萌えは窓から投げ捨てよ−イメージ
 萌えは窓から投げ捨てよ
――見捨てられた「人格」の復興を希って――

良心は欲動の断念の帰結である。
(S.フロイト 『文化への不満』)



  先日、Ph.K.ディックの『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』を読んだ。そこに流れるアンドロイド観はドラえもんやらHMX-12マルチの国の人間である私にとっては少々縁遠く感じるものであった。この小説では周知の通り人間とアンドロイドを識別する基準として「他者に対するシンパシーの有無」を挙げており、将来的にはアンドロイドはこの感情すら獲得し得るようになるだろうということを匂わせて終わるのだが、他者に対する共感どころか自分自身に対しても何の情動も持ち合わせることができない人間が増えている昨今では、なぜアンドロイドを殺さねばならないのかについての必然性が作者の意図と問題意識もあって曖昧にならざるを得なくなっている。時折ハックスリの小説を想起させるやり方で人間性の図式を反転させてみせるこの小説の問題提起は、それ自体としては大いに示唆的であった。即ち、我々が自分以外の存在者を「人間」として認識するということは本来どういう事柄であるのかについて、極めて反省的に考えさせてくれるのである。

  これはどういう事か。通俗的な意味で、「人間らしい」とは、ある存在者Aの行動が我々の社会における行動規範に合致していることをその要件とする。これは極めて単純化された規定だが、それらを満たすことで我々初めてその存在者に人格が存在していることを意識することが可能になる。路傍の石がどんなに崇高な意識と高い知能を持っていたとしても、我々は通常それを認めることはできない。それらを踏み越えていくのはあくまで我々個人個人の知性であり、想像力の仕事なのであって、慣習的な日常の過程においてはそれを大多数のケースにおいて強要することは難しい。

  だがもしそうだとすると、逆のケースが成り立つことは容易に考えられる。つまり、一定の行動コードを満たしていれば、我々はそれを何ら抵抗なく日常生活の場に招じ入れることになるということである。小説や演劇等虚構の存在の行動に我々が心を動かされたりするのは、それら登場人物が行為の文法として我々とある程度共通しうるものを尊重しているからである。無論、思考形態や行動規範が全く異なる異次元の存在者を操作することなど所詮人間でしかない作者には無理な話であるといえばそれまでの話なのだが、いずれにせよ、こうした虚構の世界におけるリアリティは、それらのコードの遵守の上に成立しており、我々はそれを手がかりにしてそこに存在する人格の存在を推定することができる。ディックの件の作品が暗示するものの一つは、人間を人間たらしめている根拠としてのこれら規範は所詮擬制でしかないということなのだが、我々がrotten.comの残虐画像にほとんど心を動かされない反面で昼メロの如き陳腐な悲劇に涙するのは、それらの物語世界が構築するフィクションとしてのリアリティが、登場人物の人格性をもでっちあげてしまい、それを我々が真正のものであると錯覚するからである。遠き者は人ではないのである。
  
  従って、「人間」のリアリティは、彼ら彼女らの行為が我々の現実と共有している要素が増えれば増えるほど、量的に増加していくことになる。そのようにして獲得されたリアリティは、「アイドルはトイレに行かない」という一昔前のスローガンが象徴するとおり、実質的には他者性の介在を許さないという点において極めて不安定かつ自分勝手な像であることがほとんどだが(いたぶり殺したりする妄想を除けば、我々は嫌いな人間のことをリアルには想像したがらないのが普通であろう)、その消費の傾向は単に自己都合的な利用で完結しないケースも存在しうる。それが作品によって触発されるということの意味ではあるのだが、その触発は自己ならざるものによっての驚愕と衝撃がその基底を為しているのであるとすれば、触発によって裏打ちされるものはまさしくそれらの「人間」が仮構し成立せしめた他者性に他ならない。虚構として出現した「人間」は、現実性のコードとエゴの解体の契機を纏うことで、人格性を獲得する。そして我々はそのような場に「人間」の持つ人格性を幻視するのである。その水準にすら到達しない人物造形は作者の人間に対する認識の浅さを露呈することになり、所詮虚構であるという我々の態度決定を導いてしまう。そこでは作品は刺激の強いジャンクフード程度のものでしかなく、人物は単なる調味料の一部に堕してしまう。それらは結局は一時的な我々の欲求を欺瞞的なやり方でごまかすことの共犯になるのがせいぜいであり、率直に言うならば人格性への意識を導かないという点でゴミであろう。
  
