日々雑感
修士論文を書き上げて以来なんか妙に脱力してしまっていて、なんかこう気合いのバリバリに入ったものを書けないような、一種のアパシーに陥ったりもしています。実は学会発表とか研究会での発表なんかもあって、それらの準備をゴソゴソやんないといけないのですが、まあそんなわけで日々雑感を適当にツラツラ書いてみます。
★「手足を縛って」文章を書いてみるのはどうだろう?
先日、某テレビ番組をぼーっと見ていたのですが、その中で山田五郎教授が食べ物の感想を述べていました。で、感心したのが、彼は自らの印象を述べる際に「すごい」という語を一回も使用していないということでした。彼が出ているテレビ番組なんかは趣味上よく見るのですが、そのいずれでも彼は「すごい」という語をほとんど使わないようです。で、振り返って考えてみれば、巷には「すごい」で済まされる形容があまりにも多いようです。曰く、「すごくおいしい」「すごく感動した」「すごくきれい」「すごくたのしい」。アア、ソウデスカ……。
うーん、ちょっと語彙が貧しくありませんか? まあ、色々感じるのは大いに結構なんですが、「すごい」じゃ端から見てると何が何だか分からんのですよ。山田五郎教授が「すごい」というのをあえて使おうとしないのは、味覚などその内容をできるだけ視聴者にメディアの限界を超えて伝えようとしている、一種のモラルによるのではないかとも私は考えます。
同様に、インターネットでもその種の限界はあります。味覚を伝えることはできませんし、リアルタイム動画も現在の帯域ではスムーズな再生には無理があります。Java、ShockWaveとかQuickTime、MPEGなんかは扱える人もそう多くありませんし、結局のところわずかのグラフィクスを除いてはインターネットでは言葉を最大の伝達手段にするしかありません(青酸カリ自殺事件に関連して書かれた朝日新聞の天声人語の筆者はこのことを全く理解していない。堺屋太一に『平成三十年』というトンデモ小説を書かせた新聞だけのことはある)。
とするのであれば、ホームページに文章を載せるのであればもっと言葉の技術を磨くべく研鑽を積んだ方が、伝えられる内容の質も向上する以上好ましいことであるのはいうまでもありません(あられもない言い方をすれば、表現行為に対する様々な負い目のゆえに自慰的にホームページをでっち上げる人もいるにはいますが……)。無論、語彙力や表現力、発想力とか想像力などは個人の能力によって大きな差がありますから、誰も彼もが流麗かつパワフルな文章を展開できるとは限りません。しかし、それらを向上させるための一つの手段として、「手足を縛って」文章を書くトレーニングをしてみてはどうかな、とも提案してしまったりするのです。
そのやり方の一つは「すごい」という形容詞・「すごく」という副詞を使わないで文章を書くというものです。なんかうまいものを食ったときとか素晴らしい音楽を聴いたときなど、その感想をそれらの語を一切使わないで、できるだけクリアーな文章を書くように練習してみるのです。例を示してみましょう。
「今日聴いた音楽はすごく素晴らしかった」
↓
「今日聴いた音楽はその内容が持っている、不協和音を効果的に織り交ぜつつ複雑なコード進行の上に成立したメロディー上の迫真性、それに見事に融合した歌詞の誠実さと相俟って、現実世界に向き合って生きていくことこの意義を私の心に刻み込んだ。私が今日感動したのはまさにその点である」
どうでしょうか。ちょっと表現が某レコ芸めいていますが(笑)、少しは内容が可解性という点では読み手に伝わりやすくなっているのではないかと思います。もちろん語彙などは難解なものが増えますが、そんなものは辞書を引けば分かるものですし、書く側にとってもそれらを説明するフレーズをつければ事足りますから、さほど危惧する必要はありません。
相手の姿も声も伝わらないところでは、言葉を頼りにする他ありません。オフ会などはそれを補完する効果を持つものですが、表現を研鑽することはネットの文化を豊かにするという意味でも重要なことではないのかと、私は考えます。
★英語は正しく使いましょう
