バイロンは劇詩『マンフレッド』の中でマンフレッドに次のように独白させている。(第一幕第一場)
... and yet I live, and bear
The aspect and the form of breathing men.
But grief should be the instructor of the wise;
Sorrow is knowledge: they who know the most
Must mourn the deepest o'er the fatal truth,
The Tree of Knowledge is not that of Life.
「それにもかかわらず、私は息をするただの人という恰好で生き、そのように振る舞っている。だが深い苦悩とは賢明であることの導き手であるはずであり、だから悲痛とは知識なのだ。すなわち、最も多くを識る者はその避け難き運命の真理の前に嘆き悲しまねばならない、知識の樹とは生命(いのち)の樹ではないのだから」 (拙訳)
旧約聖書のアポクリファは楽園に二本の樹があったと我々に伝える。即ち、生命の樹と知識の樹である。前者の樹の実を取って食べたものは永遠の命を手に入れ、後者の樹の実を手にした者は知識を手にする。バイロンのテキストは楽園を追放されたエヴァとアダムの嘆きを、識る者の避けようのない宿命として述べている。つまり、智を手にする者は生命の実を手にすることを禁じられ、真理の容赦無さに身を常に切り裂かれる運命にあるのだ。そして逆に生命の実を手にした者は智を奪われ、その見せかけの永遠性の中でそれを越え出ることを許されず滅んでゆく。
「死すべき者」と名指された我々は、この呪縛の中で身悶える。生命の実を手にして至福の永遠を手にするも眼差しは時を越えることなく永遠の現在の中で己が忘れ去られ滅びるのを目の当たりにするのか、さもなくば時を越える眼差しとしての知を手に入れるも肉を備えた死せる者としての我は現在を永遠に奪われその悲しき貧しさに身を切り刻まれ続けることに己が死すまで耐えなければならないのか、「死すべき」そして「識りうる」我々はそのディレンマの中で、幸福という蜃気楼を求めて漂泊しつつ、この束の間の生を過ごしてゆく。
《幸福》をテーマにしているというKeyの『Air』はそうした問題意識を前提としている。「幸福」とは「生命の実」を手にすることにあるのか、それとも「知識の実」を手にすることにあるのか、と。だが当然の如く、実は両者のいずれにも救いはないのだ。だから、この『Air』という作品は幸福をテーマとしつつも、「我々は幸福にはなれない」という厳然たる真実を我々には突きつけずにはおかない。即ち、我々は生きている限り、本質的な意味においては決して幸福になることはあり得ないのだ。一見至福に感じられる瞬間であろうとも、それは時に従って崩れ去ってゆく。永遠の幸福は我々の生においては存在することはなく、常に我々は自らの悲しみを直視してもがき苦しむ他はないのだ。「最後はどうか、幸せな記憶を」というAirのOPで刻まれる言葉は、こうした人間の宿業とも言うべきものに嘆き、悲しむ者たちの祈りに似た悲痛な願いであり、叫びなのだ。せめて命の終わりに当たっては生は祝福されてあれ、と祈る者たちは天を仰ぐのだ。
Airにおける人物造形は恐らくそのような文脈で読み解かれるべきであろう。神尾観鈴がその呪いとして、誰とも友になることができないというのは、まさに「識る者」の逃れようのない悲嘆としての運命を象徴している。「識る者」は、対象との幸福な合一に至ることがない。対象はあくまで認識との関係において存在するのであり、認識とは、ideaという語の語源が動詞「見る」にあるように、「観る」ことに根拠を持つからである。そして観ることは対象との離間を必要とする。「目を閉じて」容赦することなく、いや容赦することができずに、「観る者」は相手を突き放してしまう。だから、観鈴という名前に「観」という一字が含まれていることは単なる偶然ではない。
このことはもう一人の主人公である国崎往人についても言えるだろう。周知の通り、彼は人形使いをやりながら各地を遍歴して日銭を稼ぐのを生業としている。つまり、どこにも定住することがない。これは「母」に命ぜられたことでもあるからなのだが、論理的に考えれば一つの土地にとどまった方が知名度も上がるし商売がやり易いはずなのに、なぜ各地を遍歴せざるを得ないのか。それは、彼もまた「観る者」の系譜に連なる人間だからである。「観る者」「識る者」はその性格がゆえに、神尾美鈴に掛けられた呪いのように、対象との幸福な結びつきを得ることができない。彼らは真の故郷とも言うべきものをどこにも持つことができない。かつてベンヤミンが言ったように、彼らは故郷喪失者、デラシネなのだ。だから国崎往人もどこにも居場所がなく、あちらこちらをあたかも呪われたオイディプス王のように彷徨う。そして、『コロノスのオイディプス』同様、彼がそれを止め、観鈴との合一としての彼女の生存を願ったとき、彼の肉体は滅びることになる。さらには烏になった往人は、再度観鈴に人として邂逅することを奇跡として願うと、今度は彼の精神も含めた一切が消滅する。彼は「観る者」「識る者」としての禁忌を犯したが故に、その現存在を根こそぎ奪われることになったのだ。手に入れることを願ってはいけないものを願ったが故に、彼は滅ぼされたのである。無論、彼もそれを知った上でのことなのではあるが。そう、彼は「呪われた」者たちの祝福を、自らの生命を贈与することで、託し、消滅したのだ。
では、そこまでの代償を払ってまで「観る者」「識る者」はいったい何を得るというのだろうか。ファウストが嘆いたように、自らの悦びを抛ってまで得られるものとは何なのか。それほどまでに「知識の実」は麗しいものなのか。
