先日、というべきか数ヶ月前、フッサールの『デカルト的省察』を再読した。この本にまじめに取り組むのは院生の時以来だから、覚えていないことも沢山あって、あのとききちんとメモを取って読んでおくべきだったと反省するところ大であった。
しかし、特に他者との共同世界性の構成が出てくる第5省察以降の議論の展開は、自己の超越論的主観を所与の前提とするため、強い違和感を感じた。それは認識する自己が世界性の構築において基盤を為すという指向性の思想の拠って立つところそのものが、原理的には他者そのもののよりも自己を優位に置く思考法に彩られているのではないかという疑義をどうしても拭い去ることができないからだ。
しかし、通俗的な水準で振り返って考えてみれば、おそらくは多くの人はこのような認識的立場を維持することによって、自己の心的過程との相等性を他者のうちに見いだすことが出来、それを確認することによって成長をしていくのだろう。他者との関係性の構築や維持はまさしくそのような相等性の確認に重きが置かれているだろうし、たとえそこにある程度の差異があったとしても、他者の心的過程の素朴実在論がそこで維持されているのであれば、それはその差異ですら相等性の外延でしかなく、それはコミュニケーションとやらの過程において十分回収なものである、あるいは相互に承認可能なものであるという前提が崩れることはない。少なくとも他者は自己と似たものであり、自己は他者に似ている。そのような認識的前提を多くの人々は構成することで社会性を獲得するものだ。
だが、いくつかの例外的過程によって、このような認識を獲得する以前に別の意識を構築してしまった人間、たとえば認識する自己としての立場そのものが自明ではなく、むしろ媒介という過程を通じて常に脅かされているのだという意識を持つに至ったような人々にとって、そのような他者の心的過程の素朴実在論という自然的事実に対する自明性の認識はひどく眩しく、羨ましく、そして時として妬ましいものに写る。そして、その地平、あるいはそれに相当する認識的立場に至るためには、彼らには極めて長く遠い、そして厳しい道のりが待っていることになる。なぜなら、そこには常に指向性という健やかさよりもまず困惑し、混乱することによって世界性の構築そのものに失敗した、この世界を拒否することによってのみ一時的なアジールを獲得することができるからであり、そのアジールを超えての再生を果たすためには、支配的価値観の桎梏を超え、なおかつ多くの場合そのリアリティを何の手引きもないままに結晶化させていかねばならないからである。
だが、それと同時に、その魂の歴程そのものが、他者に対する意識の全く別のあり方、即ち別の形でより一層倫理的な認識と精神とを育むものなのだと私は思う。素朴実在論のようなヘゲモニー的意識が笑いながら孕んでいる暴力性を暴露し、他者の無限に近い遠さを説くレヴィナスや、全体なるものは常に偽であるとするアドルノなどのユダヤ系思想家の他者論および非同一性の哲学に私が理論的親近性ではなく、ほとんど感性或いは魂のレベルで説得力を感じるのは、彼らの思想が常に否定されたもの、あるいは根拠を奪われたもの、そして即ち一般的には公共性の手段であるところの言語では語り得ないものを救済しようとするその態度が、これらの弱き者達の導きとなる可能性を持っているのではないかと感じるからだ。そう、多くの人々にとっては極めて当たり前すぎることができないが故に、わざわざ遠回りしつつ、そして自らを傷つけてまで旅をしなければいない人というのは、じじつ存在するものなのだ。そして、恐らくだが、多くの場合そういう人間同士が近接し、言語を超えてロゴスを獲得するという極めて稀な経験を通じてしか、彼らの精神は新たな回路を構築することができない。それほどまでに彼らの内面は近さなき他者の無限の遠さとそれがもたらす孤独によって常に支配されている。だから、彼らが他者の無限の近さと無限の近さを同時に感得しうるそのような契機を、私は時折奇跡と形容したい衝動に駆られるのだ。
先日、ようやくBD版にて入手したとあるアニメの作品を通し(個別の話は過去に見ていた)で見たとき、思い出したのはそういう事だった。私もそれなりに(≒無駄に)年を取ってしまっているので、この作品で問われる「汝は罪人なりや?」という問いかけには恐らく望ましいであろう答えの一つをすぐに示すことはできる。したがって本作品が青臭いビルディングスロマンと片付けるのはそう難しい話ではなく、各所で示される謎や伏線の回収が中途半端であることを論うことも実際たやすい(これは予算や放映期間などの現実的制約もあるので、一概に制作者側の手落ちということはできないが)。
にもかかわらず、本作品をして私にこのような文章を書かせてしまうように触発するのは、それが示したいくつかの救済の可能性と、それに失敗した私自身の自らの愚かさを今更のように思い起こさせるからである。
