(1999/5/11)
1997年12月に発売された別冊宝島349「空想美少女読本」のほぼ最後に、「究極の美少女は可能世界の中に住む−あらかじめ失われた物語」と題された石野環氏の短いエッセイ風の考察が掲載されている。その内容は途中で無意味な逸脱を起こしていたり、論理が一部で破綻していたりと決して誉められたものではなく、もし本人が「人文系のつもり」(筆者紹介)と思っているのであれば自らの将来も含めて猛省を促したくなるような水準の低いものなのだが、その末尾で同氏はこのようにいっている。
きついことだけど、きっと現実が現実であるためには、失われた可能世界が必要なのだ。楽しみにしていたのに見逃したTV番組や、憧れていたあの人との果たされなかったデートや、そんなふうになりたかった僕や、選ばれることのなかった可能性たちが、どこにも行けず漂う世界が。
ある種の詩情漂うこの記述は、既視感を伴うセンチメンタリズムを私には感じさせる。多くの平行世界が漂流し浮遊する、それらのうちの一つの世界としての今。それらを想像することは、移りゆくペルソナとしての自我の態様を現実態に即して肯定する一つの機縁にはなるのかも知れない。
だがペルソナはそもそもが「仮面」であることからして、演じられる場としてのスケーネー(舞台)を要求する。演じられる場がなければ、それこそペルソナは闇に溶け去るのみであろう。そしてスケーネーが要求するのは、そこを満たすものとしての、物語である。つまり、ペルソナが流動するものであることを知り、その移ろいの中で「私」を編み出し続けるためには、何らかの物語が必要なのである。石野氏の考察には残念ながらこの点に対する認識が欠落している。
例を示そう。アニメなどに触発されて作られる同人誌の数々の大半は、表現形態こそ様々ではあるが、いわゆるサイドストーリーを展開するという共通項を有している。そこで見られるのは、仮構された世界に単に耽溺するだけではなく、自らが耽溺する場を自己創出しているという現象である。即ち、その作品世界における人々をそのペルソナに沿う形で(勿論そこでは作り手、そして読み手がより多く耽溺できるように若干の改変が作り手によって行われる)、新たな物語を書き起こす。パラレルワールドはそれぞれの空想の分だけ増殖し、物語は数限りなく増えていくのである。
だがこれには、一つの欠点がある。それは作り手は常に作り手としての域を超えることが物理的に不可能であるということである。つまり、作者が登場人物としてその作品世界で振る舞うことは禁止されているのである。マンガであればコマ割りなどを工夫して欄外に作者が色々と書き込みを入れることは可能だし、実際書き込みが余白の限り書き連ねられているような同人誌も見かけないではないが、それでも自分がその世界に入り込んで、その世界の空気を呼吸し、その世界の住人そのものとなることはできない。まあ、ヒロイックファンタジー系の作品世界であれば Ultima Online のように世界内人物になりきってしまうことはある程度不可能ではないが、そうするとそこに登場する主要登場人物との接点は必然的にきわめて希薄にならざるをえない。作品世界に強い魅力があればそれは可能だが、あまりにも我々の暮らす生活世界との接点が希薄だったり、逆にあまりにも日常世界に近似している場合だと、それは困難になる。いうまでもなく、『ぼくの地球を守って』のような異世界超能力戦士前世譚が一時期流行したことを考えると、時と場合によってはあながちそうでもないのかも知れないが。
かくして、「箱庭遊び」の快楽は急速にもどかしさを伴うものになる。確かにそれは魅惑に満ちたものだが、自らがそこから隔離されているという事態は、自己にまつわる物語が失われ、自己がその創成から疎外されているという事を意味する。急速に色褪せる箱庭の世界は、我々がもはやメルヒェンの中に安住しているわけではなく、そして実際のところ我々についての物語など何もないのだという事実を明るみに出す。物語の中で呼吸し、その世界の中で存在する意味を付与されて活動することができるのは、まさしく作者によって命を吹き込まれた登場人物のみであり、作者はその帰結としてその恩寵には与れないのである。勿論、それは読み手、受け手も同じことである。