アルファベットと漢字を比べてみたとき、どちらが加工しやすいかと言えばそれは形態のシンプルさから言ってアルファベットになります。単体での可解性は劣りますが。そのせいかは知りませんが、本朝で見かけるページにも細々とした単語では英語を使っているところがそれなりにあります(ちなみに私のページでは所々で古代ラテン語を使っています)。有名ハッカーVlad氏のページのように片っ端から英語というところはそうありませんが。が、普通のホームページをあちこち眺めていると、基本的な単語である「更新」updateにすら間違いが多いようです。よく見かける間違いは"up date"という綴りですが、辞書を引けば分かるように、そんな熟語は存在しません。「最新式」を示すup to dateなら確かに存在しますが、少なくとも日常使う辞書にはup dateという語はまずありません。OED(Oxford English Dictionary)とかで見つけた方は教えて下さい。まずこれを直しましょう。
が、綴りを直しただけでは間違いは終わりません。辞書を見てみましょう。
- update
- vt.(-dated, -dating)…を最新にする,更新する
- n.〔電算機〕更新;最新情報
そう、updateは他動詞なのです。文を復元すると(I) update this page...となるので、動詞の意味でupdateという語を使っているのであれば、主語が「ページ」の場合には過去分詞updatedにしなければいけません(まあ、無茶苦茶な解釈を当てはめてもいいのであれば、One's homepage has updated itselfとできないこともありませんが、cgiとかで自己更新機能を備えていない限りこれまた矛盾に陥る)。名詞なら別にupdateでもいいのですが。
同様の理由で、インデックスなどで各コンテンツへのリンクの横にupdateという語をつける場合にもupdatedとすべきです。というのも、ラテン語の影響を受けている西欧系諸言語では名詞[節]が並置されているときにはbe動詞を補うという原則があるからです。つまり、A Bという二つの語が修飾関係や並列などなく並んでいるときには、その文章はA is Bと解釈することが原則なのです(だから過去分詞が形容詞的な意味を持つ)。従って、"[任意のコンテンツ]update"は、updateのところだけ色を変えてみたとしても"[任意のコンテンツ]is update"となり、「[任意のコンテンツ]は最新情報である」という、なんだか安物の翻訳ソフトに掛けたような奇怪な文章であるということになります。そして、これらは、先の原則に従って、"[任意のコンテンツ]updated"とすべきです。ただ、これは先頭の文字を大文字にした場合は別の部分であることを示すことになりますから、文法上は問題ありません。無論、バナーとかテーブルタグを使うなどして区分がはっきりと分かる形で見えている場合は大文字小文字を問わず、問題はさほどないようです。でも、できることならupdatedにしといた方が無難ではないかと思いますが……
★チャットなどで
某所(当該ページ管理者からのご意見により、URLの公開は差し控えさせていただきます)のチャットページで私が悪性の香港A型のウイルスだとか言われているようです。まあこれで昨年末大宮周辺で開かれたらしい某オフ会は私に対する悪口大会になっていたであろう事はほぼ推察がつきますが、そもそも人様の悪口をコソコソ言いあうのはたぶん想像するに愉快なことなのでしょうから、別段咎め立てする気はありません。大体ウイルスがどういうものかも知らずにそのような呼称を用いるというのはエイズ差別などの事例を鑑みると大いに危険な発想なのですが、まあ私に対して言われている限り大した実害はないので相手にしないというのがまともな人間の態度ということにもなりますしね。
しかし、人の悪口言いながら酒飲んでて気分いいかなあ。少なくとも酒を飲むときくらいはバカ話とかした方が悪酔いしないし、気持ちがいいと思うのですが。
ちなみにそれらのチャットのログファイルは一部分だけですが手許に保存してあります。リモートホストの部分だけ削ってそれらを丸ごと公開しちゃおうかとも考えたのですが、あまりにも悪趣味ですのでやめておきます。興味のある方がいらしたら
