWWWを利用するほとんどの人が、それに気付いているだろう。何のことはない、インターネットを利用する人はもはやテレビなんかまともに見はしないのだ。そして、今回の「独り言」は、この事実を元にして、考察を出発させることにする。
さて、ここ数年、特に今年の初頭から現在に至るWebでの色々な出来事は、一つの階級闘争ともいうべきものが、この情報社会において展開されつつあるということを明らかにしてきた。知識集約型社会が成熟するということは、必然的に流通する情報量の爆発的増大を招来することになるが、現在の日本社会は、まさしくこの段階に到達しつつあると言っていいだろう。即ち、かつて限られた者のみが所有し管制することができた情報という財は、社会自体がより知識集約型への傾斜、そして高度情報化を強めるに従って、徐々に量・質共に増大することによって、限定された集団の特権的受益という構図を破綻させてきたのである。第二次大戦後、先進国において急速に台頭してきた勢力がまさにマスコミであり、「第四の権力」とまで言われるようになってきたのには、そのような産業構造の変化・高度化が紛れもなく作用している。このことは常識であろう。マスコミはそのような「情報」を流通させる唯一の担い手であり、そうであるがゆえに厳しい倫理的姿勢を求められても来たのである。それは現在の産業構造において、ある種の「貴族」と化したマスコミ、特に報道関係者に対する"Noblesse Oblige"として確立されてきたのである。出版関係者の、異常としか言いようがない時間に対するあのルーズさは、まさしくそのような特権意識の裏返しとして現れてきているものである。John Dvorak氏の怨嗟に満ちたコラムは、その階級構造が今日においても未だ根強く残っていることを示している。
だが、かといって現在もまだいわゆるテレビや新聞の報道が絶対的な権威を以て君臨しているかと言えば、そんなことはとても言えたものではないだろう。確かにそれらの出版・放送メディアにおいて情報を提供する人間には、何らかの形で所得を保障するシステムが既に確立されている。即ち、ごくありきたりな言い方をしてしまえば、それらだけで暮らしていけるのであり、書店やブラウン管は彼らの権威の確立に一役買っているのである。ブラウン管に写る「有名人」の顔や物憂げな眼差しを投げる芥川賞作家の顔は、ロラン・バルトがはるか昔に指摘していた様に、ギリシア神話のごとき神々の姿であり、極彩色のイコンなのだ。ところが翻って、Webに原稿を書いたところでもらえる原稿料やギャラというのは実際のところごく僅かであり(私事になるが、私がCopulaにリオタールの追悼記事を書いたときには編集長の森氏から高田牧舎でカツ重をおごってもらっただけだった)、Dvorak氏が嘆いていたように、世間の目も冷たい。私も自分のサイトを運営してかれこれ1年半以上になるし名刺にもURLを印刷してあるのだが、ついぞ人様から尊敬の「そ」の字もしてもらったことはない(苦笑)。まあ、無用の尊敬はしてもらおうとは思わないが。あ、そういえば留学生の女の子に"Cool!"とは誉めてもらったな(爆)(聞いてるか、某氏!)。
バカ話はこれくらいにして、しかしそれでも、Webは日々力を増しつつあり、これらのマスコミにとって脅威になりつつあることは事実だ。広告等により収入面での保証が確保されている大手サイトは、既にそのリアルタイム性においてテレビや新聞を脅かしつつあり、先進国の中でも異常な高さを誇っている日本の市内通話の利用料金が値下げされるのであれば、この傾向はより一層強まるであろう。
だが、本質的な意味で潜在的な脅威となりうるのは、ZDnetやWiredなどの大手サイトでは全くない。それはある意味では既存の放送・出版メディアのネット版にしか過ぎず、イザとなればネットに完全移行したところで、収入の道さえ確保されれば別に何の問題もないからである。Asahi.comなどはその例であろう。回線の帯域がもっと広くなれば、各種有料ニュースレターのように金を取って配信すればそれで済む話だからである。むしろ、物理的な要素を勘案する必要がないぶんだけ、立場によってはそちらへの移行はスムーズに進むこともあろう。
そうすると、彼ら、つまり情報における有産階級としての報道・出版マスコミを真に脅かすメディアとは何なのか。それはいうまでもなく個人サイトである。この「脅威」に対する反作用が、既存のマスコミの、ここ数ヶ月にわたってWebに対して示してきたある種のヒステリー反応の核心なのである。我々が住むこの社会では、今、情報における「主人の座」を巡っての階級闘争が展開されつつあるのである。多くの人、そして私もそれを容易に指摘することができる通り、この見方は多分にマルクスの階級闘争史観的な色彩を帯びてはいるが、ここでポイントとなるのはその一方が弁証法的にその闘争を止揚しようとしているは露ほども考えられないということにある。むしろ、そういった関係性を意図的に軽蔑する、対象に帰着することのない欲望によって司られた多くの線の疾走こそが、その闘争を導くと同時に闘争そのものを陳腐化させているのだ。
