テレビに見る文化の基底構造と日系メーカーの錯誤
――「目の文化」と「耳の文化」の対立から――

(※本稿は、2009年10月下旬に発行されたある雑誌に掲載された記事の初稿について、オンライン公開に伴い大幅な改訂を施したものです。当該雑誌に掲載された記事は読者の理解を高めるため、具体的なデータを盛り込むなどの改訂を行っており、本稿よりも大幅にシンプルな内容になっております。掲載記事についてお知りになりたい方は、左大臣宛にメールにてお知らせ下さい。)

■ 残念だったパイオニアの撤退
  覚えておられる方も多いと思うが、本年2月、パイオニアが薄型テレビ事業からの撤退を発表した。同社のテレビのずば抜けて高品質な画質とスピーカーの優れた音響特性はAV専門誌での評価も高く、実際私も含め購入者の満足度も大変高かったようだ。だが、DVD/BDレコーダーとのリンク機能の実装の遅れ、そして何よりも同画面サイズの他社製モデルに比べ3割以上高い価格設定がネックとなり、同社のテレビ事業は収束を余儀なくされた。

  無論、パイオニアがこのような「超」高付加価値路線に舵を切らざるを得なかったのは、当初パネル供給先として見込んでいたソニーが韓国サムスン電子との提携により液晶陣営に完全にシフトしたことが最大の要因といわれる。だが、その中でも比較的売れ筋であった42型を切り捨て、海外でも市場構成比の小さい50型以上のみにラインナップを絞った戦略は、縮小均衡しつつも特定の分野で強い存在感を主張するという点で、同社がそれまで長きにわたって強固なブランドを構築してきた高級オーディオの戦略と重なる点が多い。実際高級オーディオの世界では、今日でも同社を含めいくつかのメーカーが確固たる地位を築いている。


■ テレビとオーディオ:目の文化と耳の文化
  しかし、ここで一つ疑問が生じる。即ち、テレビという視覚文化の領域に、オーディオが属する聴覚文化のマーケティング手法を持ち込むことが果たして可能なのか、という疑問である。

  歴史的にみると、この両者は相互的に補完しあう関係にはあるものの、基本的には対立するものとして形成されてきた。視覚文化がギリシア-ローマ的な合理性の光の下に具体的で手を触れることですぐ理解でき、そのため内容を共有することが容易な事柄を対象とするのに対し、聴覚文化はヘブライ的な聴従の文化であり、内容の把握に一定の時間を必ず要するため、理解内容の即時的な共有が難しく、そのため経験の共有は言語を通じての抽象的なものにならざるを得ず、それ以前の経験の内容は極めて個人的・主観的なものにとどまる。


■ 公共的な「目の文化」と私的な「耳の文化」
要素 目の文化 耳の文化
機器 薄型テレビ, 最近の携帯電話, パソコン ラジオ, オーディオ機器, デジタルオーディオプレーヤー
特性 客観的, 公共的, 画一的, コミュニケーション的, 大衆的 主観的, 内面的, 独断的, 秘教的, エリート的
付加価値 コンテンツの質ではなく、コンテンツによって生じるコミュニケーションの楽しさ コンテンツの質と、それによってもたらされる主観的印象や感動
  従って、視覚文化、即ち「目」の文化は即時的で具体的な分かりやすさを立脚地点とするため、多くの人に共有される傾向を持つ。そこで大事なのは、表現された内容がすぐに理解され、かつ共有されることであって、表現の質ではない。何が伝えられているかが分かり、その内容に対する認識が共有できれば、あとは大きな問題ではない。実際、テレビの視聴においては、バラエティ番組やドラマの消費形態に見られるように、コンテンツに付随して発生する視聴者間のコミュニケーションに重きが置かれることがほとんどではないだろうか。さらに言えば、多くの場合、薄型テレビの画質の判断はテレビそれ自体に求められるのではなく、むしろパネルの生産地やパネルの特性、あるいは描画エンジンの性能やカタログの説明といった、視聴者本人の印象や主観を基盤にした説明よりも、画質そのものに対しては副次的ではあるが大衆的に理解可能な形での要素を手がかりにして行われることが多い。これが意味するのは、視覚文化においては自らの感覚と判断力のみを基盤とすることで伝達内容を正確に把握することは求められておらず、むしろ情報および表層的な印象の合理的ではあるが画一的な把握と共有が志向されているということに他ならない。