  90年代中頃から一部のナードな連中の間で言われ出した「萌え」なる概念は、このような文脈で捉えるのが適当であろうと私には思われる。即ち、仮構された二次元の人物について、乏しい情報を通じてでもその人格性を幻視し、時には妄想で補完することでそれらに独立した人格を付与することで現実性を獲得せしめ、自らの嗜好を根拠あるものと支えようとする意志である。多数者の合意という幻想的事実に依って成立しその裏面で少数者を圧迫することで成立する、通俗的な意味での現実世界に不可避的、あるいは意志的に齟齬を抱き、あるいは石持て追われた者は、それらに時として妥協しつつ自らの人格性を規定する機縁としてそれらの仮構された人格性のリアリティを構築することで、再度人間的であるとはどういう事か、という問いを提起し得たのである。虚構よりもはるかに虚構化してゆく、つまりハイパーリアル化するという80年代から進展してきた消費社会の構造の中で、これらの行動は記号的消費を促進するという流れに対して人格性の有意を今一度刻印するべしという意義を、結果として有していた。なぜならそれらの人格の幻視である「萌え」というものは、人間同士が関わることの本質をあくまでそのような他者性の発露としての人格性に求めていたのであり、それは商品化された、あるいは記号によって蕩尽された我々自身の人格性の回復に対する宣言でもあったからだ。所与として共有された情報よりもさらに想像力(あるいは時として妄想)を主体的に行使することで、彼らはかの登場人物の数々を現実のこの世界に住まうものとしてリアリティを付与しようと、そしてそれにより人格性の内実をより豊饒なものにせしめようと意志したのである。パロディ、あるいはごく稀に起きた社会現象のケースを別とすれば当時にその起源を持ついわゆるSS(ショートストーリーあるいはサイドストーリー)という同人創作は、消費のサイクルの中でお仕着せ的に与えられた条件を想像力の力で踏み破り、作品を越えてそれら人物が一つの独立した他者として我々を触発し続けているのだということ、そして虚構によってこそ人格という真実を我々は垣間見たのだということの記録であった。それら創作の大半は率直に言って陳腐極まりなく、第三者から見れば自己満足の域を脱しない稚拙なものが殆どであるとしても、創作した者にとっては、それは人格性を醸成していく過程としては満足のいくものであったのだ。所謂馴れ合いコミュニティの内実は傍目に見れば切磋の方向が迷走しているという点でかなり見苦しいものではあったが、時折出現する例外は確かに虚構の世界を貫いて立ち現れる人格の存在を予感させたものであった。ある者はそれらの虚構によって触発されることで自らを再構築しようという方向に向かったりもしたのは、それらの人物が殆ど我々に阿るような体裁であるにもかかわらず、時としてそれをたたき壊すだけの距離とリアリティを見せつけてくれたからに他ならない。インチキまがいのオカルトが、あるいはオカルトまがいの性格分析が我々を適当な類型学の虚妄で撫で切りにするのとは裏腹に、そしてそれらの支配に何ら疑義を呈さずに自らが多数派であることの事実に安住する者が行使する人格の徹底的な物象化による否定に心内留保と沈黙の抵抗を示して、彼らはあるべき世界としての人格に対する目的の王国の契機をそこに垣間見ようとしたのである。「萌え」が当初抵抗の営為であったのはそのゆえである。
  
  だがこの傾向が長く続くはずはない。なぜなら虚像の中に人格を幻視しようとする試みは常に我々自身の想像力や倫理的態度を試練に引き回すからである。言い換えてみれば、その過程では他者性の契機として常に自分ならざるもの、自分に回収できないものを要求するのだ。従って作品の外部における一定の知的資源を持たない場合、それは必然的に自分に都合のいいだけの安逸な妄想を拡大再生産することになる。そしてこのような妄想を繰り広げることに倦み疲れた、あるいはそのような行為それ自体を面倒くさいとして自己にとって快楽を提供してくれる環境のみを欲する人びとは、必然従来の「萌え」なる行為からは離れ、別の意義をその語に付しつつ自らの欲求の正当化を図ろうとする。従ってこの抵抗的概念は知的営為を拒絶する、あるいはそもそもそういった事柄からは縁遠い圧倒的多数の消費者の人口に膾炙した段階で、堕落への一途をたどり始めることになる。物象化に抗して成立した意識は、概念化されると同時に物象化され、内実が消費社会のイデオロギーによって蹂躙されることになるのである。この点において、即ち概念を受肉化するのではなく言い訳のためのクリシェとして用いているということは、消費者は自らがモノとして扱われる運命にあることと等価であることを知るべきであるのだが、巧妙化し陳腐化する市場の原理は彼らがあたかも主体的に対象に妄想しているかの如きイメージを植え付けようとし、実際その多くは成功を収めることになる。そしてその背後では作り手も含めた全ての人間が人格性を徹底的に喪失して貨幣化するという過程が進行している。
  
