Confutatis maledictis, flammis acribus addictis...
Confutatis maledictis, flammis acribus addictis...
呪われた者たちは退けられ、激しい炎に飲みこまれん...

――アトラク=ナクア、呪われた者の希望とは――


Das Ganze ist das Unwahre.
全体とは、真ならざるものである。
(Th.アドルノ 『ミニマ・モラリア』)




  随分と昔の作品である。最初の版が出たのが1997年だから、今からおよそ7年も昔である。その後ソフ倫の規定に沿う形で一部を改訂した版が発売されたのも2000年で、いずれにしても今さら取り上げるのは時機を逸したと言われても仕方がない。だが、古いからというだけでその作品が持つ内容を斥けてしまうのは賢明ではない。少なくとも、この作品が今もなお少なからぬ人々の記憶に残っているのは、記憶に残るだけの内容と価値があるからだろう。今回の「独り言」では、その側面について、特に物語の後半部分に焦点を合わせつつ考えてみたいと思う。プレイしたことのない人は今すぐ買え。
  

  
  「〜は正しい」あるいは「〜は誤っている」「〜は正しくない」という言い方を我々は日頃から口にする。恐らくそのほとんどは知識の正誤に関するものであり、文献などに当たることによりそのほとんどは解決可能なものであろう。その限りにおいて「正しい」は中立的なものであるように一見思われる。どこからどう見ても1+1=2であり、それは我々が死んだ後も変わることはないだろう。それは通例は別段困るほどのことではない。むしろ、そのような根拠がなければ我々は多くの場合において物事を判断することができない。それらを通じて我々は現実性の契機を獲得し、少しばかりの自信を栄養にして自意識を維持していく。
  
  このような文脈において、即ち我々の生存を根拠づけるという意味において、「正しさ」という概念は道徳的な領域でその価値をより大きく発揮する。なぜなら、このような文脈での「正しさ」はそれを検証する合意された方法が存在しないからだ。従って道徳的、あるいは倫理的な正しさの正誤は、検証手続きの欠如あるいは錯誤という技術的な問題で解決されるものではなく、我々自身の判断力全般に関わってくることになる。倫理的な点での間違いを認めることが我々にとって耐え難いのは、その否定自体が我々の認識の一切を否定しかねないからだ。そして認識が我々自身の経験全体を基盤にしているのならばなお一層、この事実は生全体の価値を規定しかねない。自分のそれと真っ向から対立する、少なくとも相容れない倫理的体系の正しさを目の前にして我々が極端な錯乱に陥りがちなのは、それが我々の存在自体を全て否定し去るだけの恐怖と破壊力を持っているからである。我々は、己が間違っているという事実には、通例、耐えられない。だからこそ、少なからぬ人々が仮象と知りつつも正しさの幻想を共有して生きている。その彼方に存在する虚無の深淵に、ほとんどの人々は、恐らく私も含めて、耐えることができない。
  
  だが同時に、この「正しさ」という仮構された自明性は、それがより正しくあろうとするために、より多くの「錯誤」を生産している。相対主義、あるいは懐疑論が時として垣間見せるニヒリズムの深淵を覆い隠すためにも、「正しさ」の版図は限りなく無限大に広大なものでなければならず、圧倒的多数の人々を収容しうるものでなければならない。その王国の中でこそ、我々の認識はようやく安らぐことができる。
  だがその一方、その「正しさ」の清潔さを維持拡大する過程では、常に「正しくないもの」とされたものを峻別して排除していかねばならない。これこそがまさしくフーコーがその考古学の中で我々に突きつけた事実であるのだが、倫理的な正しさを超越論的な概念に依拠して正当化するのならば、悪は当然存在しなければならない。そしてその役割を担うものも当然存在しなければならない。明確な悪役が存在する世界観が恐怖と同時に安らぎすら与えてくれるのは、このため、即ち我々が正しさの世界に住んでいることを彼らが保証してくれているからである。そして我々は悪を滅ぼし正義を讃えるために戦えばいい、ということになる。
  