恐らくそうなのであろう、と答えることは可能である。時折、あるいはしばしば知的興奮によって我々が感じる脱我感(ek-stasis)はその証であろう。時を越え、自らさえも越えた地平からの認識を為しうるということは、我々がまさにそのような形での知性を持つことができるのだということを意味するからだ。眼前の直接性に拘泥しているのみでは恐らく知性が我々にあるのだということにも考え至ることはないだろう。しかし生の観点から、価値を含めてそれを問うのであれば、ありうべき答えというものは、根本的には恐らく存在しない。もしそれらについて価値を含む何らかの答えともなるべきものが存在しうるとしたら、それは単なる二つの価値の間でのジレンマでしかなく、基本的には我々がそのどちらかを意志的に選び取ることはできるはずだからである。むしろ、観鈴たちが「呪われている」ことの裡には、それらのうちのいずれかを選び取るという行為が非起源的なもの、記憶以前のものであったということへの暗示が含まれている。即ち、我々は好むと好まざるとに関わらず、いや語弊を恐れずに言うのであれば、生まれる以前からそれらの運命に呪縛されているのだ。それはそれこそヒトがヒトとしての歩みを始め、時を越えたものへの視座を得た瞬間にその恐るべき災いは我々に既に降りかかっていたのだ。従ってその災いは人間の人間としての歴史と共にあったということができるだろう。『Air』では物語の舞台となる時を「1000年目の夏」と表現しているが、だから、実は「翼人」とは1000年のみならず人類の歴史そのものの記憶を懐胎しているということになる。つまり、『Air』における「翼人」とは、そのような災いを呪いとして抱え込んでいるということを意味する以上、人間にとっての時を越えた認識の総体のメタファーなのだと言うことができよう。空を舞い地平の遙か彼方を見晴らすものは大地の神話から自由であると同時に、それを奪われている。《Summer》編ではその起源を一種の神話(あるいは民話か)の形を借りて説明しているが、これは「信仰」と「知」の分離とそれを巡る闘争の寓話として読み解かれるべきであろう。
だがそのような「観る者」「識る者」としての翼人の末裔たちの不幸は単にそのような二項対立が存在するのだという事実を認識し、人間としての自己が「今」を奪われていることに煩悶するのみではない。時を越えてヒトたちの歴史を眺めやる者たちは、その巨大な流れの一つ一つが無限の内的宇宙を持った人間たちによって構成されているという事実を直接受け止めねばならなくなるのだ。ただ単に我−汝の関係のみで充足してその相手の自我を受容するのみならず、人類全て、歴史としての人類全ての内的宇宙と向き合ってそれがあたかも自らの前に現前するものであるかの如く、いや現前という対象性すらも剥ぎ取られた上でそれらと向き合わねばならないのである。つまり、一人の自己である我に、人類の全てを受容させることをこの認識は強いるのだ。だからこそ観鈴は破綻する。
けれども、そのような逃れようのない運命としての悲劇を突き進みつつ、『Air』は「祝福された命」を希う人間の姿を描き出す。人類の文字通りの一切を引き受けることを強いられた(人間の一人である)観鈴は、その呪われた生命を祝福して飛び立つために、自らも一人の人間として敢えて生きることを選び取る。
無論、それは「生命の実」を選び取った者たちの如く直接性としての関係に耽溺することによって成就するものでは断じてないし、かといって自らに関わる全ての者たちとの関わりを断ち切って事足れりとするものでも全くない。即ち、この両者を越えた地点にある生を目指し、それを身を以て体現し尽くすことこそ、実は観鈴の言う「ゴール」なのである。そしてゴールは「目的」であり、「死」であった。
では、そのような地平にある生が、具現するものとは何なのか。それは個人としての利益=関心、いや利他主義さえも越えたところにある、他者に対する眼差しではないだろうか。いや陳腐な言い方であるとの謗りを恐れずに言うのであれば、それはまさしく広汎な意味においての「愛」とでも呼ぶべきものであろう。特定の対象に向けられた愛ではなく、全ての生きとし生ける者に向けられた慈愛としての愛情。それらを受け止め、また自らもそれを与えうるものであろうとしたところに、《Air》編が限りなく美しい物語であるとされる理由がある。つまり、晴子はそこにおいて、一人の個人であると同時に、人類の記憶を担うものとして、観鈴に無限の愛情を注ごうとするのだ。そして、観鈴は逆に、人類の記憶を担うものでありつつも、一人の人間として、晴子の想いを受け止め、それに応えようとする。この交差する二重の時間性と想いこそが、「幸福」の煌めきを象る。
しかしけれども、このような地点は我々にとっては極めて遠いところにあるだろう。我々はやはり日々の暮らしの中で「知識の実」と「生命の実」の相克に悩み、苦しむ。その先にしか幸福がないということがたとえ分かっていたとしても、それは究極的に宗教的な境涯であり、そこへと逢着するためには1000年もの時間が文字通り求められるのであろうし、それに比して我々の生はあまりにも短い。だからこそ最後の場面で登場するのは子供たちなのであり、彼らはこのような歴史の終焉の彼方に位置する。即ち、彼らは全く新たな〈幸福〉の担い手として立ち現れるのだ。
けれども、我々はその「過酷な日々を」引き受けるしかない。だが、もし幸福が1000年先であろうともそのような形で光を放つのであるとすれば、祝福された生命のために、そして受け継がれてきた無限の想いを少しでも受け止めるために、眼差しを空へと高くあげることは、決して無意味なことではないのかもしれない。
そう、私たちは海よりも遠くへゆけるのだから。