そして個人サイトを巡回する楽しみは、ここにある。即ち、平板な価値観という砂漠を自壊させる多様な欲望の戯れの痕跡である言葉の数々に己の意識を走査すること、既成=規制の価値観が挫滅するその瞬間の断片を嚥下するその快楽こそが、個人サイトを見て回ることの悦楽なのである(従って、どうでもいい日記とかペットの紹介のようなサイトは見るべき価値など全くない。ウガニク氏の「オナニー日記」などのようにケッサクなものもあるが)。無論、そういった「突破・逸脱」へ向けて言葉を展開する能力というのはかつて私が頻繁に繰り返してきたように個人の資質・知的教養に大きく左右されるすこぶる知的な戦略性を伴う行為である以上、そういった意味では極端に内容の水準が阿呆としか言い様のないサイトも雲霞の如く存在していることは明らかすぎるほどに明らかな事実である。だが、ダメなサイトが多いこと=個人サイトというのは基本的にゴミであるということを意味することには全くならない。それは欲望云々を考察する以前に基本的な推論の誤り(全称命題と個別命題の混同)でしかないが、Web関連で何か問題が起きるとそれ見たことかとWebに対する罵詈雑言を並べる人々というのは、自らの特権的地位が脅かされているのだという事態にのみ汲々とし、その「仮想敵」を悪し様に喧伝することを以て良しとする。彼らは、自分たちの権威と利権を敵視することなく、それらをむしろ利用することで不可解な形で繰り広げられる、嘲笑にも似たそのような抵抗、思考に回収することのできない遊戯のもたらす騒音に我慢がならないのだ。それらを自らの声できかないことにしてしまうために、彼らの声はますます大きく、そして野蛮なものになってゆく。
だが、我々、Webを利用する人々は、そのようなやり口にはもはやウンザリしているし、飽き飽きしているのである。そして軽蔑すら抱いているのである。マウスを使えない、というか知りもしないらしい作家が経済企画庁長官を務め、ギャルゲーや小説のタイトルを臆面もなく剽窃する馬鹿馬鹿しく内容のないドラマ、白痴としか形容のしようがないバラエティー番組(これらの意味で大宅壮一の「テレビ亡国論」は正しい)、おまけに記者クラブでの大本営発表でしかなく、昨今の盗聴法や国旗・国家法案、ガイドライン法などについてまともな批判すらできなかった腑抜けのマスコミが大手を振っているこの国で、最早我々はそれらをまともに相手にしなくなりつつあるのだ。無論、それらはソースとしては利用されうるだろうが。ソースとして自在にフォルムを破断させたままそれらは流通されてゆき、「送り手」の、かつては特権的だった地位をいとも簡単に陳腐化させうるということを騒音に満ちた形で展開してゆく。
かくして、ネットには今夜も数多くの情報が流通することになる。どこぞの筑紫哲也が言うまでもなく、それらの多くは便所の落書きであり、信用するに足らぬものでしかなく、もっと手厳しく言えばタワゴトの域を出ない。虚偽の情報も多ければ、誹謗中傷も数多い。そんなことは改めて言う必要のないことなのだ。にもかかわらず、この情報化社会そして我々は、Webという媒体を既存の放送・出版、マスメディアと闘争させつつ漂流させる段階に入りつつあるのか。それはまさしく、それらが利益を生産し享受する集団として階級化することによって一つのシステムに祀り上げられ、その過程を通じて定住化のプロセスに入りつつあるからだ。彼らを支えているのは「経済」「資本」と結びついた既成の権威であり、経済そのものが消滅することはない以上、彼らの権威や「資本」も革命的な形で消滅することもない。だが、Webが欲望のステージとして多くの「デタラメな」線の数々を引き続ける可能性を提供する限り、即ちそれらが自らの地位として「便所の落書き」であることを蓮っ葉な歌と共に紡ぎ続ける限り、それらの権威と資本Cap-italは緩やかな、極めて緩慢な偶像化を続けることになるだろう。ネットワークが何であるのかを理解しない、理解する必要がない人々はこれからもずっと存在するだろうし、我々が個人サイトばかり読んで必要な情報を得ることもまず無理なのだから(それでは「個人」という概念すらなくなるだろう)、既存のメディアが消滅することもないだろう。しかし同様にして既存のメディアがWebのそのものの情報としての価値を完全に葬り去ることも、また、できない。
欲望に彩られたWebはシステムの擁護者としての既成のメディアを腐食させ続ける(王座から追放させることはないだろう。その行為には中心への回帰をつけねらう空虚な【精神】の腐臭がつきまとう)。かつては便所の落書きとして貶められた言葉の数々はむしろその腐臭でもって無菌室で光り輝く秩序・正義を汚染し、回復不可能なまでに蝕む。欲望がWebを資本の巨大な手から逃走させ続ける限り、その果てしない遊撃は「気違い船」のごとく続いていくのである。我々はWebの狂気が持つその本質的な力を何ら否定すべきではないのだ。それでいいではないか。