  しかし(フーコーの議論からは外れるが)実はこのことは悪の立場であろうと余り変わらない。全ての価値を転倒した世界に住まうのであれば、それはそれで別段自らの存在根拠について思い悩む必要はないのだ。なぜなら、悪は正しく、正しいことが悪であるだけだからである。アトラク=ナクアで登場する邪神・銀はまさしくこの立場を代表している。彼の立場は簡単に言ってしまうならば、陳腐化された悪魔崇拝のそれと変わらない。一つの価値の王国の主人であり、それがただ単に通常我々が共有するそれのネガになっているだけだからである。そして、物語後半までは、本作の主人公・平良坂初音が取る態度も、基本的にはこれとさして変わるところがない。昼の世界に住まい、生を謳歌する人々を自らの領域に引きずり込んで破壊するだけのことである。それだけならば巷間に溢れる「凌辱系」と呼ばれるその種の凡百のゲーム類とさして変わることはなかったであろう。
  
  だが、アトラク=ナクアがそれらと袂を分かつのは、初音が単に悪の世界の住人ではない、ということにある。それは彼女の立場が銀の再登場によって揺らぎ始める物語後半になって明らかになり始める。これまで彼女が占めていた悪の世界を代表する立場に、真の悪である銀が現れることによって、彼女が実は単なる悪の存在ではないことが語られ始めるのだ。
  
  では、彼女はどのような立場にあるのか。自らの再生のために人々を喰らい尽くしているのだから、清廉な存在では無論あり得ない。しかし銀の唱える悪の哲学に身を任せることもできない。悪に休らうためには彼女は余りに人間的であり、人として生きるためには彼女は余りに醜すぎるのである。
  
  即ち、彼女は、いずれの世界にも住まうことを許されていない。銀への生贄として人間の世界からかつて追い出され(しかもその際に村の連中に輪姦されている)、その憎しみが彼女を悪の住人として生きることを決意させたであろう事は想像に難くない。彼女は追放の段階で「正しい」世界がいかに多くの暴力と奸智によって少数者を犠牲にしているかを見抜いたのである。そして彼女が受けた仕打ちはそれ自体として、もとの世界へと帰還することを許さない。彼女はもし生きながらえるならば人外の存在であることの屈辱を引き受けなければならない。真の姿として醜い蜘蛛であることを選び取るという行為は、それ自体として人間の、「正しい」世界への訣別を意味する。
  
  だが彼女は程なく(と言っても数百年経っていると物語では語られるのだが)この悪の世界においても自分が休らうことを許されていないことを悟る。悪であることの存在論は、彼女をかつて凌辱した暴力にその基盤を置くのだ。暴力こそが唯一の支配原理であるこの世界では、彼女は暴力を行使することでしか自らの暴力の記憶を抹消することができない。なぜなら、暴力の行使それ自体がこの世界での存在証明であり、この世界に存在することによってのみ「正しさ」の世界の忌まわしき記憶を消し去る契機を手にすることができるからである。
  
  だが、暴力に浸れば浸るほど、暴力の記憶は、より浄化を求める。それ故にこそ初音は銀と袂を分かつことになり、かつて渇望した悪の世界にも己は住めぬのだと確信するに到る。結局、彼女を無前提に肯う価値の世界はどこにもなく、それ故に彼女は呪われたものとして二つの世界の境界を放浪せざるをえない境遇にある。彼女は作中で日の光が降り注ぐ世界への憧憬を躊躇いがちに、そして自らはそこにふさわしくないのだという条件を認めつつ口にするが、これは自らが「正しい」世界からは呪うべき存在として見捨てられており、かといって完全なる暗闇の世界に住まうこともできないのだという絶望の表明である。アポロン的な健康さを今一度冀ったところで、それは呪われた者たちには禁止されて手の届かない世界なのである。
  
  だからこそ、彼女は呪われた者のために、その生を肯うべく振る舞う。「正しさ」の世界から放逐されつつある深山に対して見せる、峻厳ながらも慈愛に満ちた一連の行動は、深山が悪には住み得ぬ者であることを了解した上で、あるいはその醜悪さに徹することの不可能を看取した上で、呪われた者たちのための「避難所」を、かつて自らの暴力を高めるためにのみ用いたその力で造り維持しようとしたことの証であろう。彼女が銀を滅ぼすことをすら決意したのは、彼が悪の暴力によってその箱庭を蹂躙しようとしたからに他ならない。そもそも、初音にとって銀は憎悪の対象では元来なく、正しさの一方の極を代表しているという点において、それ自体を否定する意志はない。にもかかわらず、初音が銀に対し反抗の刃を向けるのは、いずれの世界にも住まうことのできぬ者たちの宥和の空間を彼が認めないからである。彼女が手に入れ、そして守り、住まいたいと願ったのは、そのちっぽけな貧しき豊饒の世界でしかなかったのだ。
  
