しかし、その主張は疑問の余地だらけである。さらに勘ぐると、灰谷氏はみずからのその要求をごり押しするために版権引き上げという手段に訴えたのではないかとも思えてる。それほどまでに彼の主張は錯誤に満ちている。
まず素朴な疑問として挙がるのは、では成年犯罪では容疑者の顔写真や自宅写真を掲載することが人権の見地から見てそもそも許されるのか、という問題である。たとえば、同様の猟奇連続殺人事件で世間を賑わせた宮崎勤被告の場合はどうだろうか。かれの場合、自宅写真はもちろんのこと、ビデオが山と積まれた自室等、あらゆる情報が公開され、そのせいで娘の縁談は破談、父親も数年後に服毒自殺を図っている。さて、推定無罪の段階で、ここまで個人情報を公開することがそもそも許されるのか。過去には松本サリン事件での河野義行氏のような錯誤を何回も警察は犯してきているではないか。
ならば、灰谷氏はよりラディカルにことを主張するべきである。すなわち、推定無罪の原則をもっと徹底的に適用し、いかなる犯罪の場合においても容疑者検挙の段階での実名公表には常に抗議すべきであるのだ。事実、シンガポールなどでは容疑者段階では実名等一切の個人情報を公開することが法律で禁止されている(昨年、この禁令を汚職がらみでとあるニュース番組が破り、ちょっとした騒動になった)。これならば、より法の下の平等に則った主張になろう。
もちろん、これに対しては、次のような反論が成り立つ。即ち、推定無罪段階での個人情報開示については一様に禁じるべきなのは肯けるが、有罪確定後は少年に対しては更生の余地があるのだからやはり個人情報は伏せられつづけるべきである、と。しかし、もしそうであるならば、成年犯罪においても同様のことは言えるのではないか。事実、成年犯罪においても再犯者が一定の割合を常に占めていることについてはこの個人情報の開示が無縁であるとはいえまい。従って灰谷氏の主張は「更生」の観点からしては片手落ちである。灰谷氏の主張が普遍的で正しいのなら成年犯罪者も一切の個人情報を公開すべきではない、ということになる。
そうすると、事の根幹は少年犯罪は本人の未熟さ、および環境からの影響によって成り立つ以上、環境を改善すれば更生は十分可能であるという少年法の理念について考察することになるのだが、特に後者については少年法が制定された当時と時代背景がまったく異なるという事情を考慮して欲しい。少年法が制定された1948年当時は、戦後まもない時期であり、路上にはいわゆるストリート・チルドレンたちがあふれていた。生き延びる、という至上命題のために彼らが犯罪に走るのは火を見るより明らかなことであろう。そしてそれゆえに環境の改善が更生への道を開くという考え方の下に少年法が制定されたのである。
しかし今日、状況は大きく変り、さすがにストリート・チルドレンはいなくなった。少年たちを取り巻く生活環境は著しく改善したのである。もちろん、女子高生コンクリート詰め殺人事件の折に明らかになったような少年たちの悲惨な家庭状況は現存するにはしている。それはむしろより陰湿な形ではびこっていると指摘する人もあろう。しかしそういった環境が必然的に犯罪を生み出すわけではない。むしろそれらは本人たちの自由意志に基づいているのだ。一定の自己決定能力を持ちうる年齢に達した人間は責任についても学ばなければならないのである。それをモラトリアムするのが少年法であるのだが、その根拠の一つである環境の問題については既に時代が違ってしまっている。発達心理学的見地からの主張については私はそれに関する知見を持ち合わせていないので留保する。
が、翻って考えるならば、懲罰をモラトリアムすることはむしろ少年の責任意識を損なうのではないか、とも考えられうる。なぜなら、そのようにすることは即ち社会からの少年という存在自体の隔離を意味するからだ。段階を追って社会性を身につけさせるという通俗的保護思想は、この場合欺瞞的である。なぜなら、その場合開示され習得させられる社会は教育的配慮によって構築された「社会」でしかないからである。環境的必然ではなくあくまで自由意志の帰結として(即ち、罪が罪であるという自覚の下に)犯罪が行われたのであれば、それは同等の懲罰の対象になるのではなかろうか。
灰谷氏の主張はこうしたより根本的な問題への視点を欠いている。ただ単に、「子供は保護されねばならない」という幻想に近いイデオロギーを維持するがために、「更生」「人権」という一見もっともらしい金科玉条を振りかざしているにすぎない。