  それに対し、「耳」の文化は経験の基盤が主観的なものであり、そこで構成される時間意識も極めて主観的な尺度に変容する。また、表現および理解された内容の伝達には主観的な印象を言語化するプロセスで必要な抽象性の高い言語と概念の運用を要するため、内容についてのコミュニケーションはむしろ否定されるか、少なくとも抽象化された概念についての素養を有する人間に対象を限定するエリート主義的な傾向を帯びる(その点において、パイオニアが北米市場で展開していたもう一つのブランド名が「エリート」というのは極めて示唆的である)

  即ち、耳の文化の経験は個人の内面に深く根ざしており、それが他者に向かって開かれることはあまりない。むしろ、コミュニケーションを否定し、内面性を救済し宥和の否定神学を構成する点に、耳による経験の価値の本質がある。そして、そのような理由のために、オーディオ機器に対する嗜好は個人的かつ主観的な充足を目的とし、場合によってはヘブライの宗教がそうであるように、非合理的で受苦的ですらある。事実、ここ数年で一気に普及した携帯型デジタルオーディオプレーヤーはMP3やAACなどの不可逆圧縮フォーマットを採用していることが多く、就中iPodは音質面に問題があることは以前からよく言われているが、この音質面でのビハインドを補うため、ヘッドフォン等にわざわざ数万円の追加出費を惜しまないユーザーは一定数底堅く存在するし、オーディオテクニカ等の折りたたみ式ヘッドフォンを電車内で使う若者を見かけたことのある方も多かろう。また、デジタル時代の今日になってもケーブルや記録メディアの材質に極端なこだわりを見せるユーザーが姿を消したという話も聞かない。特に記録メディアの音質面への影響は合理的に考えれば全くのナンセンスであるにも関わらず、である。



■ 薄型テレビの「高付加価値化」は可能か
  このような文化的文脈に照らして考えるならば、薄型テレビの「高付加価値性」というものが果たして可能であるのか、我々は懐疑的にならざるを得ない。
  無論、一定の訓練を経たユーザーであれば、表示されている色が記憶色重視であるのか否かやパネルごとのガンマカーブの(S字等の)大まかな歪み、あるいは再現色域の広さ等はある程度把握することが可能である。その意味では画質面での高付加価値性を理解しうるユーザーがごく僅かではあるが存在することは否定できない。事実、最近パソコン用デスプレイの領域ではデジタル一眼レフカメラユーザーの増加に伴い、Adobe RGBに対応した広色域を謳うディスプレイがハイアマ向けに数多く登場している。しかしそれはあくまでパーソナルユースでの話である。

  だが、テレビが基本的には家族で共有される、即ち共同性・客観性の領野に立脚した商品であることを考えるならば、そのような少数派の主観的理解を前提としたビジネスモデルの存立は著しく困難であることが自明のものとなろう。第三者から見れば宗教的感情がただの狂気にしか見えないことがままあるのと同じように、いくら高画質性を高く評価するユーザーがいたとしても、それは公共的な価値を獲得することはできないのである。故に、今まで見てきたように、テレビはその本質において視覚文化に深く属するものであり、パイオニアが採用した超高級戦略は残念ながらテレビの性質にはそぐわないものだったと言わざるを得ない。これは、同社のテレビを使用し、凡百の「国内製」テレビとは比較にならないほどの超高画質と優れた音質について周囲に説きつつもそれを一笑に付されてきた、私自身の苦い経験そのものでもある。