  この結果、人格性を幻視することによって展開することが初めて可能になっていたフィールドはその自己完結的性格と共に崩壊し、記号を消費して形式的な妄想を誘導されて燃焼させるだけの行為がその内実を奪い取ることになる。そもそもが根本的な対他性を持っていないこの概念は、主体が主体であろうとする努力によってこそ維持され、意味内容を持つことができた。即ち人格性を希求する意志とそれに根拠を与える外部性がなければそれらは単なる音声の風に堕してしまうこういう営みは、外部性とその端緒から無縁な人間にとっては無縁でしかない。結果として残るのは「萌え」なる概念が持っていた地位を傀儡にして自己の退嬰を隠蔽する行為に他ならないのである。この概念が形式的な妄想の誘導に終わるというのはそのためである。
  
  確かにこのような現象を人生経験と知的洗練に乏しい連中の自滅と断じるのはたやすい。だが、これらは全て人間の否定と形式への還元という形で消費社会の傾向と軌を一にしている。「自分であること」を推奨するメッセージそれ自体が規定されたお仕着せの消費を遂行することによって得られるまがい物の自我の獲得を命令しているのと同様、客観あるいは現実性の暴力に抗する全ての主観的契機を抹消して統計的分類と同一視する態度はまさしく大量消費社会とポストインダストリアル社会の到来によってその勢いをと完成度を無限に高めつつあるのは周知の事実である。かつて、ヘーゲルの弁証法が例示するように否定に否定を重ねる運動の末にようやく獲得された揺るぎない視座としての自己は、今日では鞄と車とデジタル家電の購入によっていとも簡単に贖うことができるのだ。簡単に得たものは簡単に去っていってしまうのは否定できない事実であるとしても、今日ではその軽佻浮薄さこそが活発な能動的態度の証左と見なされる。自己は絶えず消費によって更新されなければならないのである。
  
  抵抗の契機を喪失してこのような体系に組み込まれた「萌え」は従ってもはや単なる記号の乱脈的消費をしか意味しない。新しさ以外に何の質的差異も存在しない各種記号の氾濫のただ中にあって、消費者である彼らは無限にリビドーが充足され得るというおぞましい白昼夢の中で譫言のように「萌え」を呟く。だが彼らが抱く充足の幻想は、まさにそれによってその感情が極めて醜悪な性欲の具体化として表象されている。人格性、即ち他者の他者性が幻視されているのであれば、充足は一時的なものでありむしろそれは無限の乾きと貧困を前提とする。なぜなら人格はそれ自体として私に回収することができず、接近した瞬間に無限の彼方へとそれは遠ざかり、近づこうとした意志の暴力性を突きつけずにはおかないからである。にもかかわらず「萌え」が自己中心的なリビドーの充足としての官能を意味している以上、そしてそれが積極的な、あるいは真に能動的な行為の帰結として一時的に与えられているものではなく、半開きの口に流し込まれる流動食の如き、口にするのもおぞましいステレオタイプの連続である以上、我々は現状の記号消費の一切に対して徹底的な断罪の刃を振り下ろさねばなるまい。だがそれはステレオタイプを垂れ流しに流しつつオタク狩りを繰り広げる愚かな大衆迎合マスメディアの尻に乗っかることによって為されるものではなく、人格を無みし全てを計量可能な要素に還元してゆこうとする全ての消費社会的傾向の野蛮に対して人格主義の古色蒼然たる立場を屹立させてゆかなければならないのである。かなり無謀な宣言ではあるかもしれないが。
  
  そのためにも、何ら意志的な行為を含まなくなってしまった「萌え」は今や廃棄すべき段階に来ていると言っていいだろう。虚構よりも虚構になってしまった現実の記号体系に訳知り顔をして回帰することは単なる阿世であり迎合でしかないだろう。だが、人格性の契機を持つことが絶望的に不可能であるような惨状に(アニメやゲームを代表とする)今日のサブカルチャーが陥ってしまったのだとしたら、それらは「萌え」同様捨て去るのに躊躇いを感じる必要はなかろう。我々はかつてそこから多くを確かに学び、現状がいかに荒廃しているかを知っているからである。





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