折に触れて時折私は日記などで書いているが、結果として他者の心的過程について自己とは全く異質であるとの結論、或いは独我論的な不可知主義に至るのは、そうすることで自らの全能感を維持する、或いは無力さを糊塗するためではない。むしろ、そこに現れているのは、他者の心的過程の存在を否定することによって、自らの心的過程の存在それ自体を否定しようとするからに他ならない。即ち、心がなければ心は傷つくことがないし、傷つけることによって自らが絶望することもなく、我々の主観には指向性を失った無時間性の世界が氷結した湖の表面のように静かに昧く維持され、空間そのものも虚数の領野に閉塞するのである。その上で、規範的な評価軸に基づいて何も考えることなく行動さえしていれば、換言するのならば仮言命法的な基準に基づいて振る舞ってさえいれば、共同体からは厭わしい存在として扱われることを避けることができるのである。
だが、この背景には、いうまでもなく救いようもなく徹底的に深く破砕された魂の存在が揺曳している。魂は自らに終末としての死を手繰り寄せることで一切を否定し、それによる救済のみが唯一可能なものであると固く信じてやまない。精神を破棄し、流れる時間と日々を惰性的にやり過ごすことは死を待ち受ける上で最も妥当な方法の一つだ。
無論、このような苦悩と孤独は、恐らく我々の多くが成長してくる過程で程度の違いこそあれ経験してくるものではある。有り体に言ってしまえば、「みんな悩んで大きくなった」のだ。だが、彼らがその境涯において特異であるのは、その孤独が単なる苦悩ではなく、多分に絶望という水準に至ることで彼らの魂を止むことなく切り刻み続けているというその徹底ぶりにある。それは自己を否定するために他者すら否定し、永遠に思える闇の中での堂々巡りを続けることになる。これはほとんど呪いといってもいい。これを論理によって解放するのは恐らく不可能である。なぜなら、言語はそれ自体として正しさという形姿を帯びるとき、不可避的に多数者の暴力という幻影を纏わざるを得ないからであり、そのような幻影そのものが彼らをこれまで叩きのめし続けてきた存在に他ならないからである。
だが、本作がその内容において特徴的かつ価値を高らしめているのは、随所に見られる言語ならざるものの豊かな象徴性の存在が、共同性による単なる同調性の交換に陥りがちなコミュニケーションに一旦背を向けさせ、我々自身の内面或いは精神が有する想像力そのものの力に再度意識を向けさせることで、言語を否定することなく(それでは単なる反知性主義だ)、個々の人物の魂の再生に寄与しているという点だと私は思う。即ち、共同体の価値観への恭順や、日常生活上必要な意思疎通といった通常の言語使用を一旦破棄した上で、自分が一般的な仕方、或いは実証的な主知主義的理解の方法では到達することができない領野の存在に対して改めて自らの意識を向け直すことで、そこに意味を見いだそうとする自分の精神の存在を再発見するのである。それは日々の騒音の中で失われた、かすかな響きに耳を澄まし、そして「目を閉じて」聴き取る行為であり、聴き取る自己と鳴らす自己との間の沈黙の対話が、この世界に自らが存在しているという事実をもう一度肯定的な意味で暗示してくれるのである。
そして、それは同時に、そこに意味を与えようとした他者の存在にも気付くことである。我々が意味を奏でようとする以前に、実は他者は、それがいかなる形であろうとも、かつて意味を奏で続けてきたのであり、我々が自らのうちに再度見いだした魂が呼び起こした意味は、実はそもそもが我々が我々となる以前に他者から、無限の時を経て与えられたものではなかったか。従って、意味に向けて自らの想像力を用いることは、意味の彼方に他者の精神の存在を見いだすことでもあるのだ。そういった理由もあって、第12話の「過ぎ越しの祭」(この名称はユダヤ教のペサハを想起させるので流石にアレだと思うが)の場面は私が本作品で最も好きな光景の一つである。同時的な、共有可能なコミュニケーションを敢えて一旦留保することで、我々はより深いコミュニケーションの存在とその価値を知ることができるのだ。
しかしながら、真に傷ついて自らの魂の自明性に懐疑的になる人間にとっては、このような行為も救いにはならない。なぜなら、想像力による他者の精神の同定という行為そのものが主観の暴力であり、それを信じることによって受けた挫折或いは絶望の経験は自らの主観の価値自体をその出発点において否定しているからである。物語の半ばで示された古井戸のエピソードは、このような精神の現状を象徴している。
この段階にまで追い詰められた精神が救済を見いだすことはそう容易いことではないと私は思う。なぜなら、救済或いは宥和への希望それ自体が悪しきものとして精神の中で価値づけられ、結果として他者に対し自己は圧倒的に無価値であり、かつ同時に他者の精神を否定することによって自らの精神そのものを抹殺せざるを得ないという認識が存在し続けるのであれば、それを根本的に解決するのは即ち死以外にあり得ないからである。この自滅への認識の堂々巡りを「罪の輪」と形容したのはその点において正しいし、再度ここで我々は自らの死というテーマを、救済という極めてリアリティのある形で、認識することになる。死による最終的解決という思考、恐らくそれ自体は論理的には正しいし、世俗的な因襲に塗れた倫理的制約を無視してしまえば、それを止めるものは何もない。結局のところ私たちは皆ひとりなのだし、所詮エゴで動いている生き物だという冷笑的な判断は実際多くの場面において妥当する真理でもある。