だが、我々は、生きていく上での意味を求めたがる。それはニーチェが「神の死」の主題を通じてとっくに示してきたことだが、それでもボーヴォワールが時代の課題としてそれを認識していたように、我々には生きていく上で世界を有機的に意味づける何らかの仕組みが必要なのである。というのも、それらの意味づけは価値の体系として我々の自我およびその行動に根拠を与えるからである。だから、我々は誰か、我々は何をするべきか、我々は何を守るべきなのか、といった一連の問いは、「我々」、そしてなかんずく「私」を機軸とした物語の展開を要請する。「汝自身を知れ」という問いの内には、汝を位置づける物語を認識することの必要性が織り込まれているのだ。そして、物語は予め自らのうちに社会的な、そして歴史的な価値の形を表象しており、その意味では自らがその物語の中で役割を担うということはとりもなおさずその中に含まれる価値体系を自らに担わせるということに他ならない。そうして初めて、我々は時代の中での視座を得ることが出来、また同時に他者から見られる存在としての自己の位置を認識するに至るのである。
実際、最近巷に見られる類の、反動的な反個人主義の議論の中には、見事にこの図式に陥っているものが多い。曰く、「我々は個人を越えたところにあるものの価値を認め、それに命を預けるということが必要なのだ」という按配である。皇国史観・臣民思想と結託することによりただの前時代的な右翼のイデオロギーへとその正体を露呈するこのような発想は、著しく他者への想像力を欠いている。そこには意図的に、他者の存在が抹消されており、結局は個人が高度産業社会の中で味わう無力感を退嬰的に反復しごまかして乗り越えたつもりになっているにすぎないという邪悪な意図が垣間見える。だから、我々は、このような幼稚な議論を越えて、よりアクチュアルな地平での思考を展開しよう。
だが、我々にとってこのような議論が何の魅力も持たないということの裏には、それらが稚拙で粗雑な論法、安易な思い込みとルサンチマンの隠蔽による下らない二分法に依拠しているということに対する軽蔑感以上に、それらの発想そのものが既に時代遅れのものになっているという感覚が根付いている。つまり、もはや命を懸けるような大きな物語もなければ、大義に殉じるべき道理もどこにもないのである。国家というものはもはやその姿を実体的な形では維持できなくなりつつあり、文字通りの「想像の共同体」という誇張によってしかその肥満した身体を支えることができなくなっている。が、そんなものには我々は単なるイデオロギーの断末魔の叫びしか見ることはないのである。かつてジャン=フランソワ・リオタールがそれを示したように、我々は我々の生にお仕着せの意味を与えてくれる、大きな物語が崩れ落ち、灰燼となっているその廃墟に立っている。つまり、現実の世界が我々に何ら生きるべき物語を提供しえなくなっているのだ。我々自身における存在理由を構成する物語は常に大きな物語の存在を参照項として必要とするが、それが消費社会の進展、社会の高度化、イデオロギーの瓦解によってかつての地位から追放され、何ら重んじるべき意味を持たなくなった現在、我々は自らを語る物語を持たなくなりつつある。物語を生み出す装置がかつてないほど渇望される理由は、そこにある。
世界の中に自らを位置づけようにも、あるべき世界観は全てが色褪せてしまった。だから世界とは何かという問いを提出することはもはや意味のないことになってしまった。そこで仮構される物語はまるで根拠のない陰謀史観か、はたまた前時代的な国家主義の焼き直しであり、そんなものに自らを同化することができるわけではない。しかし我々は自らを他者の言語の文脈の中に構築する装置としての物語を常に必要とする。では、それらの物語を備給するためにはどうしたらいいのか。
答えは実にあっさりしたものだ。即ち、大きな物語に代わる、新たな、小さな、きわめて微細な物語の数々を我々自身の手で紡ぎ続けるしかないのである。そしてそのための仕掛にはかつてあったような、正義とか国家とか民族とか世界の救済とかといった大層なお題目は無用である。むしろ、それらに背を向け、日常性が編成する関係性の中に展開される微細な日常の反復の中に、新たな物語が成立する可能性が芽吹くのである。
