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ぼくは普段,Windowsを「大きなフォント」で使っている。画面のプロパティで画面のフォントサイズを既定値の「小さなフォント」から,「大きなフォント」に変更しているのだ。
(中略)
日本アイ・ビー・エム(IBM)の発表した「ITryプロジェクト」の概要を聞いたときに,これって,ぼくの設定に似ていると思った。
あまりにもMicrosoftに媚び過ぎている彼のコラムの水準の低さはさておくとしても、最近、コンピュータ関連のコラムやネットにゴロゴロ転がっているコラム・エッセイを読んでいると、一人称に「ぼく」あるいは「僕」を使っている物が結構目に付く。「僕」という字は「しもべ」とも読むから、書く本人はもしかするとある種の謙譲の意味を込めて使っているのかもしれない。だが、私にはそれでも違和感が残るのである。それは私がかつて担当していた小論文の添削においては「僕」という呼称が厳しく禁じられていたという事実にも依るのだろうが、それに留まるものではない。いったい、なぜなのだろうか。
通常、我々は社交的なレベルで一人称を使うとき、「わたし」あるいは「わたくし」という呼称を用いる。例えば仕事で面接などに行った折、あるいは人前で何かを発表するとき、そこまでいかなくとも対等な人格として相手と交渉などを行う際に、一人称として「僕」という語を使うことはない。にもかかわらず、Webで読むコラムなどには、そのテキストが「読み手」を意識して書かれたものであるにもかかわらず、なぜか「僕」が多用されているのである。このレベルのずれが私にとっての違和感なのであろう。
周知の通り、「僕」という呼称は三田誠広の『僕って何?』や栗本薫(中島梓)の『ぼくらの時代』等の本が証言するとおり、それらに先行する世代、即ち全共闘世代や安保闘争の世代に使われた「我々」という一人称複数の呼称に対するカウンターアタックとしての起源を持つ。今でも革マルとか革労協なんかのビラを読むと、すぐに「私」が「我々」に拡張されてあたかもそこに読み手である私が含まれるかのような印象を持つのだが、実際これはヘーゲル的な意味での動員を狙ったものでもある。即ち、「我々」の内にあなたはいるのであり、「我々」でなければ読み手ではない、という具合の便法でもって「私」をその運動力学に取り込もうとするのである。そして、「僕」はそれに対する反抗として成立した。
それはどういうことか。集団、あるいは社会(society)を自称する人々に対して、個としての自分、イデオロギー的な行動原理には束縛されない個人としての自分という立場を、声高に主張するのではなく、山崎正和の用語を援用すれば「柔らかい個人主義」の表明として、「僕」という呼称は産み出されたのである。だからこそ、80年代初頭の時代の雰囲気を強く残す『ホッドドッグ』や『プレイボーイ』、今は無き『平凡パンチ』、あるいは敢えてその時代のミニコミ誌的なムードを演出する『SPA!』等では、「ボクらの〜」という見出しがよく使われる。
だが、このようにして産み出された「僕」は、いつしかその時代的背景を失っていく。即ち、「僕」を使うことはかつてはそのような集団的社会意識に対抗してあくまで(柔らかい)個人としての社会意識を確立することに貢献していたのだが、その対立軸が消滅してしまった、あるいはリアリティを失ってしまった今日においては、「僕」という一人称は個としての社会意識を涵養する契機には全く成らなくなっているということなのである。むしろ、それは「僕」という語がかつて持っていた、そして今でも持っている一般的な社会通念としての意義を強調する役割を持つようになってしまっているのである。私が違和感を通じて反発を感じるのはこの点に起因している。
これはいかなる事態を意味するのか。先にも述べたように、我々は社交的な水準で他者、もっとくだけて言えば他人に接するとき、「僕」ではなく「私」という一人称を用いる。これは、相手と自己が対等である関係を意味している。なぜなら、「私」は「しもべ」ではなく、あくまで公共的領域から奪い取った(privatus)ものとしての個人という立場を共示するからであり、また「あなた」という語も漢字に直せば「貴方」となるように、「私」と同様の空間を指し示しているからである。ここに成立するのは相互が人格として不可侵の領域を持っているものとして尊重し合うという関係である。自らの主張を相手に真の意味で理解して貰うためには、相手と自分は(倫理的には非対称的であるとしても)相互にその尊厳を保たねばならないのである。そしてそれが近代的個人の意識というものなのである。