だが、その一方で、この作品がその独我論的隘路を突き崩す宥和の可能性を示すのは、それぞれの登場人物がほとんど皆、自らのエゴという醜悪さに直面しつつ、他者の魂の存在そのものについて時には懐疑的になり、あるいはそれによってひどく打撃を受けたとしても、一切の利益関心を捨てて、まさに定言命法そのものであような態度で他者に向かって善を為そうと文字通り決死の接近を繰り返すことにある。たとえば、物語の冒頭で登場人物のひとりが新たに物語世界に生を受けるに当たって、もう一人がその価値妥当性を省みることなく、善を為そうと決意したことが日記の記述によって明かされる最終盤の場面が我々の胸を打つのは、恐らくはそのような理由による。そこで語られるのは、自らの魂に対する意識、換言するならば救済への拘泥を捨て、他者の無限の近さと遠さのうちに自らを放棄することで、その苦しみや痛みを自らが引き受けようとしたことこそが、実は唯一自らの魂を再生させる極めて長く厳しい道のりの一つであったのだということだった。それは自らの魂の救済を願ってだろうという外面的なエゴイズムの指摘を乗り越えて、あるいは「なぜ」という合理的な理由の説明の必要性を一切超越して、善を為せというただ一つの動機によって行為することによって、自らの全てを全ての力で再度否定し、自分の魂の新たな誕生を他者を通じて為す他はないのだ、ということを意味する。従って、登場人物の一人が自らの消滅を目前にした状況で漸く絞り出した「助けて」という一言は、何よりも他者への近接がもたらした魂の再生という恩寵の表れとしてのプネウマであったのだ。そして、この魂の再生とは、この作品、或いは作品世界が有する他者の心的過程の素朴実在論についての容易な肯定に関する果てしない逡巡というライトモチーフを共有し、かつ日々の世界において他者とのこのような宥和的経験を持つことなく、むしろ実際多数者のヘゲモニーによって精神そのものが挫滅させられた人々にとって、本来自らがいつかどこかで発するべき、或いは今もなお耳を塞ぎながら大声でそれを叫びたい衝動に時折駆られる絶叫の欠片ではなかったか。
いうまでもなく、本作においてそれが導かれたのは、これらの奇跡を可能にした登場人物2人がそれぞれ極めて似通った遍歴を経てきていたからだろう。なぜなら、非合理主義に陥ることなく言語を超えて言語ならざるもの、つまり本作では他者の破砕された魂の悲鳴を聴き取ろうとするとき、そこで求められるのは常に否定されつつも、まさにその否定によって無限の接近を哀願するその魂に対する想像力に他ならず、他者の哀願は共同的ではない次元での契機によってこそ呼びかけとしての響きを帯び、好むと好まざるとに関わらず倫理的次元において、本人の意志を根本的に無視する形でその想像力を行為の次元へと招き寄せるからである。呪われた人々、あるいは選択の余地なく傷ついた人々という少数者において、魂の再生が極めて奇跡に似た形でしか起こらないのは、共同的なものとしての言語によってはその隘路から最早誰も救い出すことができないからであり、その悲惨を感じ取ることで語り得ぬもの、即ち同一性の暴力に踏みにじられたものの悲鳴を覚知することで、暗闇の中でお互いの絶望を破砕された希望の可能性という形で浮上させるからだ。従ってそれは常に認識の暴力によるむき出しの寒さの中で生そのものが苦痛でしかなく、世界が常に敵対的であるとの絶望に低回せざるを得ない意識によってのみ、認識あるいは聴従するべく我を露出させる経験への端緒を有することができる。そしてそのようにして普通の仕方では理解しようのない超越的な行為と意志の発露を経験した者こそが、善の善としての価値の崇高さの片鱗に触れることができるのではないかと私は思う。なぜならば、善とは、それ自体は予め定められたものではなく、絶対的に無根拠であるが故に我々の認識を、つまり同一化し自らの意識の領野に固定させようとする働きを超え出て行くものだからである。善を知るに値する者とは、自らが悪しき、あるいは罪あるものと苦しみ続ける者なのだ。
もう私も無駄に年を取ってしまい、この物語に出てくるような純粋でプラトニックな、人格そのものを目的とするような他者との関わりは不可能になりつつある。仕事では勿論のこと、仕事を離れて関わる多くの人々との関係もそれ自体としてある程度の打算を孕まざるを得ないし、私に関わってくる人々とてそれはまた然りだろう。利用されるだけの価値があるうちが花だよといえばそれまでだが、事実もうアルカディアに戻ることはできないのだし、17歳のように夜が明けるまで話をすることも最早体力的に叶わない。あのような美しい世界、目的の王国は望むべくもなく、日々は暗闇から暗闇へと続くばかりだ。
だからこそ、といっては甘えだろうか。あの物語のように美しい世界と魂が時間の狭間に存在することを夢見ることくらいは、許して欲しいものだと今更ながらに私は思う。それは予め失われたものとしての希望であり、不可能であるが故に約束された精神の可能性でもあるからだ。