そして、まさにその地点に、ギャルゲーという舞台は成立する。そこで繰り返し展開される物語は、きわめて微細な、ごくありきたりの、場合によってはハーレクインの水準にも劣るようなたわいない恋愛ゴッコにすぎない。だが、まさにそのゆえに、それらは大きな救済の物語についてはっきりと背を向けている。主人公である「私」は別に世界の危機を招く魔王を倒しに行くわけではないし、地球に衝突することが予想される隕石に核ミサイルをぶっ放しにスペースシャトルに乗って宇宙の彼方に行くわけでもない。そんなものはただウソ臭いだけである。その反対に、常にギャルゲーにおいて繰り返されるのは、たわいない、場合によっては予定調和かつステレオタイプの言葉の戯れ、どこかで見たような贈与のプロセスの無邪気な反復である。そしてそれらが少々荒唐無稽な日常の中で展開されているところに、またそこで振る舞う人々の中に「私」が欠くべからざる必然的な存在として定立され、「私」にとっての物語が紡がれるところに、ギャルゲーという物語世界の快楽は、その白い花(blanziflor)を咲かせるのである。
だからギャルゲーの快楽とは、私にとっての小さな物語が絶えず紡がれるという点にある。大きな救済の物語を自らの参与によって形成することがもはや陳腐化していたとしても――実際、我々の生きているこの世界はこのようになっているのだが――、ありふれた物語であろうとも、それを自らが織り編み出すという体験を通じて、我々は自らについての物語を有することができるのである。
そしてその物語は終末までの連続性を持つことがないゆえに、絶えず差異を生産する形で新たに備給され続けなければならない(いつも同一の展開であるのならばそれは劣化するだけになり、飽きられる)。今日のギャルゲーの基礎を築いた『ときめきメモリアル』のデザイナーであった永山義明が雑誌「Quick Japan」21号でのインタビューで奇しくも語っていたことだが、『ときめきメモリアル』は同じコマンドの選択を行ったとしても同一の展開になることがまずあり得ないように作られている。これが意味するのは過去の形とは異なる、常に差異を孕んだ形で、小さな物語が再生産されるということである。だから「萌えて」しまった人々は何度でも何度でもその世界に耽溺し続ける。そしてその魅惑は二次元と三次元という垣根を越えて生活世界にまで現れる。そこではもはや現実とか虚構といった対立項は用を為さなくなっており、物語の舞台の続きとして現実はハイパーリアル化する。たとえその作品世界に満足してしまって食傷気味になってしまったとしても、秋葉原のメッセサンオーあたりに出掛ければ同種のギャルゲーはいくらでも手に入り(その中でも傑作といわれているものはそう多くはないが)、また新たな物語を我々は紡ぐことができる、またわずかながらの差異を含んだ形で。
だから、ギャルゲーの快楽は終息することがない。少なくとも、我々が何らかの形で自分にまつわる物語を自らの鏡として求め続ける限り、それはきわめて甘美な快楽を我々に提供し続ける。ギャルゲーにのめり込むことによって我々はいくらでも小さな物語を語り続けることができるのであり、そこに自らの心の姿を確認する場所を見出すことができるからである。
勿論それらの世界は大いにステレオタイプと多くの差別的偏見によって構成されはしている。人間関係等を含む構図もきわめて整理しやすく、単純である。だがこの物語世界の分かりやすさ、展開の「整合性」(括弧付きであることに留意されたい)、価値の一元性は、そこに浸る者に対して、一定の安定した(物語の)世界観を提供する。下らない陰謀史観でもなければイデオロギーじみた史観でもないこのような世界観は、プレイヤーが安心してそこに身を委ねることを可能にする。ギャルゲーの物語世界はイタケーとしてプレイヤーを迎え入れるのである。
従って、ギャルゲーが虚構であるとからいって退ける必要性は、実際のところ、どこにもない。我々のこの世界の生活は何ら物語を提供することができなくなっているのだから。むしろ、そのような物語の不在、砂漠の明るみ、意味の絶滅という我々を取り巻く事態の晴れ渡った暗闇を正面から捉えることができる人こそが、よりハイパーリアルな形でギャルゲーの持つ快楽を堪能することができるのではないか、と考えるのである。