■ 「良いものをより安く」という原点
  言うまでもなく、デジタル家電は極めて高度な最先端の技術によって支えられており、投入される資源も極めて大きな規模になるため、それを回収し競争が激化する市場で生き残るためにも、高収益性を目指して高付加価値戦略を採用するのは当然の流れではある。実際、世界市場に目を転じてみれば、日本メーカーの多くがブランド戦略と合わせることで画質面での優位を訴求した同様の戦略を採用している。

  しかし、画質面での高品位性の訴求は今まで見てきたように視覚文化の文化的特性により個々の人間の内面に価値として呼びかけることは難しい。それは耳の文化の仕事であり、目の文化におけるテレビの位置というのは、共有されるコンテンツを伝達するための器に過ぎないのである。それを語弊を恐れずに言い換えるならば、薄型デジタルテレビにおいては、高画質そのものが価値になることは最早ないのであって、むしろ価値の基盤は提供されるコンテンツによって生じるコミュニケーションの側にあるのだ。

  実際、世界市場では、このような高級品志向・プレミア化を目指す日系メーカーのマーケティング意図に反し、日系メーカーの薄型テレビのシェアは約4割を握る韓国サムスンや同LGの後塵を拝し、それに伍することができている主要メーカー4社の合計でも3割弱という惨状である。FTAや昨年来のウォン安と円高による為替の問題があるにせよ、これらの韓国両メーカーが採用しているのは手堅いブランド構築と購入者の購買力に見合った商品を提供するという、まさに「(そこそこ)良いものをより安く」の戦略である(LEDバックライトを搭載した最上位モデルを別にすれば、実際、これら2社の製品は同グレードの日本メーカー製薄型テレビに比べ10〜15%程度安い)。テレビとはいったい何なのかという文化的視点が欠落した無意味な高級戦略に邁進するのではなく、ユーザーが何を求めているのか、何を必要としているのかに忠実にあろうとすることの大事さを、我々は今一度思い返すべきであろう。そして、かつて日本の家電メーカーが世界を相手に成長して来た時の戦略を、今一度我々は見直すべきではなかろうか。なぜ、日本の家電製品がかつて一度は世界を手に入れることができたのかを。


■ 「ものづくりの復権」という時代錯誤
  その観点からすると、「ものづくりの復権」という昨今叫ばれるスローガンがいかに時代錯誤に満ちているかが分かるだろう。一般のニーズや商品が置かれている文化的特性を全く無視し、技術者の水準だけに依拠することによって創造される価値なるものは、本質的には全く意味のないものだ。むしろ日系メーカーが世界市場において落伍者になろうとしている最大の要因の一つは、商品の文化的文脈について全くといっていいほど無知である、あるいはそういう要素を「文系的誤謬の残滓」として独善的に退ける教養水準の低さにある。

  無論、生産現場における有形無形のノウハウの総体としての「ものづくり」という精神は維持されてしかるべきである。しかし、極端に高い性能や品質さえあればシェアは後からちゃんとついてきてくれるという思考方法は、全く意味のないものであり、技術の世界に埋没した人間の無知の告白以上の価値はない。

  むしろ、今求められるべきは、このような時代錯誤と技術偏重への低水準な依存を越えて、テレビに代表されるデジタル機器の文化的性格を再定義し、それにふさわしい立ち位置を与えてやることであり、それを可能にする総合的な思考である。


■ ハイテク製品といえども文化的束縛を逃れ得ない
  一見すると、我々の生活を囲繞する数々のハイテク製品は、それが余りにも高度な技術によって支えられているため、それらが提供する先端的な機能や従前の機器との圧倒的な質的差異に幻惑されることが少なくない。

  しかし、これまで見てきたように、その精華たるデジタル家電といえども、人間の諸感覚の特性が積み重ねてきた歴史的・文化的な文脈を無視して存在しうるわけではない。むしろ、直接的に人間の感覚に訴えかけるそれらの機器は、他の機器よりも深く人間の文化に依存していると考えるべきなのである。どんなに技術が進歩しても、それを使うのは、ムーアの法則などとは無縁の生物、つまり人間に他ならないのである。



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