なぜ彼がそこまでしてそのような見え透いた虚構のイデオロギーを行使するのか。それはまさに彼がそうしたタブラ・ラサ神話の旗振り役=イデオローグとして作家という職業に従事しているからである。タブラ・ラサとしての子供というクリシェを梃にすることによって現実社会の欺瞞性、汚猥を暴露するのは実にたやすい手法だからだ。それらはある意味でうなずける要素も持っているが、かといってそれ以上の意味もない。
さてさて、版権引き上げといういわば権力づくの実力行使に出た灰谷氏をタブラ・ラサの子供たちはどんな目で見るのだろうか。少なくとも「良くやった」とは言ってくれないだろう。
標題:あなたのようにむずかしい言葉は使えませんが...。 あのような文章をHP上で公開するにあたり、あなたは灰谷健次郎氏の作品をお読み になられたのでしょうか? 作品や作者に触れることをせずに、ああいった形で意見を述べるのはおかしいのでは ないでしょうか。 「権力づくの実力行使」とは、灰谷氏のどのような行為をさしているのでしょう。 彼は「子供は保護されなければならない」といっていますか? うまく言い表せませんが、どうか、彼の作品をきちんとお読みになった上で、あの事 件についてもう一度考え直していただけたらと思います。 |
このたびはご感想をお寄せ下さり、ありがとうございました。 >あなたは灰谷健次郎氏の作品をお読みになられたのでしょうか? 同氏の著作についてはあれを書いた時点で手に入るものはほぼすべて読んだつもりで す。 最近角川に版権が移ってからについては寡聞ながら出版状況を把握しておりません。 その点についてはご指摘・ご批判は甘んじて受けましょう。 >作品や作者に触れることをせずに、ああいった形で意見を述べるの >はおかしいのではないでしょうか。 なぜでしょうか? 件の論考で問題になっているのは、新潮社からの版権引き上げ問題です。誤解を招く表現・箇所があればそれを具体的にご指摘ください。その根拠が納得できるものであれば削除することについてはいささかのためらいもありません。なお、新潮社のホームページには雑誌FOCUSのバックナンバーが収録されていますから、そこにおける灰谷氏の抗議文をお読みになってはいかがでしょうか。 たしかに、それらについての引用を行わなかったのは、論点が一方的になるとのきらいもあり、誤解を招きかねないものであることは認めます。しかし、それを行わなかったのは著作権に鑑みてのことであることをご了承ください。 >「権力づくの実力行使」とは、灰谷氏のどのような行為をさしているのでしょう。 版権の引き上げをちらつかせながら、新潮社に対して公式謝罪および記事の撤回を要求した点がそれに当たると考えます。時系列的には単純にその限りではありませんが、FOCUS編集部の反論に対しての議論を継続しなかった以上、そのような謗りを受けても仕方がないものと考えます。継続して議論が同誌上で行われたのであれば、それはそれで実りある物になったものとなり得たでしょう。私が残念に思うのはまさにその点です。 >彼は「子供は保護されなければならない」といっていますか? FOCUS誌に掲載された少年法の保護規定の精神を尊重せよとの論旨はその範疇に含まれます。字面だけを追う表層的なご批判はご遠慮願いたいものです。 そして、なぜ法を尊重しなければならないのか、についての灰谷氏の規定はあまりにも曖昧です。それについては立花隆氏の批判があります。週刊現代のホームページのアーカイブに収録されているはずですから、そちらもあわせてお読み下さい。 >うまく言い表せませんが、どうか、彼の作品をきちんとお読みになった上で、 >あの事件についてもう一度考え直していただけたらと思います。 私の件の事件を通じての意見は大まかにまとめると以下のようなものです。 ・実名報道および写真の掲載が問題であるとすれば、成年犯罪についてもそれは同様ではないのか ・少年法は制定されたときと社会事情が異なるのだから、もう一度その法哲学的根拠について問い返してみることは必要ではないのか ・それらの問題について包括的に議論しうる場をなし崩し的に頓挫させてしまった灰谷氏の対応は残念である。そして同氏がとった対応には問題があるのではないか 私は決して件の事件の犯人を実名で報道せよとか写真を掲載せよと短絡的に主張しているわけではありません。それらについてもっとラディカルに議論し直す必要があるのではないのか、と言っているのです。 ご理解いただけたでしょうか。 ご反論等ございましたら、お寄せ下さい。お待ちしております。 |
標題: お返事拝見いたしました。 早々とお返事いただきましてありがとうございました。 |