メールを下さい。差し上げます。それから、これからもWebチャットで人様の陰口を叩こうと思われる方は足跡が残りにくいIRCを使った方が無難ですよ。色々小技も利きますし。そうでなけりゃオフ会ですかな
(わらい)。
★バッハを弾いたり聴いたり
読んでてダークな気分になる話題はさておき、修士論文を脱稿して時間的に余裕ができたので、楽器を弾くのを再開しています。実は昨年末、友人の結婚パーティーで頼まれてバッハの『無伴奏ヴァイオリンソナタとパルティータ』の中の「ロンド風ガボット」とエルガーの『愛の挨拶』(練習する時間がそれほどとれなかったので比較的平易な小品にしました)を弾いたのですが、いやー、楽器を弾くっていうのはいいもんですね。練習がてらロングトーン(四分音符1拍=60で4拍を一単位としてなるべく均一な音が出るように運弓を鍛える練習)をやっているだけでもなんか心が静かになります。
でもって、バッハを聴いたり弾いたりしています。「シャコンヌ」なんかは最初っから絶望的に難しい(少なくとも私にとっては)のでとてもとても無理ですが、比較的平易な小品を練習の折に少しさらってみたり、文章を書くときに平均律クラヴィーアとか無伴奏チェロ組曲みたいなメジャーなものから各種オルガン曲や声楽曲などを色々聴いたり。ノーノ好きの私を知る人は気でも狂ったかと思われるかもしれませんが、ご安心を。裾野が広がっただけで、レコード屋に行くと相変わらずノーノが配架された現代音楽のコーナーを漁っていますから(笑)。
Amazon.comからも結構頻々と彼の作品集を購入しています。頑張れ、ギーレン!(何のこっちゃ)
★絵を観るということ
知り合いの掲示板にはちょろっと書いたのですが、目下、
早稲田大学語学教育研究所のホームページを作ってます。ところがそれは単に各種文書をHTMLに起こすだけではなく、バナーも作らなくてはいけなかったのですね。某
煉瓦(^^;のアプリが大嫌いな私はヒーヒー言いながら普段使っているツールでもってバナーやら各種グラフィクスもこさえています。絵そのものについては、基本的には手作業で描いたイラストをスキャナで取り込んで色補正を加えるだけなのですが。
で、やっぱりそこにも私の趣味が出てしまうのですね。どういうことかというと、私はどちらかというと具象絵画よりも抽象絵画が好きで、有名どころではモンドリアンとかロスコとかフォンタナなんかを密かに愛しているのですが、そのせいかやっぱりできあがるイラストも抽象性が高いようなのですよ。ハイ。
なお、それらのバナーやグラフィクスについては現在知り合いを中心にしてファイナルβテストを行っています。そしてその過程で色々と質問を受けます。「これは〜を表しているのか?」と。
が、その種の質問は特に抽象的なデザインに対しては適当ではありません。というのも、もし端的に何らかの特定のイメージを表象したいのであれば、抽象化された素材を使うべきではなく、むしろその要素を多くはらむ具象を配置してメタレベルで特定のイメージを表現すればいいからです(ゲルハルト・リヒターの絵などはその狭間にあるものをえぐり出そうとしているとも言えるが、ここでは概論だけを述べるにとどめる)。たとえば「人々の熱気」をよりダイレクトに表現したいのであれば、大勢の人々が集まっているところを素材にしてそれを適当に加工した映像を作れば事足ります。ところが抽象的なイメージを多用するのはそれにとどまらない解釈の多義性を鑑賞者に提供しているということを意味しているのです。つまりそれを観て何を感じるかは人それぞれに委ねられているのです。だから説明的な能書きなどというものは基本的には無用の長物です。
それゆえ絵画を観るということは沈黙を呼びます。言葉ならざるものと触れあっている、自らの心のざわめきに耳をすますためには、言葉はその時、奪われなければならないのです。無論、それを喚起するような内容を持つべく、作り手も鋭意精進しなければならないのですが。
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