  だが、男性原理に貫かれた「正しさ」「悪」の世界は、そのような可能性を認めない。形こそ違え、自らと相容れないもの、あるいは自らの覇権を維持するために絶えず犠牲を要求するそのような暴力の体系――前者は排除と抹殺の原理で、そして後者は文字通りの虐殺の原理で――は、その外部に蹲ろうとする者の存在を認めない。なぜなら、彼らにとっては、あるいはその価値にとっては、外部性を許容することは自らの価値の相対性を認容することになるからである。だからこそ「正しさ」は、そして「悪」は自らの至上権のために容赦ない力を行使し、彼らの土地を奪い、叩き潰すことで二元論の――つまりは一元論の――世界を誇るのである。
  
  確かに、このような主張は形而上学的詭弁であると見る向きもあろう。だが、我々が安心する「正しさ」は、その外部に多くの「異常」を巻き込むことで成立している。健全な精神、あるいは肉体という理想は、障碍あるいは傷つけられた人々を保護の名の下に排除することで価値を持つ。正しい意識という価値は、意識してそれに背を向ける場合を除き、意図せず歪んだ、呪われた意識を包摂することによりその命脈を保とうとする。大多数が疑義を呈することすらしない価値を疑うものは、それ自体不吉な者として相対主義の名の下に緩やかな排斥を甘受せねばならない。仮にそのような立場を自らのまったき自由のために選び取るのであれば、そのような境遇にあることもまた織り込み済みであるのだから仕方ないと理解することもできよう。だが、有無を言わせぬ価値の暴力によって土地を追われた人々、そもそもの始源から排除されている人々は、何を言えばいい? 何を願えばいい? 連続する暴力、絶え間なく続く迫害と脅迫――それが明示的なものであろうと黙示的なものであろうと――に対して避難所を持つことすら許されない人々は、どこへ行けばいい?
  
  初音はこの立場に身を置くものである。確かに男性原理の発現である暴力に身を任せることは快楽ですらある。最終盤での銀との一連の行為はそのような神話の象徴でもある。だが、それ自体が一切の世界からの自らの排除の由来になっている者は、宥和された世界を絶望の中に垣間見るしかないのだ。そしてこの物語が最後深山の懐胎という形で終わるのは、かくの如き原理に対する一つの眼差しでもあろう。
  
  そしてこのような終わり方は、我々に一つの事実を突きつける。現実の桎梏に疲労した我々が仮にそのような境涯を望んだとしても、それは単なる概念化されたロマンチシズムでしかないのである。なぜなら、真の意味で呪われた人々は決して自らを理想化することができないし、自らのあり方について選択の希望を持つことそれ自体が許されていないからである。多くの場合において死が救済と浄化となりうるのはそのためであり、それを逃避の口実にする我々にはそんなことは以ての外なのである。
  
  だからこそ本作品の文体は作品の内実とも密接に関連するものとなる。往々にしてこの手の作品では文体が一人称の独白調で書かれており、余りにも表層的な懊悩の台詞に鼻白むことも少なくないのだが、本作では通常の小説同様の文体での記述が為されている。これが意味するのは、主人公と読み手である我々との認識上の回収不能の溝である。何をどのように憧憬しようとも、我々はそのようにして偶像化され、理想化された彼女の意識を共有することはできない。ただそれを外部から眺めやることで自らの独善あるいは偽善を恥じるのみなのである。そしてそのような立場を救うという、慈善的排除すらこのような立場は拒絶するのである。そのような暗黙の敵意と絶望をこの文体は構成するのに成功している。
  
  けれども、そのような呪われた境涯にも、浄化があること希うのは無益なことではあるまい。それは正しさの中に彼女の生が肯われることでも、あるいは悪として君臨することでもあるまい。破砕されたその世界の中で、ただ唯一、彼女が願った、日だまりの如き宥和された別の世界を、一つの可能性として、夢見ることの希望を、我々の穢れた手で触れることなく認める、そしてその中に我々自身が、とりわけ自らの生はその総体において間違っているのだ、と罪の意識あるいは絶望にまみれている者が、別のあり方で認識し、別のあり方で生きることの意味を見いだすことができれば、と私は頭を垂れて呟くのである。





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