だが、「僕」という呼称はそのような関係の埒外にある。むしろ、そのような用法が要求するのは、自らが読者にとっての「しもべ」であるということである。いうまでもなく、これが意味するのは「僕」を奴隷同然に扱ってボコボコにしてもよいということではなく、「僕」という呼称が共示する「尊厳」の位置にその本質があるのだ。
このような事柄を念頭に置いた上で思い返して頂きたいのは、我々が二人称で「僕」を使うのはどういう相手に対してか、ということである。通例、我々は一定年齢以上に達している男性に対しては「僕」とは普通は呼ばない。それはむしろ思春期以前の男児に対して用いられるのが普通である。この事から導かれるのは、「僕」というのは相手に対して対等な立場ではないということのみならず、同時に対等な立場が要求する人格的な峻厳さからも逃れているという事実である。つまり、「僕」は、対等な立場を期待することができない変わりに、対等な人格が要求する応答性としての責任(responsabilityという語は周知の通り「応答する」を意味するラテン語respondereに由来している)を免除されているのである。これを称してエリクソンはモラトリアムという語を提起したわけだが、「僕」という呼称を用いる「著者」あるいは「筆者」が期待するのはまさに「モラトリアム」に留まることなのだ。これにより彼らは自らの書いたものに対しての「責任」が免除されることを期待する。「『僕』の書いたものは《僕》が書いたものなのですから一々反論するのは勘弁してね」という訳で、なおかつ「『僕』の言うこと分かってよ」という塩梅なのである。即ち、ここに存在しているのは読者に対しての自ら無罪放免を求める一種の媚びであり、意見を立言して自らの主張を読み手に問うという態度ではない。もっと突き詰めて言えばそれは「自分の心情を理解して欲しいんだけどなあ……」という一種の甘えであろう。というのは、責任を予め免除された言表行為は必然的に説得的根拠も免除されるからであり、そこに残滓として残るのは単なる無反省な状態としての主観的な心情でしかないからである。だから、「僕」という呼称を用いる書き手は読者に対して理性的に理解して貰う、あるいは納得できない場合にはその根拠を示した上で反論して貰うことを求めるのではなく、ただただ素朴に「共感」してもらって書き手としての自我を満足させてもらうことを要求しているのである。だからこそ「僕」という一人称でそのような意見表明を行う者は時折示される反論に対して極めてヒステリー的な反応を示すか、あるいは徹底的な黙殺を行うのである。それらの反論は自らの自我の成立基盤を脅かすものとして彼らには映るのだ。
だが、それらはこのような心情的な背景がある以上、自らの意見を表明するものとしてのコラムとしての存在意義はない。意見とは、顔も知らなければ素性も知らない読み手との遭遇をもたらし、そこには必然的に緊張した関係が成立するものである。そしてその緊張した関係と時には対立の中でこそ、意見なるものは自らを発展させてゆくのである。そしてその発展によって、我々もまた自らの認識を発展的に展開し、磨くことができる。書き、読み、議論し合うことの真のダイナミズムとは、そのようなものではなかろうか。「僕のこと分かってよ」という馴れ合いの中でもたらされるものは、その逆であるところの情態への停滞でしかないだろう。そしてそれはつまるところ異和するものを排除し、所詮顔見知りでしかない者たちしかいない世界で、こそこそと隠語のやりとりをすることにしかならないのである。これは即ち知性の自滅である。
だから、私は一人称に「僕」を使うのはいかがなものか、と主張する。書き手としての自律・自立した意識を持つということは、読者に媚び、甘えることではないのだ。むしろ、積極的に対立することなのだ。そうであるがゆえに、日記のようなものはさておくとしても、何らかの主張・思弁を表明するコラムあるいはエッセイのような文においては、「私」あるいはそれに類した一人称を用いるべきであると、「私」は考えるのである。